大阪地下鉄開業90年

英語エキスパートが訪日客対応 総勢40人が勤務する東梅田駅

改札に立つ西村祐希さん。さまざまな問い合わせに対応する =大阪市北区の東梅田駅(須谷友郁撮影)
改札に立つ西村祐希さん。さまざまな問い合わせに対応する =大阪市北区の東梅田駅(須谷友郁撮影)

駅のホームで乗降客や列車の動きを見守る鋭い視線、改札にやってくる人々を案内するときの優しいまなざし。大阪市高速電気軌道(大阪メトロ)では利用客と接する場合、社員はマスクを着用しているため、なおさら「目力の硬軟」が際立つ。谷町線東梅田駅で駅員として働く西村祐希さん(26)は入社2年目で英語が堪能だ。「いろいろな年齢層や外国の方と触れ合うことができる」。安全に、そして気持ちよく地下鉄に乗ってもらうため、奮闘の日々を送っている。

東梅田駅では前川敏昭管区駅長(59)をはじめ40人が勤務している。一日に泊まり勤務(午前8時から24時間)が12人、日勤(午前9時から午後9時)2人らが駅を動かしている。泊まりは月に10回ほどあり、仮眠は約4時間。西村さんは「疲れが出るのは泊まり明けの次の日。泊まり勤務のリズムに慣れるのはしんどかったですが、もう慣れました」と話す。

駅から梅田の繁華街が近いため、週末を中心に夜になると酔客が多いのが同駅の特徴。前川管区駅長は「東梅田はホームに可動柵があるため、危険性は高くはないが、もしホームから線路へ転落する事態になれば死亡事故につながる。われわれの力でお客さまを守らねばならない」と語る。西村さんも、ラッシュ時の午前7時半から9時、午後5時半から終電まで、ホームに立つ勤務のときは集中を決して切らさない。

 ホームに立つ西村祐希さん。落ち着いた放送を心掛けている=大阪市北区の東梅田駅(須谷友郁撮影)
ホームに立つ西村祐希さん。落ち着いた放送を心掛けている=大阪市北区の東梅田駅(須谷友郁撮影)

それでも「酩酊状態のお客さまなどお話をするのが難しいときがある」。ただ、つらい思いを癒やしてくれるのも利用客だ。ある日、改札に立っていると小さな子供が「駅員さん頑張って」と声をかけてくれた。「忘れられない。うれしかったですね」と振り返る。

大阪市福島区出身。大阪・近大付高では3年間、野球に打ち込み、近大に進んだ。3年のときに休学して1年間、米ボストンに留学し、語学学校に通った。英語をマスターした理由は航空会社に就職することが目標だったためだ。

しかし、新型コロナウイルス禍で航空会社の採用が中断。大学を卒業した令和3年春、大阪のユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)近くのホテルで社会人生活をスタートさせた。そんな中、航空会社と同じく交通インフラ業界の大阪メトロに興味を持つようになった。「学生のころに利用していた地下鉄が身近に感じられた。多くのお客さまに乗っていただく仕事はやりがいがあるし、自分の接客が好きなところや語学も生かせると思った」。4年春から大阪メトロで再スタート。研修の後、東梅田駅に配属された。

幅広い言語対応

駅勤務で「いろいろなお客さまとつながれる」と話す西村祐希さん=大阪市北区の東梅田駅(須谷友郁撮影)
駅勤務で「いろいろなお客さまとつながれる」と話す西村祐希さん=大阪市北区の東梅田駅(須谷友郁撮影)

制服の名札の下には「Hello!English」と書かれたバッジをつけている。この駅員は英語が話せますというサインだ。社内には英語のほか、中国語、韓国語などのスペシャリストもいる。前川管区駅長は「外国の方に気軽に話しかけていただいている」と説明する。

 英語で接客できることを示すバッジ(須谷友郁撮影)
英語で接客できることを示すバッジ(須谷友郁撮影)

現在、車掌になる試験を受けている。合格して、例えば「2025大阪・関西万博」の会場、カジノを含む統合型リゾート施設(IR)にアクセスする大阪メトロ中央線の車掌になったらどうだろう。「万博の成功には日本人だけでなく、外国人のお客さまの力も必要」とした上で「知らない土地で、外国の方が不安にならないように接していきたい」と力を込めた。

新型コロナ禍の後、増えていくインバウンド(訪日外国人)。西村さんは大阪メトロの一員として、対応の最前線に立つ。

浪速っ子の度肝を抜いた駅ホーム

90年を迎えた大阪の地下鉄。始まりは昭和8年、大阪市が国内初の公営地下鉄として開業した御堂筋線だ。開業当初から高いレベルのサービスと施設を目指していたようだ。

建設計画が本格化したのは、東京の人口を抜いた大正末期の「大大阪」時代。増大する交通需要への対応が迫られていた。

「世界に恥じないものを造れ」。近代大阪の都市計画をデザインした市長、関一(せきはじめ)はそうハッパをかけたという。「昭和2年に開業した東京の地下鉄よりもすばらしいものを造ろうと、設計の幹部は毎年交代で海外視察に出かけ、…」(大阪市地下鉄建設70年のあゆみ)。現場も沸いていた。

昭和8年に開業した御堂筋線の心斎橋駅。当時珍しいエスカレーターも備えていた(大阪メトロ提供)
昭和8年に開業した御堂筋線の心斎橋駅。当時珍しいエスカレーターも備えていた(大阪メトロ提供)

完成した駅は「驚嘆、浪速っ子の度肝を抜く、…」(同)施設に。天井が高くホームに柱がないアーチ構造、壁はテラコッタ積みの装飾、シャンデリア、東京の地下鉄にもなかったというエスカレーターも備えた。硬貨を入れると棒が回転して通過できる「自動改札機」のような設備も一部に置いた。

昭和8年に開業した御堂筋線で取り付けられた「自動改札機」(大阪メトロ提供)
昭和8年に開業した御堂筋線で取り付けられた「自動改札機」(大阪メトロ提供)

コンクリートのアーチ構造物は莫大(ばくだい)なコストがかかったといい、以後は造られなかったが「地下鉄は世界の大都市のステータス。当時アジア最大の大都会という自負があったのだろう」と大阪公立大の橋爪紳也特別教授は話す。

壮大な計画もあった。大阪市が昭和15年に作成した「奉天市地下鉄道計画書」。「秘」の印がある冊子は、旧満州の奉天(現在の瀋陽)で地下鉄を建設する計画を記す。設備や車両はほぼ同じで、大阪の地下鉄を丸ごと〝輸出〟する試み。奉天でも人口増で交通機関が飽和状態になっており、大阪のノウハウを活用できるとの見込みだった。戦況の悪化などで実現しなかった。

「奉天市地下鉄道計画書」にある路線計画図(大阪市公文書館蔵)
「奉天市地下鉄道計画書」にある路線計画図(大阪市公文書館蔵)

著書などで同計画を考察した奈良大の三木理史教授は「海外で建設、運営の経験を蓄積しようという考えだった。豪華な御堂筋線を造った経験も計画を後押ししたのでは」と話す。

御堂筋・谷町・四つ橋・中央・千日前 5路線がつながる「秘密のレール」

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