ITエンジニアは,厳しい納期を守るために,徹夜や長時間労働を強いられることが多い。こうした過重労働が原因で病気になったり万一死亡した場合,どんな補償を得ることができるのだろうか。

 1990年5月に,銀行のオンライン・システム開発プロジェクトでリーダーを務めていた33才のSEが,自宅で脳幹部出血により死亡した。「過労死」と考えた両親と妻は,SEが所属していたソフト会社であるシステムコンサルタントを相手取って,損害賠償請求訴訟を起こした。

 この裁判で,両親と妻は次のような事実を指摘した。

(1)SEは,79年に入社して以来労働時間が年平均約3000時間にも上る恒常的な過重労働を続けていた。死亡直前3カ月間は1カ月当たり約270~300時間,死亡直前1週間の労働時間は73時間25分と特に過重だった。

(2)プロジェト・リーダーに就任してから死亡するまでの1年間は,極めて困難な内容のプロジェクトの責任者として,スケジュールの遵守を求める顧客と増員や負担軽減を求める協力会社の間で板挟みとなり,高度な精神的緊張にさらされていた。これにより,入社直後からの高血圧症がさらに悪化していた。

(3)死亡する1年前からはドライブにすら行かず,「疲れた」と言って夕食後早々に寝てしまう状態で,疲労困憊していた。また,死亡前日は,休日であるにもかかわらず呼び出され,午前9時前に出社して午後9時ごろまでトラブルの原因調査の作業を行っていた。

 東京高等裁判所は,こうした事実を認めたうえで,「システムコンサルタントは,83年から高血圧症が相当悪化していたことを定期健康診断の結果で認識していたにもかかわらず,脳出血などの致命的な合併症に至る可能性のある過重な業務に就かせない,あるいは業務を軽減するなどの安全配慮義務を怠った。その結果,高血圧症を悪化させ,高血圧性脳出血の発症に至った」と認定。安全配慮義務違反により発生した損害の賠償責任を免れない,と判断した。

 ただし,SEも精密検査や医師の治療を受けず自らの健康について何ら配慮していなかったことから,損害賠償金額は半分に減らすのが妥当と判断,システムコンサルタントに合計3237万円の支払いを命じた。(東京高等裁判所1999年7月28日判決,判例時報1702号88頁)

 IT業界で働くプロジェクト・マネジャーやSE,プログラマは,慢性的な過重労働を強いられているケースが多い。過重労働が続けば,それが原因で病気になったり,最悪の場合死亡に至ることもある。今回は,業務に起因する病気や死亡に対する企業側の義務と社員の権利について解説しよう。

労働災害に対する補償

 業務または通勤に起因する負傷・疾病・死亡のことを「労働災害(労災)」と呼ぶ。労災が発生すると,過失の有無を問わずに企業に労災補償の義務が発生することが,労働基準法により規定されている(表1)。

表1●労災補償の種類(カッコ内は労働基準法の条項)
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表1●労災補償の種類(カッコ内は労働基準法の条項)

 もっとも,労働基準監督署によって社員の負傷・疾病・死亡が「労災」と認定された場合は,「労働者災害補償保険法」に基づく「労災保険」)制度により,保険金が企業に支払われる。つまり,労災保険の給付金によって,企業は労災補償の出費を免れるわけだ。労働基準監督署による労災の認定は,厚生労働省が定めている労災認定基準に沿って行う。2001年12月12日には,冒頭の判決なども参考に脳・心臓疾患に関する基準を改正している(表2)。

表2●脳・心臓疾患の労災認定基準
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表2●脳・心臓疾患の労災認定基準

 では,労働基準監督署によって労災と認定されなかった場合,あるいは労災保険による労災補償では満足できなかった場合,社員またはその遺族にはどんな手段が残されているのだろうか。

 こうした場合,社員または遺族は「債務不履行」(民法415条)または「不法行為」(民法709条)を理由に,企業に対して損害賠償を請求できる。冒頭の事件も,労働基準監督署から「業務外の原因による死亡」と判断されて労災保険の給付を拒絶されたために,遺族が「安全配慮義務」の「債務不履行」を理由に企業に対して訴訟を起こしたものである。

業務との相当因果関係が必要

 安全配慮義務とは,「労働者が,使用者の設置する場所,設備もしくは器具などを使用しまたは使用者の指示の下に労務を提供する過程において,労働者の生命,身体などを危険から保護するように配慮すべき義務のこと」を指す。

 企業がこの義務の履行を怠ると「債務不履行」となり,社員に対して損害を賠償しなければならない。これは,自衛隊員の職務上の事故に関して国に安全配慮義務違反による損害賠償責任があるかどうかが争われた「自衛隊八戸車両整備工場損害賠償事件」の最高裁判例(1975年2月25日判決 民事判例集29巻2号143頁)によって確立された考え方である。

 ただし,安全配慮義務違反を理由に企業に損害賠償責任を負わせられるのは,「業務に起因して負傷,疾病または死亡が生じた場合」のみである。社員にもともと高血圧症などの疾患がある場合には,この判断は非常に難しい。

 冒頭の判例では,裁判所は「SEがもともとかかっていた高血圧症が原因の1つになっていたこと」を認めつつ,過重な業務と脳出血死との間に「相当の因果関係」があると認定した。この認定の根拠が,冒頭の判例で示した(1)~(3)の事実である。しかし,被告となる企業は社員の労働実態を把握していないことも多い。そこで,社員の側としては,万一に備えて勤務歴や休日の取得状況をできるだけ克明に記録しておくべきである。

辛島 睦 弁護士
1939年生まれ。61年東京大学法学部卒業。65年弁護士登録。74年から日本アイ・ビー・エムで社内弁護士として勤務。94年から99年まで同社法務・知的所有権担当取締役。現在は森・濱田松本法律事務所に所属。法とコンピュータ学会理事