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太陽の光に照らされて、はっと目が覚めた。切り立った崖と沢に囲まれて一人。何日こうしているだろう。
昨日も、「明日は目覚めないかもしれない」と覚悟して目を閉じた。でも、また朝が来た。意外と人って死なないんだな。それなら、目が覚めなくなるまで生きてみよう――。
2010年の夏、埼玉県の
今も「山岳救助史の奇跡」と語り継がれる壮絶な13日間。あの時、山で何が起きたのか。あれから、多田さんはどう生きてきたのか。
登山ポスト見落とす
どうしてあんなミスをしたのか。いま思い返してもよく分からない。
2010年8月14日の朝、東京都大田区の会社員、多田純一さんは、お盆休みを使って、一人で両神山に入った。埼玉県の秩父市・小鹿野町にまたがる標高1700メートル超の山。登山歴1年。そろそろ高い山に挑戦したい頃だった。
いつもなら必ず、登山道の入り口にあるポストに登山届を出していた。両神山にも目立つポストがあった。なのにこの時はなぜか、見落としてしまった。
登りは軽快。山頂で一息ついて、下山を始めた。
途中、山道が二手に分かれた。「せっかくだし、下りは違うルートを通ってみよう」。この判断が、二つ目の大きな間違いだった。
荒れた道に焦り「あっ、やばい」…気づけば崖下に
未整備の荒れた道に入り、焦りながら歩いていると、傾斜に足を取られた。「あっ、やばい」。そう思った時には、体がごろごろと崖を転げ落ちていた。
沢の近くで止まった。痛みはない。頭から順に触って自分の体を確認する。ふと、左足に目が留まった。
噴き出す血、左足に激痛
ぶらんと力なく垂れ下がり、靴下が真っ赤に染まっている。恐る恐るよく見ると、太い骨が皮膚を突き破って飛び出し、傷口から「ぼこっ、ぼこっ」と血が噴き出していた。
突然、思い出したように激痛が走った。「死ぬかもしれない」。持っていたシャツを裂き、携帯灰皿のひもで縛った。携帯電話は圏外。歩けない。助けが来るまで耐え抜くしかなかった。
2日目。「ここに自分がいる!」。そう伝えようと、ポリ袋に免許証や保険証を入れて沢に流した。左足の血が止まらない。映画で見たシーンを思い出し、ナイフを火であぶって傷にあてた。絶叫しながら繰り返して、ようやく血は止まった。
3日目。バケツをひっくり返したような雷雨。夜闇の中、左足をライトで照らすと、巻きつけたタオルの中に数十匹のウジ虫が集まっているのが見えた。
持っていたあめ玉7個は、この頃には食べきってしまった。空腹に耐えられず、アリやミミズも口に入れる。渇きが限界に達し、ペットボトルに自分の尿をためて飲んだりもした。けがをした左足は真っ白になり、腐乱臭が漂う。
変な夢をたくさん見た。宇宙人にさらわれてけがを治してもらう、友人が万病に効く漢方薬を持って来る――。なぜか前向きな内容ばかりだったのは、今思うと、まだ希望を捨てていなかったからかもしれない。
山にカラスが飛んでいない「まだ生きてるよ」
同じ頃、山のふもとでは、多田さんの行方を多くの人が必死で捜していた。
「くさり場のある、秩父の百名山に登ってくるね」
母の三八子さん(72)が覚えていたのは、多田さんのこの言葉だけ。登山届もない。秩父の百名山は両神山を含めて3か所あり、どの山にも登山ルートが複数ある。埼玉県警の山岳救助隊は広大な範囲を捜索したが、手がかりのないまま1週間が過ぎた。
「この時期を過ぎて、生きていた例は少ない」。救助隊員の言葉が家族の心に突き刺さった。
そんな時、両神山の一部を所有し、長年、ボランティアで遭難者の救助にあたってきた山中豊彦さん(67)が言った。
「死体にはカラスがたくさん集まるはずだけど、今は山にはそれほど飛んでいない。たぶん、多田君はまだ生きてるよ」
山中さんはこうも言った。「指名手配写真を作るぞ」。家族が力を合わせ、多田さんの全身写真を載せた捜索チラシを作成。足取りが途絶えた西武秩父駅近くで、いろんな人に見せて回った。
すると、遭難から9日目。駅前のレストランの店員が、「見慣れない客だ」と多田さんの顔を覚えてくれていた。防犯カメラの映像を見せてもらうと、確かに多田さん本人が映っている。交通系ICカードの記録で、近くからバスに乗り、両神山に向かったことも判明。「やっぱり両神山だ」。1週間以上たって、やっと捜索範囲が絞られた。
ヒット!「多田さんですか」…遭難から13日
息苦しさに目を覚ましたら、水の中だった。
遭難から10日目。まどろんでいた多田さんは、雨で増水した沢の水に
「もう死んだ方が楽かな」
この頃は、そんなことばかりを考えていた。岩に頭を打ち付けたり、舌をかみ切ったり――。考えてはみたが、勇気も体力もない。
時間だけは膨大にある。家族や恋人のことを思った。今自分が死んだら、みんな悲しむだろう。山に向かって声を上げた。両親には「先立つ不孝をお許しください」、恋人には「僕のことは忘れて幸せになって」――。このあと、記憶はぷつりと途切れている。
「ヒット!」――。遭難から13日がたった8月27日。当時、山岳救助隊の副隊長だった飯田雅彦さん(61)は、興奮した声で山中さんに連絡を入れた。
山中さんによると、この前日、沢のあたりでカラスがたくさん鳴いていたという。「これが最後」とばかりに、その沢に狙いを定めて捜してみると、増水で流された多田さんのあのリュックが見つかった。沢の上の方に、人が倒れていた。
「多田さんですか」。そう声をかけられ、目を開けた多田さん。隊員2人が自分をのぞき込むその光景が信じられず、思わず口をついて出た言葉は「手を握ってもらえますか」。ぎゅっとつかんでくれた人の手が温かくて、「生きてていいんだ」と涙がこぼれた。
飯田さんにとっても、万感こみ上げるものがあった。
ちょうど1か月前、埼玉県では山岳救助中の防災ヘリが墜落し、5人が死亡する事故が起きていた。山岳救助のあり方について深く考え込んでいたまさにその時、それまでの常識を覆す「13日間」を山の中で一人、生き抜いた青年がいた。
「多田君が生きていてくれたことが、大きな希望になった。どんなことがあっても、捜索をあきらめてはいけないと教えてくれた」。飯田さんは振り返る。
足の腐ったにおいにカラスが反応?
「カラスがあれだけ鳴いていたから、多田君の命はないだろうと思っていた。もしかすると、足の腐ったにおいにカラスたちが反応したのかもしれないね」
山中さんが言うとおり、多田さんの左足は、完全に腐っていた。切断が当然と思われたが、埼玉医科大学国際医療センターは、腐敗した左足の太い骨を取り除き、右足から細い骨20センチ分を取って二つ折りにして代わりに入れる選択肢を示してくれた。前例のない手術。右足が動かなくなるリスクもあったが、多田さんは手術を選んだ。
9回の手術と1年以上のリハビリを経て、奇跡的に左足は残った。今、左足は右足より1・5センチ短く、皮膚の感覚がない部分もある。でも、自分の足で歩くことができる。
あれから、多田さんは一度も山には登っていない。
遭難時、自分が死んだ後の幸せを祈った当時の恋人とは32歳で結婚し、2人の子供に恵まれた。遭難前と同じ東京都大田区に住んで、今も同じ会社で働いている。
今も妻とはつまらないことでケンカするし、嫌なことは嫌だし、文句も言う。
ただ、嫌なこともうれしいことも、生きているからこそだと実感している。「周りに人がいてくれることが、どんなに幸せでありがたいか。それに気づける自分になった」。普通の幸せを今、かみしめている。
福益博子記者
ふくます・ひろこ 2013年入社。さいたま支局で埼玉県警、県政などを担当する傍ら、県内の山の魅力や山岳事故の多さを取材した。18年9月から東京本社社会部。現在はJRなどの鉄道取材を担当している。30歳。
かつて世間で注目を集め、新聞記事でも取り上げた出来事。その当事者や周辺の人々にじっくりと話を聞き、当時の記憶とその後の人生に迫ります。