3月末をもって、9本のレギュラー番組から降板し、36年の芸能リポーターの一線から退いた井上公造氏(65)。ORICON NEWSでは、昭和、平成、令和の芸能取材の最前線で活動してきた井上氏にインタビューし、その模様を前後編で届ける。前編では、勇退決断の経緯から、有名人たちとの秘話、意外な恩人、さらに今後のチャレンジについて聞いた。
■「40代半ばから考えていた」引退 宮根誠司氏、島田紳助氏の反応は
――昨年末、3月末をもって勇退するとYouTubeで発表しましたが、ついにその時がきました。改めて、今回勇退を決めた理由について教えてください。
勇退って聞こえはいいですけど、持っていた全てのレギュラー番組を一旦ここですべて卒業します。今後テレビに出ることがないとは言いませんが、芸能リポーターとして出ることはないと思っています。4月以降は芸能の取材をしようと思っていません。
8年前に自律神経のバランスを崩し、実際に本番中に調子が悪くなって、病院へ運ばれたこともあります。ただ、体調面が強調されて報じられましたが勇退の直接の理由ではないですね。元気なうちに今の立場を退かないと、次のいろんなチャレンジができないということが大きかったです。
――勇退の決断はいつごろだったのでしょうか。
考え始めたのは40代半ばごろです。その後、いろいろな事情があってやめられなかったのですが、昨年4月に事務所の社長でもある妻に「来年4月にレギュラー番組全部を降りる」と伝えました。
親交のある宮根誠司さんには、それ以前から一線を退きたいと考えていることは伝えていました。2011年の島田紳助さんの引退も僕に影響を与えています。紳助さんも体調が悪かった部分がありましたし、芸能界を辞められた後に「いつまでやるの」「もっと遊ぼうよ」とよく言われていました。今回、勇退すると報告したときには「やっと仲間になれるね」と言ってもらいました。
――宮根さんへの報告はどのようにされたのですか。
宮根さんにはLINEで「ちょっと飯食いませんか?」と送ったら、その返信と一緒に「え、やめるんですか?」ときました。
僕は26年前、朝日放送の『おはよう朝日です』という番組に声をかけられ、当時局アナだった宮根さんと知り合いました。その後、ある時期は『おはよう朝日です』で一緒になって、『情報ライブ ミヤネ屋』で一緒になる日もありました。一緒に旅行にも行きましたし、よく飲みました。僕も宮根さんの考えることはわかるけれど、宮根さんも僕の考えはわかるので、LINEでもすぐに感じ取ってくれましたね。
――井上さんの勇退について、宮根さんは寂しがったりはしなかったのでしょうか。
むしろ、ちょっと羨ましがっていました。「ああ、この人は自由になるんだ」という思いがあったのだと思います。いろんな方が何歳で一線から身を引くという話が週刊誌やネットで飛び交いますが、あれはまんざら嘘でもなく、みんなどこかでそういう気持ちを持っている。今田耕司さんも「羨ましいっすね」と言っていましたし、東野幸治さんもそうでした。
■原点になった『おはよう朝日です』
――井上さんは東京だけでなく、大阪、名古屋、福岡でもレギュラーを持っていましたが、その原点は『おはよう朝日です』でした。
僕はサンケイスポーツの記者時代に、梨元勝さんに誘われて、この世界に入りました。もともとはテレビ朝日『モーニングショー』で、事務所の折衝など裏方をするつもりで入ったのですが、いつの間にか芸能リポーターとして現場に行かされるようになりました。
梨元勝さんの事務所を36歳で辞めた後、テレビのレギュラーの仕事がなくなって、原稿を書く仕事と、たまにテレビやラジオに呼ばれるだけになったんです。そんな時に声をかけてくれたのが『おはよう朝日です』でした。
実は番組側に僕を推薦してくれたのは、現在『モーニングショー』でコメンテーターをしている玉川徹なんです。玉川くんはテレビ朝日に新入社員で入ってきた時に一緒に芸能班でやって、公私共に遊んでいました。当時から理屈っぽかったですけどナイスガイで、僕が梨元さんの事務所をやめたことを心配してくれていた。
玉川くんの推薦がなかったら『おはよう朝日です』の出演もなかったですし、宮根さんとも出会えてなかった。その後にやしきたかじんさんや上沼恵美子さんの番組への出演が増え、やがて東京に戻り、東京でも仕事をするようになった。もし彼の推薦がなかったら、自分の人生はぜんぜん違っていたはずですし、感謝しています。
――テレビ番組に出演し、芸能人との人脈ができていく中で、芸能リポーターとしてのやり方を変えたそうですね
仕事のメインの場所を東京から地方に移した段階で、いい意味で芸能人と親しくなろうとしました。幸いなことに芸能人と一緒に食事へ行ったり、ゴルフに行ったりと付き合いが出てきて、より芸能人の素顔が見えてきた。
そうすると手心は加えてないですけど、自然とフォローはしようとしますよね。一時期までは、自分が知った芸能人の秘密をしゃべるのが芸能リポーターの仕事だと思ってましたけれど、ある時期から本当にしゃべらなくなりました。スクープに意味を感じなくなったんです。
たとえばスザンヌが離婚するときに、事前に情報を聞き、スザンヌ本人に「別れるんだって?」と単刀直入に聞きました。すると、いろいろ話したいと言われて、その翌日に、スザンヌがいる熊本の実家まで行きました。実家で本人とご両親から話を聞きましたが、結局、僕は離婚については事前にはしゃべらず、正式に離婚発表された後に、こぼれ話など話せる範囲のことをしゃべりました。
もう一つ印象に残ってるのは矢口真里ちゃんです。不倫騒動を起こして、仕事をしていない時期が1年5ヶ月ぐらいあったのですが、本人が仕事に戻りたいのに、戻るチャンスがない。覚せい剤でも執行猶予が終われば復帰するけれど、不倫はずっとダメみたいな空気感があることも疑問に思っていた。なんとか彼女に復帰してほしくて、所属事務所に掛け合って、本人にも話し、口説くのに半年をかけて『ミヤネ屋』で生出演してもらった。これが彼女の事実上の芸能活動復帰になりました。
昔のように情報が入って、どこかで張り込んでというスタンスでなく、事務所も本人も、テレビ局側も全て納得した上で一つのネタをゆっくり仕込んでいく発送に15年くらい前からなりました。
――著書「一瞬で『本音』を聞き出す技術」の中でも、人脈に対するこだわりを書いていますね。
僕ね、梨元さんの事務所を辞めたときに、昨日まで連絡をくれたり、普通に付き合ってた人がいっぱいいなくなったんですよ。だから人間、立場が変わった人と親しく付き合うことが大事だと思っていて。
例えばテレビ局でも出世コースに乗っていたのに、ストンって外れちゃった人とか。そういう人が系列局に行ったら、僕は会いに行きます。スポーツ選手でトレード出されて、立場が変わった人とかもそうです。引退した後の方が、僕は紳助さんと親しいし、カラテカの入江慎也くんとも芸能界をやめてからのほうが会っていますね。
■第2の人生は“コネクター”に 地方創生への思い
――4月からはどんな仕事をされるんですか。
何をやりたいんですか、と言われたら、僕はコネクターになりたいんですよね。その地域と人と人をコネクトする仕事です。
25年くらい、仕事を通して地方に行ってきたので、北海道から九州まで地方のテレビ局や企業、役所に知り合いがいる。テレビ局と行政と、地元の企業と組んで、そこに地元出身の芸能人に協力してもらい、イベントをやったり番組を作ったりして、その地域を元気にしたいんです。
僕はハワイが大好きなんですが、ハワイは観光客が減り元気がないので、ハワイを元気にするためのイベントやいろんな仕掛けをやりたい。年のうち、トータルで4か月はハワイで過ごすと思います。
あとはメジャーリーグが好きだから、何年かかけてメジャーリーグの30球場を全部周りたい。秋には米倉涼子さんがブロードウェイで主演しますから、そのタイミングに合わせてしばらくニューヨークにも行く予定です。ほかにも旅や人と会う時間を増やしたい。
この歳になると、自分の中でアウトプットするものがもうなくなってきている。インプットするものがないと吐き出すものがない。なのでそういう時間を作りたいと思っています。
【後編へ続く】
(ライター・徳重龍徳)
★YouTube公式チャンネル「ORICON NEWS」
■「40代半ばから考えていた」引退 宮根誠司氏、島田紳助氏の反応は
――昨年末、3月末をもって勇退するとYouTubeで発表しましたが、ついにその時がきました。改めて、今回勇退を決めた理由について教えてください。
勇退って聞こえはいいですけど、持っていた全てのレギュラー番組を一旦ここですべて卒業します。今後テレビに出ることがないとは言いませんが、芸能リポーターとして出ることはないと思っています。4月以降は芸能の取材をしようと思っていません。
8年前に自律神経のバランスを崩し、実際に本番中に調子が悪くなって、病院へ運ばれたこともあります。ただ、体調面が強調されて報じられましたが勇退の直接の理由ではないですね。元気なうちに今の立場を退かないと、次のいろんなチャレンジができないということが大きかったです。
――勇退の決断はいつごろだったのでしょうか。
考え始めたのは40代半ばごろです。その後、いろいろな事情があってやめられなかったのですが、昨年4月に事務所の社長でもある妻に「来年4月にレギュラー番組全部を降りる」と伝えました。
親交のある宮根誠司さんには、それ以前から一線を退きたいと考えていることは伝えていました。2011年の島田紳助さんの引退も僕に影響を与えています。紳助さんも体調が悪かった部分がありましたし、芸能界を辞められた後に「いつまでやるの」「もっと遊ぼうよ」とよく言われていました。今回、勇退すると報告したときには「やっと仲間になれるね」と言ってもらいました。
――宮根さんへの報告はどのようにされたのですか。
宮根さんにはLINEで「ちょっと飯食いませんか?」と送ったら、その返信と一緒に「え、やめるんですか?」ときました。
僕は26年前、朝日放送の『おはよう朝日です』という番組に声をかけられ、当時局アナだった宮根さんと知り合いました。その後、ある時期は『おはよう朝日です』で一緒になって、『情報ライブ ミヤネ屋』で一緒になる日もありました。一緒に旅行にも行きましたし、よく飲みました。僕も宮根さんの考えることはわかるけれど、宮根さんも僕の考えはわかるので、LINEでもすぐに感じ取ってくれましたね。
――井上さんの勇退について、宮根さんは寂しがったりはしなかったのでしょうか。
むしろ、ちょっと羨ましがっていました。「ああ、この人は自由になるんだ」という思いがあったのだと思います。いろんな方が何歳で一線から身を引くという話が週刊誌やネットで飛び交いますが、あれはまんざら嘘でもなく、みんなどこかでそういう気持ちを持っている。今田耕司さんも「羨ましいっすね」と言っていましたし、東野幸治さんもそうでした。
■原点になった『おはよう朝日です』
――井上さんは東京だけでなく、大阪、名古屋、福岡でもレギュラーを持っていましたが、その原点は『おはよう朝日です』でした。
僕はサンケイスポーツの記者時代に、梨元勝さんに誘われて、この世界に入りました。もともとはテレビ朝日『モーニングショー』で、事務所の折衝など裏方をするつもりで入ったのですが、いつの間にか芸能リポーターとして現場に行かされるようになりました。
梨元勝さんの事務所を36歳で辞めた後、テレビのレギュラーの仕事がなくなって、原稿を書く仕事と、たまにテレビやラジオに呼ばれるだけになったんです。そんな時に声をかけてくれたのが『おはよう朝日です』でした。
実は番組側に僕を推薦してくれたのは、現在『モーニングショー』でコメンテーターをしている玉川徹なんです。玉川くんはテレビ朝日に新入社員で入ってきた時に一緒に芸能班でやって、公私共に遊んでいました。当時から理屈っぽかったですけどナイスガイで、僕が梨元さんの事務所をやめたことを心配してくれていた。
玉川くんの推薦がなかったら『おはよう朝日です』の出演もなかったですし、宮根さんとも出会えてなかった。その後にやしきたかじんさんや上沼恵美子さんの番組への出演が増え、やがて東京に戻り、東京でも仕事をするようになった。もし彼の推薦がなかったら、自分の人生はぜんぜん違っていたはずですし、感謝しています。
――テレビ番組に出演し、芸能人との人脈ができていく中で、芸能リポーターとしてのやり方を変えたそうですね
仕事のメインの場所を東京から地方に移した段階で、いい意味で芸能人と親しくなろうとしました。幸いなことに芸能人と一緒に食事へ行ったり、ゴルフに行ったりと付き合いが出てきて、より芸能人の素顔が見えてきた。
そうすると手心は加えてないですけど、自然とフォローはしようとしますよね。一時期までは、自分が知った芸能人の秘密をしゃべるのが芸能リポーターの仕事だと思ってましたけれど、ある時期から本当にしゃべらなくなりました。スクープに意味を感じなくなったんです。
たとえばスザンヌが離婚するときに、事前に情報を聞き、スザンヌ本人に「別れるんだって?」と単刀直入に聞きました。すると、いろいろ話したいと言われて、その翌日に、スザンヌがいる熊本の実家まで行きました。実家で本人とご両親から話を聞きましたが、結局、僕は離婚については事前にはしゃべらず、正式に離婚発表された後に、こぼれ話など話せる範囲のことをしゃべりました。
もう一つ印象に残ってるのは矢口真里ちゃんです。不倫騒動を起こして、仕事をしていない時期が1年5ヶ月ぐらいあったのですが、本人が仕事に戻りたいのに、戻るチャンスがない。覚せい剤でも執行猶予が終われば復帰するけれど、不倫はずっとダメみたいな空気感があることも疑問に思っていた。なんとか彼女に復帰してほしくて、所属事務所に掛け合って、本人にも話し、口説くのに半年をかけて『ミヤネ屋』で生出演してもらった。これが彼女の事実上の芸能活動復帰になりました。
昔のように情報が入って、どこかで張り込んでというスタンスでなく、事務所も本人も、テレビ局側も全て納得した上で一つのネタをゆっくり仕込んでいく発送に15年くらい前からなりました。
――著書「一瞬で『本音』を聞き出す技術」の中でも、人脈に対するこだわりを書いていますね。
僕ね、梨元さんの事務所を辞めたときに、昨日まで連絡をくれたり、普通に付き合ってた人がいっぱいいなくなったんですよ。だから人間、立場が変わった人と親しく付き合うことが大事だと思っていて。
例えばテレビ局でも出世コースに乗っていたのに、ストンって外れちゃった人とか。そういう人が系列局に行ったら、僕は会いに行きます。スポーツ選手でトレード出されて、立場が変わった人とかもそうです。引退した後の方が、僕は紳助さんと親しいし、カラテカの入江慎也くんとも芸能界をやめてからのほうが会っていますね。
■第2の人生は“コネクター”に 地方創生への思い
――4月からはどんな仕事をされるんですか。
何をやりたいんですか、と言われたら、僕はコネクターになりたいんですよね。その地域と人と人をコネクトする仕事です。
25年くらい、仕事を通して地方に行ってきたので、北海道から九州まで地方のテレビ局や企業、役所に知り合いがいる。テレビ局と行政と、地元の企業と組んで、そこに地元出身の芸能人に協力してもらい、イベントをやったり番組を作ったりして、その地域を元気にしたいんです。
僕はハワイが大好きなんですが、ハワイは観光客が減り元気がないので、ハワイを元気にするためのイベントやいろんな仕掛けをやりたい。年のうち、トータルで4か月はハワイで過ごすと思います。
あとはメジャーリーグが好きだから、何年かかけてメジャーリーグの30球場を全部周りたい。秋には米倉涼子さんがブロードウェイで主演しますから、そのタイミングに合わせてしばらくニューヨークにも行く予定です。ほかにも旅や人と会う時間を増やしたい。
この歳になると、自分の中でアウトプットするものがもうなくなってきている。インプットするものがないと吐き出すものがない。なのでそういう時間を作りたいと思っています。
【後編へ続く】
(ライター・徳重龍徳)
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2022/04/03