昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
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消えた古代文明「インカ・マヤ・アステカ展」で感じたこと

2008年01月28日 | 日記

昨日、岡山駅西口前のデジタルミュージアムで開催中の「インカ・マヤ・アステカ展」に行ってきました。

先週19日、入場者が1万人を突破したニュースを聞き、混雑を心配していましたが、約3.5時間ゆっくりと堪能することが出来ました。

会場南隣の駐車場の係りの人が前売り券をローソン(会場ビル1F)で販売していると教えてくれましたが、事前にJR緑の窓口で購入していました。

上の写真は、「インカ・マヤ・アステカ展」のパンフレットです。
裏にも写真が印刷されており、下の記事に使わせて頂きました。


4階の会場入り口です。
展示は、4・5階で、マヤ・アステカが4階、インカが5階に展示されていました。



パンフレットにあった中南米の地図で、アステカ・マヤ・インカの繁栄した地域が示されています。
「マヤ文明」は、密林にそびえる大ピラミッドを上空から迫力のある映像で鑑賞出来、群立する都市国家と、国家間の戦争、敬虔な太陽信仰と、残虐な生贄なども非常に印象的でした。
又、神や王のレリーフに「マヤ文字」が刻まれ、現在解読が進んでいることも初めて知りました。
インカ文明には文字がなかったと言われ、マヤ文明も同様と思っていました。
表音文字と、表意文字の組み合わせであると説明されており、後のインカ文明に影響しなかった理由にも興味が沸きます。

「アステカ文明」は、湖を埋め立て、大都市を建設、現在のメキシコ・シティーとしても使われている点が、オランダとの類似点を感じます。
埋立地の農業は、湖底の肥沃な土をすくい上げて生産性の高い農産物の栽培が行なわれていたことにも関心するばかりでした。
スペインに征服されて出来た現在のメキシコ・シティーは、かっての古代都市の上に造られ、堅牢な基礎の石組みはそのまま利用されているようです。

「インカ帝国」では首都クスコを中心に帝国全土に総延長4万キロの「インカ道」が造られていたそうです。
山岳地帯の絶壁に延々と築かれた「インカ道」は、想像を絶する大事業だったと思われます。
又、インカ王が死んでも領土や、召使は保持され、ミイラとなった王の生活は継続されていたようです。
次の王は、新たな領土を確保する必要があり、それがインカ帝国の急拡大の背景となっていたと考えられているようで、インカ社会のユニークさを感じます。
現在でも集落の道端の小屋に安置されたミイラに日常的な挨拶や、お祈りを行なう習慣が残っているようで、生死の区別が緩やかな文化に驚くばかりでした。



パンフレットに印刷されていたマヤ文明古典期後期(AD600-900)の「ヒスイの仮面」です。
カラクムル遺跡最大のピラミッドにある神殿の床下の墓から発見されたそうです。
仮面は、王の顔につけて埋葬されており、光沢のある美しい緑の翡翠(ひすい)のモザイクで全体を覆っていますが、部分的に貝、黒曜石なども使われており、技術の高さに感心します。

紀元前5000年前からの青森県の縄文遺跡「三内丸山遺跡」でも糸魚川産の翡翠(ひすい)の加工品が多く発見されています。
翡翠(ひすい)は、硬石とも言われ、とても硬い石でのようで加工にはかなり高い技術があったようです。



今日の見学で最も印象的だったのがこの「ワシの戦士象」で、アステカ文明 後古典期後期(AD1345-1521)と日本では室町時代にあたります。
人と同じ位の大きさで、両膝の位置に鷲の足ような三本の爪が付けられていました。
神に捧げる生贄(人)を得るために戦いに行く戦士の家に置かれていたそうです。
パンフレットに掲載されていた写真です。



写真は、墓地から発掘された父と、子のミイラで、乾燥したインカでは比較的簡単にミイラができるようです。
同じような帽子をかぶり、親子仲良く墓の中で生活するように埋葬品に乾燥した食糧があったようで、深い家族愛を感じるものです。

インカ文明では、人の生死に対する区別が非常に緩やかだったようです。
人は、死んだ後にミイラにされ、それまでと同じように生活する習慣があったようです。
インカ帝国が、急速に拡大した理由も、先代の王が死後も領地を保有し、新しい王の領地は新たに得る必要があったためとも言われています。



「キープ」が展示されていましたが、まったく写真が撮れなかったので会場外の案内パネルを写しています。

インカには文字がなかったと言われ、ヒモの長さ・色・結び目などで情報を記録し、伝えるこの「キープ」が使われていたようです。
沖縄県でも「キープ」と同様の「藁算」が近年まで使われており、このブログ<2007-04-29 竹富島の「藁算」は、古代インカ帝国にもあった>にも記載しています。


「キープ」の拡大した写真です。
よく見るとかなり複雑なものです。

聖徳太子の時代、中国の「随書倭国伝」の倭人の風俗を「文字が無く、木を刻み縄を結ぶ」と記載されているようです。
古代日本でも「キープ」や、「藁算」があったかも知れませんね。

その他、三文明に共通する彩色土器の芸術的な形状、絵、模様の美しさにも関心させられました。
厚みがとても薄く、焼物や、彩色の技術の高さは、予想外でした。

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