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“背番号”譲り剥がされ計6回…21年間の現役振り返った森野さんのホンネ「やっぱり1つの方が良かった…」

2020年4月30日 12時22分

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現役時代に背番号を6度変更した森野さん

現役時代に背番号を6度変更した森野さん

[野球ファンに届ける 本紙評論家リレーコラム]森野将彦

 お世話になった中日を退団した昨年末、球団関係者から、あることを聞かれた。今後、OBが指導する野球教室に参加するための新しいユニホームを作りたいが、「背番号は何がいいか」と。普通、こんなことは聞かれない。選手によって代表的な番号が決まっているからだ。結局、悩んだ末に「31」を選んだ。
 自分ほど背番号が変わった選手はいないと思う。入団会見の直前に当時の星野仙一監督の“鶴の一声”で56から7に変わったのがスタート。「ドラフト2位で高卒なのに、7でいいのかな」と思っていた3年後の1999年7月、当時来日2年目だった李鍾範選手の希望で7と8を交換。その2年後の2001年途中、今度は波留選手がトレードで加入したときに、8を渡して空いていた16に変わった。「なんでだよ」。心の中でつぶやくしかなかった。
 7→8→16→8→31→30→7。入団前の56は別として、現役21年間で実に6度の変更があった。04年は当時の落合監督が「16は投手がつける番号」と言って8に戻されたが、06年にはドラフト1位で入団する平田につけたいと、はがされた。その年から31。幼少時に憧れていた掛布雅之さん(阪神)の番号だったし、これなら動かされないだろうと選んだ。その31も、09年オフに当時の落合監督から立浪さんが直前まで背負った3への変更を指示されたが、「自分には重い」と辞退。すでに31は別の選手の番号になっていたから仕方なく30にした。
 思えば自分から変更を望んだのは、14年から引退まで背負った7だけだった。背番号が6度も変わった野球人生を振り返ると、これだけ続けられたと誇りに思う半面、やっぱり一つの方がよかった。入団時の「7でいいのかな」ではなく、最初から、もっとしがみついて必死に努力すればよかったと感じている。
 現在の中日では、根尾が7、石川昂が2と、高卒でいきなり1桁を背負っている。それ自体を否定するつもりはないが、51から1になった鈴木誠也、63から9になった丸佳浩(現巨人)のように、実績を残して1桁へ、という広島の方法も一つの手だと思うがどうだろう。はく奪されるあの悔しさを、後輩たちには味わってほしくない。
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