大学日本一に21度輝いた日本大アメリカンフットボール部が廃部の方向となった。フェニックス(不死鳥)の愛称で知られる同部は日大の体育会を代表するだけでなく、日本のアメフト界に金字塔を打ち立てたチーム。鉄拳制裁も辞さない指導と長時間練習で選手を鍛え抜いた篠竹幹夫監督(故人)が率いた黄金期には映画も制作され、ライバルチームからも畏敬の念を抱かれる存在だった。
日大アメフト部は1940年に創部。選手としても活躍した後、59年に監督に就任した篠竹氏は「ショットガン隊形」を戦術に取り入れ、広角的なパス攻撃で対戦相手を圧倒するチームを作り上げた。
大学日本一を決める甲子園ボウルでは、ライバルである関西代表の関西学院大との試合がそれぞれのチームカラーから「赤と青の対決」と呼ばれ、数多くの名勝負を生んだ。黄金期の末期に当たる89年にはアメフト部を描いた映画「マイフェニックス」も制作され、篠竹氏をモデルにした監督役は菅原文太さんが演じた。
しかし、90年代に入ると法政大など他校の台頭とともに、甲子園ボウル出場から次第に遠ざかった。44年間の監督生活で17度の学生王座に導いた篠竹氏は2003年に退任。後任監督の内田正人氏は17年、27年ぶりの学生王座に導いた。
しかし、翌18年5月に行われた関学大との定期戦で、パスを投げ終えて無防備だった相手選手の背後からタックルする悪質タックル問題が発生。公式試合の出場資格停止に伴い、関東大学1部の下位リーグに降格した。1年で上位リーグに返り咲いて20年には甲子園ボウル出場を果たしたものの、再び学生王座に輝くことなく、違法薬物事件による部員の相次ぐ逮捕という不祥事で83年の歴史に幕を引くことになった。