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第五福竜丸の元乗組員 池田正穂さん死去

2020年2月22日 02時00分 (5月27日 05時35分更新)

第五福竜丸の被ばくを題材にしたドキュメンタリー映画「西から昇った太陽」を撮影したキース・レイミンク監督((左)から順に)と池田正穂さんと粕谷たか子さん=焼津市で(粕谷さん提供)

 一九五四年、米国がビキニ環礁で行った水爆実験で被ばくした遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」の元乗組員池田正穂(いけだ・まさほ)さんが二十日、胃がんのため藤枝市の病院で死去したことが分かった。八十七歳。静岡県出身。自宅は焼津市。葬儀・告別式は二十五日午前十一時から焼津市浜当目八九四の一、三和葬祭紫雲殿で。喪主は次男弘志(ひろし)さん。
 五四年三月一日、第五福竜丸に機関士として乗船し、太平洋・マーシャル諸島のビキニ環礁付近で操業中に、米国の水爆実験で被ばくした。その後、長年トラック運転手をしていたが二〇〇一年、脳梗塞で入院。一三年から、県内の小中学生や高校生を対象に核の恐ろしさを訴える講演活動にも取り組んだ。

◆「俺は焼津で最後の語り部」

 第五福竜丸の乗組員がビキニで被ばくして来月一日で六十六年。その直前に一人の語り部が亡くなった。
 被ばくから十三日後、焼津港に戻った池田さんを待ち受けていたのは、世間の偏見の目だった。
 実家の和菓子店が「第五福竜丸の帰還者の家」と知られ、菓子が川に捨てられているのを何度も目撃した。受け取った補償金は少額なのに「金持ち」と陰口をたたかれたこともあった。次男の弘志さん(53)には、父親が人前で被ばく体験を語るような人ではないと映っていた。
 転機は二〇一三年九月。「語り部として登壇してほしい」とせがむ孫の愛都(まなと)さん(28)のひと言だった。孫が通った島田樟誠高に姿を見せ、初めて自身の体験談を語り始めた。これまで講演依頼などはかたくなに拒んできたが、「孫の頼みを断る理由がない」と二つ返事で引き受けた。
 真剣に話を聞く子供たちの様子に感銘を受け、その後も子供たちの前に出て語りを続けた。晩年は病気で入退院を繰り返していたが、「俺は焼津で最後の第五福竜丸の語り部だ」と口ぐせのように話していた。
 語り部としての活動を支えた元教員で、県母親大会実行委員長の粕谷たか子さん(70)は「彼の人生を伝えることが、そのまま核兵器の悲惨さを伝えることにつながった。今までの長旅、本当にご苦労さまでした」と悼んだ。
 昨年三月、焼津市で開かれた「3・1ビキニデー集会」で、ある映画が紹介された。題名は、元船員が被ばくした時の様子を表現した言葉にちなんだ「西から昇った太陽」。米国人監督が池田さんら元船員三人の証言をまとめた映画で、池田さんは「六十五年がたって、このような映画ができるとは思いもしなかった」と感慨深げに話していた。
 「亡くなる直前まで、核兵器に関するニュースには敏感だった」と弘志さんは振り返る。数十年来の付き合いという焼津市原水爆禁止協議会の成瀬実代表(83)は「苦しみや悲しみ、苦々しさ。苦渋の心もようを話せるのは体験者だけ。私たちとは言葉の重みが全く違った」と、別れを惜しんだ。
(佐野周平、大橋貴史)
 <ビキニ水爆実験> 1954年3~5月、米国が太平洋・ビキニ環礁などで計6回実施。第五福竜丸が受けた3月1日の爆発の威力は、広島型原爆の1000倍とされる。他の日本漁船も延べ1000隻以上が被ばく。米エネルギー省によると、日本全土や米国にも放射性降下物が注いだ。池田さんの死去で、被ばくした乗組員23人のうち生存するのは、当時船長の筒井久吉さんら3人となった。

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