【企画・NAGOYA発】車だん吉さん『お笑いマンガ道場』18年間を振り返る「なお美ちゃんとは仲が悪いと書かれたこともありましたが…」
2022年1月2日 14時34分
◇「令和版」にも唯一出演
◇第3回「お笑いマンガ道場」特別インタビュー第2弾
中京テレビ(名古屋市)が制作した伝説の漫画大喜利番組「お笑いマンガ道場」で初回から最終回までレギュラーを務めたタレントの車だん吉さん(78)。解答席から見た伝説の番組の18年間を振り返った。
◇ ◇ ◇
―昨年9月、27年ぶりに制作された「令和版」に当時のレギュラー解答者として唯一出演された
だん吉さん「番組が終わって27年。こんな形で復活だなんて不思議でしようがないですね」
―収録の雰囲気は?
「一緒に出演した柏やん(司会の柏村武昭さん)、初代プロデューサーの沢田さんをはじめ、当時のアシスタントやタイムキーパー、大道具さんとかたくさん集まって同窓会みたい。スタッフにもこんなに愛されていたんだなと。マンガ道場は鈴木先生と富永先生の『バトル』はあったものの、全体的にほんわかムードだった。今回は芸人さんが多くてギャグに走ったところがあったかも」
◇夜にお勤めの女性から人気
―番組は18年間、高視聴率を記録した。幅広い視聴者層も特徴だった
「夕方に放送していたので、夜の飲食店にお勤めの女性が出勤前のお化粧時間に見ていたみたい。銀座の女性から僕のマネジャーに『一度だん吉に会いたい』と問い合わせがあったと聞きました。先日亡くなった落語家の笑福亭仁鶴師匠の番組に出演した時には、師匠から『おはようございます。あ、これは漫画の先生』と…」
―出演のきっかけは、番組の構成作家だった大岩賞介さんが浅井企画の年賀状のイラストを描いていただん吉さんを知っていたからとか
―出演のきっかけは、番組の構成作家だった大岩賞介さんが浅井企画の年賀状のイラストを描いていただん吉さんを知っていたからとか
「賞ちゃんは大将(師匠の萩本欽一さん)のブレーンでしたから。大将にはものすごい数の年賀状やファンレターが届くんです。ある日、大将が『年賀状をもらってそのままってまずいから、お正月に年賀状を返そう。だん吉、書いてくれない』と言われて、6、7年書いていました」
◇欽ちゃんの番組に人から
―当時は「カックラキン大放送!!」などの全国ネット番組にレギュラー出演されていた。ローカル局の出演依頼だったが
「あんまりこだわらなかったですね。漫画を書くのは好きでしたし、やらせてください、と。新しい分野の番組に参加できるうれしさもありました。マンガ道場に出るまでは『欽ちゃんの番組に出ている人』という印象が強かったけど、番組が全国に広がったことで、どこに行っても『マンガ道場に出ている車だん吉』と言ってもらえるようになりました」
―富永一朗さん、鈴木義司さんを含め3人で18年間レギュラーとして完走された。富永さんの推薦で日本漫画家協会にも入会された。お2人との交流は?
「富永先生とは18歳の年齢差はありましたが、息子みたいだと言われて家族ぐるみのおつきあいをしていました。鈴木先生も都内に住んでいた当時の家が近かったので、名古屋の収録から帰ると、お宅に伺って飲んだりしてましたね。富永先生は『漫画家はみんな個人でやっていて、誰もが俺が一番だと思っているから普通は仲が良くない』と言っていたけど、あの2人は仲良かった」
―だん吉さんといえば、番組の最後を飾る女性レギュラーとの「おまけコーナー」。川島なお美さんとは最長の7年間共演した
―だん吉さんといえば、番組の最後を飾る女性レギュラーとの「おまけコーナー」。川島なお美さんとは最長の7年間共演した
「当時、電車に乗っていると僕に気づいた高校生が『だん吉、なお美のおまけコーナー~』って言い始めるんです。内心嫌だなって思ってましたけど(笑)。なお美ちゃんとは仲が悪いと新聞で書かれたこともありましたが、そんなことは全くなくて、なお美ちゃんが番組を離れてからも、テレビの企画でロケバスに隠れてなお美ちゃんを待つというサプライズをやったら、とても喜んでくれました」
―だん吉さんは、ゲストを含め解答者全員と絡む役回りだった
「あるドラマにゲスト出演した時に、アットホームな雰囲気と言われていたのが実際はレギュラーだけが固まっていてゲストが輪に入れなかった経験をしたんです。ゲストってともすれば浮いてしまうから何かを足してあげたり、言ってあげたり、そういう目配り、気配りはしたほうがいいのかなと思っていました」
―番組が18年間続いた理由とは
「歴代のプロデューサーもマンネリを防ごうと、漫画じゃなくて歌やお芝居をやってみたり、鈴木先生と富永先生のバトルをやめたこともある。でも、バトルをやめると数字(視聴率)が落ちてしまう。以前、石坂浩二さんが水戸黄門をやった時にひげをつけないとか印籠を出さないということもあったけど、結局印籠を出さないとお客さんが納得しなかった。まあ、偉大なるマンネリというか、安心感ですよね」
―90年に東京での収録が始まるまで名古屋に14年間通われた
「マンガ道場が始まってからは中京テレビから24時間テレビに出演したりしましたね。名古屋には愛着があるし、第2の故郷みたいな感じがします。今でも、当時通っていたお店から年賀状が届くので、またいけたらいいなと思います」
―自身の中でのお笑いマンガ道場の存在とは?
「マンガ道場さまさまですよ。経済的な面でも娘は間違いなくマンガ道場で育ててもらいました。また、富永先生と家族ぐるみのお付き合いができ、本当に楽しい18年でした。これだけ長く出ていて嫌な思い出が何もなかった。どんな番組でもレギュラーの中に1人くらい嫌なやつがいたり、正直言って行きたくないってことがあるんですけど、マンガ道場は収録に行くのが毎回楽しかった。和気あいあいとやっていることが視聴者にも伝わったんじゃないですかね」
◇ ◇ ◇
▼車だん吉(くるま・だんきち) 1943年12月6日生まれ、78歳。東京都出身。立正大卒。芸能プロ・浅井企画の事務員を経て岩がん太と「コント0番地」を結成。住み込みで萩本欽一の身の回りの世話をした。その後は日本テレビ系の「カックラキン大放送!!」などに出演。76~94年に「お笑いマンガ道場」でレギュラーを務め、「ぶらり途中下車の旅」でもリポーターとして活躍。2005年からはNHKEテレの教養番組「ピタゴラスイッチ」で百科おじさんの声を務めている。
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