人気落語家・立川志らくさんが、師匠にして伝説の噺家である七代目・立川談志との日々を綴った自伝エッセイ『師匠』。
本誌連載時から話題を呼んだ同作が、まもなく単行本として刊行されます。
そこで、かつての談志が絶大な信頼を寄せ、「俺の未練を置いてく」とまで言わしめた爆笑問題・太田光さんをお迎えして、ふたりが目の当たりにした談志のすごみ、知られざる素顔について語り合っていただきました。
対談は、在りし日の談志が暮らした「練馬の家」にて。いまだ冷めない情熱の余韻とともにお届けします。

撮影/大西二士男

太田光×立川志らく
太田光×立川志らく
書斎の机上には談志が泥棒に宛てた手紙と「御苦労賃」が。

「未練は太田に置いてく」遺言に秘められた想い

志らく 太田さん、この書斎には以前もいらっしゃったことありましたっけ?
太田 えぇ。5、6年前ですかね、テレビの収録で一度お邪魔してます。もうほんと、談志師匠の残り香だらけで(笑)。この机と椅子に座って書き物をされてたんだなぁとか、書棚を眺めるだけでも古今東西、やっぱりすごい勉強家だったんだなっていうのがわかりますよね。この蔵書、志らく師匠もときどきめくられたりするんですか?
志らく いや、あまりめくらないですね。やっぱりほら、紙のもんだから、勝手にこうパラパラやって破れちゃったりしたら罰当たるじゃないですか(笑)。
太田 談志師匠の罰はおっかないですもんね(笑)。けど志らくさん、お忙しいでしょうに、エッセイ書く時間なんてどこにあったんですか。
志らく いやいや、むしろ初めは暇つぶしだったんですよ。しんぼうろうさんが2年ぐらい前、ヨットで太平洋単独横断の旅に出かけちゃったでしょう? 留守の間、ニッポン放送の午後の番組(「辛坊治郎ズーム そこまで言うか!」)の代打を週に1回やってくれと言われて。「ひるおび」(TBS系)の生放送が終わり、そのあとラジオの出演まで3時間ぐらい間が空いちゃうから、だったら師匠のことを本にでも書いてみようかってことで、喫茶店でコツコツ。結局、辛坊さんの帰国が延びて、半年ぐらい代打やってるうちに書き上がっちゃったんです(笑)。
太田 じゃあ、辛坊さんのおかげで完成したみたいなもんですか(笑)。

――談志の愛弟子、談志が一目置いた芸人としてかねてから親交のあるおふたりですが、そもそも最初に出会われたのはいつ頃のことだったんでしょうか。

志らく 高田(文夫)先生の主催するイベントじゃなかったでしたっけ? 80年代の終わりぐらい、麻布の――。
太田 そうそう、麻布の温泉の上にあったハコでしたよね。
志らく そのイベント、確か昼夜2回公演だったんですよ。一方の前座が私、もう一方は爆笑問題が前座で。私の記憶だと、そのときの爆笑問題はコントやってたんじゃなかったかな。漫才じゃなく。
太田 そうだ。デビューしたての頃で、俺ら漫才よりコントがメインだったんで。
志らく とはいえ、高田先生のチョイスで出ただけだから、お互いの存在もよく知らないし、楽屋でしゃべったりもしてないと思う。それこそ、お互い日芸(日本大学藝術学部)の出身だってことを知ったのも随分あとになってだから。
太田 だからまあ、言ってみりゃ最初はそれぞれ駆け出しの芸人として出会ったわけですよ。けど、そのあとしばらくしてこっちは諸般の事情で丸3年ほどテレビに出れなくなっちゃって、逆に志らく師匠は談春師匠と「立川ボーイズ」ってユニット組んで漫才やって人気者になった。あっという間に明暗が分かれちゃったんです(笑)。立川ボーイズが出てたのは「平成名物TV」(89年2月~、TBS系)の2部でしたっけ?
志らく そうそう。
太田 ほいで、バカルディ(現在のさまぁ~ず)あたりも出てましたよね。俺はそうやってね、同世代の芸人たちが活躍していくのをとにかく見てらんなくて。ジェラシーだらけですよ、もう。ましてや、志らく師匠や談春師匠みたいな落語家に、遊びで漫才やられたらたまったもんじゃないってね(笑)。
志らく とはいえ、爆笑問題が本格的にブレイクしたのは数年後の「ボキャブラ天国」(92年10月~、フジテレビ系)でしょう? その頃、こっちは立川ボーイズも下火でテレビにも出なくなってたから、爆笑が売れていくのはやっぱり嫉妬がありましたよ。太田さんが毒吐くのを見ながら、「俺の毒もこの人に取って代わられちゃうんだな」って(笑)。けど一方で、「いいんだ。これからは落語に集中するんだから」って自分を慰めて。
太田 それは知らなかったな(笑)。
志らく ついでに言うとね、うちの師匠が亡くなる間際に太田さんと対談やって、そこで「俺の未練は太田に置いてく」と言い残したままあの世に行っちゃったんですよ。それを知ったときに私、「えっ、なんで太田くんなの!? というか、むしろ未練を置いてくなら志らくじゃないの!?」と思って(笑)。
太田 志らく師匠、あの一件をいまだにずっと根に持ってんだよね(笑)。
志らく そりゃあだって、立川流でもない、ましてや落語家でもない人に未練を置いてくって、普通納得いかないでしょう(笑)。ただね、没後になっていろんな人から、「どうして志らくはテレビに出ねえんだ」って生前の談志がよくこぼしていたと聞かされたんです。そこでハッと気づきました、私に足りないのは知名度なんだって。知名度のない志らくに未練を置いてってもせいぜい守備範囲は落語くらいのもの。その点、売れっ子の太田さんなら談志の未練も広く語り伝えてくれる。あれは「もっと売れて有名になれ」っていう師匠からのメッセージだったんだと今さら思い至った。それ以降は顔と名前を売るべくワイドショーに出たり、「M-1」の審査員をやったり、テレビに顔を出すようになりました。
太田 志らく師匠、今や「ひるおび」で嬉々としてスイーツ食べてコメントしたりしてますもんね(笑)。
志らく 10年近くテレビ出てますとね、美味しくないものを食べても「うまいです」って、なんの躊躇ためらいもなく言えるようになるもんです(笑)。

太田光×立川志らく

立川談志という落語家が大嫌いだった

――そもそも、おふたりが落語家、コンビ芸人としてのキャリアをスタートする以前、立川談志という存在に対してはどんな印象を持たれていたんですか。

太田 ウチの親父が一時期、落語家を目指してたぐらいなんで、実家に(五代目古今亭)志ん生や(八代目桂)文楽のテープがいっぱいあって、自分もよく聴いてたんですよ。だからもともと落語ってものが好きだし、憧れもあった。大昔、自分の単独ライブで2回ぐらい、落語をやったこともあるんで。
志らく そうなんですか?
太田 えぇ、ひとつが『元犬』で、あとは『初天神』だったかな。まあお遊びなんで、めちゃくちゃな出来でしたけど。で、立川談志っていう存在に関していうとね、とにかくウチの親父が大嫌いだったんですよ(笑)。志ん生なんかと比べても、生意気なばっかりでちっとも面白くないって。けど俺自身は子供の頃から「危ないオヤジだなぁ」っていう印象は持ってたものの、でもやっぱり(ビート)たけしさんが尊敬する存在ってことで気にはなっちゃうし、テレビやなんかでの過激な言動も含めて魅力的な人だなぁと思ってましたよね。
志らく 正直私もね、大学生の頃まで立川談志という落語家は好きじゃなかった。というより、大嫌いだったんです。「花王名人劇場」でちょっと落語を聴いたことがあるくらいで、イメージとしては元国会議員のテレビタレント、口が悪い、生意気。下町育ちで落語好きの父親から「談志なんか聴いたら悪影響を受けるからやめとけ」と言われてたのもあって、私にとって談志の落語は生で聴く対象じゃなかったんです。
太田 われわれの親世代は、異分子的な談志の存在を認めない空気があったから。
志らく ましてや(十代目きんげんていしょう師匠、(五代目柳家)小さん師匠、(三代目古今亭)志ん朝師匠が現役バリバリで、(十代目柳家)小三治師匠ですらまだ青いって言われてた時分だから。そういう中で私の好みとしては、とくに渋いところでもって馬生師匠。もし弟子入りするなら馬生師匠以外ないと決めてました。

――志らく師匠はエッセイの中で、馬生師匠のことを「水墨画のようなシブい落語をやる名人」と評されていますね。

太田 だけど馬生師匠、早くに亡くなっちゃいましたよねぇ。
志らく 私が大学一年のときでした。居ても立っても居られなくて葬儀に行って、その帰りにふらっと池袋演芸場に寄ったんです。すると、よりによってトリが談志(笑)。「なんだよ、談志じゃしょうがねぇじゃねぇか!」って。でもまあ、とりあえず聴くことにして。すると談志の弟子がぞろぞろ出てくるわけ。のちに私の兄弟子になる方たちですが、みんなインチキな談志のマネで口ひん曲げて(笑)。勘弁してよって思ってたら、ようやく談志が出てきたんだけど、その日はどこか様子がおかしい。馬生師匠の思い出をぶつぶつ話してばかりでさっぱり落語をやる気配がなくて、そのうち痺れを切らした客が「早く落語やれ!」とヤジった。するとその客に向かって談志がこう言ったんです、「いや、すまねえ。今日は落語やる気分じゃねぇんだ。銭返すから帰ってくれ」って。結局、その日は落語をしなかった。
太田 それもすごい話ですよね。
志らく けど、その様子がなんだかものすごく格好よくて、それから談志の出る寄席に通うようになったんです。すると、枕なんざ振らずに『居残り佐平次』や『らくだ』、『ねずみあな』なんかの大ネタをいきなりやり出したりするもんだから、「うわっ、すげぇ!」と。聴けば聴くほど、過去の名人たちの匂いと現代的な感覚の両方がある。「こんな落語家いたのか!」って、もう痺れちゃって。

――その後、志らく師匠は日芸・落語研究会の先輩である高田文夫さんに腕前を認められ、それがやがて立川談志の下へ弟子入りする足掛かりになるわけですが、一方、太田さんと談志師匠の交流はどんな経緯で始まったんでしょうか。

太田 それはやっぱ俺も高田先生の存在が大きくて。先生の推薦で銀座ソミドホールの立川談志独演会に呼んでもらったのが最初の出会いですね。それこそ俺らが「ボキャブラ天国」でまたテレビに出れるようになった頃かな、高田先生から「落語界では談志と(三代目古今亭)志ん朝を押さえておけば大丈夫だから」って耳打ちされて(笑)。しかも出番が談志師匠のトリネタの前。そこで漫才やったら思いのほか客にいいウケ方をしたんです。ほんと、ラッキーでした。その日の楽屋ですよ、談志師匠に「太田、このチビ(田中裕二)は絶対切るなよ」って言われたのも。あのとき、志らく師匠もその場にいらっしゃいました?
志らく もちろん。なにせうちの師匠に引っかかる芸人ですからね、当然気になるじゃないですか。もともと毒っ気のある芸人は好きだけど、誰でも引っかかるわけじゃないんで。

――といいますと?

志らく だってほら、浅草キッドは実際引っかかってないわけで。同じ毒でも、談志の好きな毒とそうじゃない毒がある。あと、師匠と太田さんの好みが似てるってのもあったと思う。太田さん、チャップリンも手塚治虫もお好きでしょう?
太田 好きですね。
志らく ヒューマニズムの王道を愛するっていうところで、シンパシーがあったんでしょうね。

――太田さんはお弟子さんたちとは別のポジションで談志師匠と時間を共にする機会も多かったと思うんですが、太田さんの目にはどう映っていましたか。

太田 いやぁ、打ち上げなんかでもよく隣に座らされたりしたんだけど、やっぱ独特の緊張感があってね、おいそれと話すわけにいかないじゃないですか。それこそイリュージョン落語の話なんかを延々されて、「どういう意味なんだ?」って疑問に思ったりもするんだけど、ヘンに突っ込んで「それは違う」って言われるのも怖いでしょ(笑)。かと思えば、興が乗ってくると「志ん生ならこうやる」とか「文楽ならこうだ」とか、錚々そうそうたる名人たちの語りを目の前でいちいち実演して見せてくれるんですよ。それがもうねぇ、ほんと惚れ惚れするほどで。
志らく 師匠の名人語りのダイジェスト実演、なんだったら高座でやるよりうまかったですからね(笑)。
太田 それこそ談志を全身で浴びてるような感覚っていうかね。こんな幸福なことないよなって時間の連続でした。ただ、師匠を送り出したあと、家に帰ると毎回どっと疲れが出ましたけどね(笑)。

太田光×立川志らく

談志のジレンマと古典落語への情熱

太田 あと、やっぱり談志師匠っていうと、いくつもジレンマを抱えてる人だなっていう印象はありましたよね。

――ジレンマですか。

太田 この前、ラジオの談志特番に呼ばれたんですよ。そこで最近の寄席に集まる客の中には「立川談志って誰?」っていう世代も増えてるんだけどそれについてどう思うか、みたいなことを聞かれて。それはまあ時の流れだから仕方ないなと思いながら、ふとね、その冷酷さというか、談志を知らない客が寄席を訪れる未来を一番に予見して危機感を持っていたのは、ほかでもない、生前の談志師匠自身だったんじゃないかと思って。
志らく なるほどね。
太田 例えば、談志師匠はお弟子さんだけじゃなくて、外様の俺なんかにも古川ロッパだとか、ビリー・ワイルダーの面白さってものを伝えようと、いつも延々ず~っと説明してくれるんですよ。あるときは、「ウチにあずま武蔵むさしのテープがあるから、今度聴きに来な」とかね。
志らく 東武蔵は明治から昭和初期にかけての浪曲師なんですが、急にそんな名前出されても普通わかんないでしょ。
太田 当然、見たことも聞いたこともないから「よく知らないです」って答えるしかない。すると談志師匠、露骨にガッカリした表情してね(笑)。おそらくそういう局面って無数にあったはず。そこで「おまえ、そんなことも知らねぇでよく芸人になったな」っていう憤りと、一方で「まあこれも時の流れなんだから仕方ない」という諦念、その狭間でジレンマを感じ続けてたんじゃないかなぁ。芸事に関して談志師匠の頭の中にあるものがあまりに豊富すぎて、常人はなかなかついてけない。言うなれば、談志師匠ほどマニアックな人はいないですよ。だけど本質がマニアックだから、逆に万人受けするようなメジャー性は苦手というか、持ち得ない人だったじゃないですか。そこにもジレンマを抱えて葛藤してたんじゃないかと思うんですよね。
志らく それはあるでしょうね。
太田 談志師匠の根本には、やっぱり古典落語ってものへの尋常じゃない思いがあったわけじゃないですか。
志らく 命懸けてましたから、そこに。
太田 だからね、「笑点」を企画して初代司会までやったのも─まあ後にあの番組は自ら否定するんだけど─落語人気がどんどん落ちてくなかで、少年時代の自分が愛した古典落語の凄さをどうすれば改めて一般層に伝えられるか、そこを突き詰めた故だと思うんです。極論、談志師匠からしてみりゃ、古典落語がゴールデンタイムに視聴率20%取るような状況じゃないのはおかしい、許せないって話だったと思うんです。自分が命を捧げる古典落語をお茶の間のど真ん中に復活させるにはどうすりゃいいのか、そことずっと格闘してたんですよ。

――対世間のジレンマも抱えていたと。

志らく 夜の番組で実験的な演出で落語やったりもしてましたね。ネタ1本、細かく細かくカットを割って、全編カメラ目線にしたら迫力が伝わるんじゃないかって。けどオンエア観たら、もう暑苦しくてしょうがない。だって枕からサゲまで、どこまでもカメラ目線の談志、談志、談志。それが延々続く。さすがに視聴者もチャンネル変えますよ(笑)。

――太田さんも映像作品『笑う超人 立川談志×太田光』で、談志師匠の演じる『黄金餅』と『らくだ』を実験的なカメラワークで撮影されていましたよね。

太田 だから談志師匠の葛藤はすごく伝わってきたし、それこそ師匠が枕なしで大ネタに入る時のゾクゾクっとするあの感じを、もしゴールデンで一回でも見せることができたら、日本中が「参りました!」って言うはずなのになぁっていう歯がゆさは僕自身も持ってたんで。

太田光×立川志らく

「師弟関係」の面白さといびつ

太田 晩年はまた別のジレンマというか、苦しみを抱えてらっしゃいましたね。喉頭がんで手術が必要なのに、でも噺家にとっての命である声帯を失っちゃうから手術は絶対しないって。
志らく それで声がちゃんと出ないまま高座を務めるんだから、弟子としても居たたまれない。普通のマイクじゃ声が拾えないってことで、胸のあたりに特別なマイクをつけての高座で。ハアハア漏れる息まで拾っちゃうし、まるで一筆書きのような落語で、テンポも何もなくて。
太田 そういや、たまたまその頃に志らく師匠と会う機会があって、今でもはっきり覚えてるけど、「もし声が出なくなっても、どんな姿であれ談志師匠が高座に上がるだけで客は面白いから、手術してもいいんじゃないですか?」って聞いたんです。すると志らく師匠、悲痛な表情で「もう許してやってほしい。これだけ全部さらけ出してるのに、これ以上何を望むんです?」とおっしゃって。それを聞いて、俺は談志がどれほど苦しもうがその姿をギリギリまで見届けたいっていう、あくまで客目線で談志を見てたんだと痛感した。一方の志らくさんはまるで肉親の目線で談志師匠を見てる。そこに師弟関係っていうものの凄さをいやでも感じましたよね。

――太田さんはそういった特別な絆で結ばれた師弟関係というものに憧れを抱いたりすることはなかったんですか。

太田 いや、自分にはまず無理ですよ。そもそも上下関係ってのがもう得意じゃないっていうか。もちろん、たけし軍団もそうですが、敬愛する人に近づきたい気持ちはわかるんだけど、俺の場合、どっちかっつうとそういう仰ぎ見るような存在からは遠ざかりたいから(笑)。ましてやそんな人の下で厳しい修業なんて、とてもじゃないけど務まんないです。

――談志師匠は「修業とは不条理に耐えることだ」とおっしゃっていますね。

太田 というか、談志師匠って弟子の育成、ちゃんとやってたんですか?
志らく いや、何もしてないです(笑)。
太田 そうでしょう? 全然育成してるように見えなかったから(笑)。
志らく 落語は三席教わったけど、あとは何も。これを見ろとか、あれを学べとか絶対言わないんで。好き勝手やれっていうだけ。だからたぶん、談志に弟子の育成能力はなかったはずなんです。
太田 でも、すごいですよね。それで立川流から志の輔、志らく、談春っていう売れっ子が3人も出るんだから。
志らく それで言うと、談志が弟子を引き連れて落語協会を脱退、寄席を飛び出したのが結果的によかった。前座や二つ目が寄席で経験積めないとなったときに、「いいか、おまえら勝手にやれ!」「わかりました、勝手にやります!」って自主的にやれる人間だけが実力をつけて売れ、やらない人間はいつまで経っても売れないっていう、それだけの話なんで。
太田 なるほどね。
志らく 私はとにかく談志と価値観を共有したいという思いが強かった。それで師匠お気に入りの懐メロ、三橋美智也や藤山一郎あたりを片っ端から聴いて覚えるわけです。そこからどんどん興味が広がって、戦前の音丸という歌手のCD全集が出たと知るやすぐに入手して師匠に渡して、「そうか、志らく。おまえ音丸なんてのも聴いてんのか」と言ってもらえるのが嬉しかったりね。だけど、それだけ。師匠のお気に入りを勉強したからって、何かご褒美に特別なことを教えてくれるわけじゃないんで。
太田 弟子としては、師匠の好きなものなら絶対面白いはずだって話ですよね。
志らく えぇ。ひいてはそれが必ず芸の役にも立つはずだと、勝手に思ってただけです。きっと談志は、落語家なんてのは人から教わってなるもんじゃない。やる気があって、才能を信じて自ずから精進する人間でないと到底務まる稼業じゃないって考えてたんでしょうね。

太田光×立川志らく

談志の「大人げなさ」と弟子育成のバリエーション

志らく とはいえ私も、談志の人間性まではよくわからないまま入門して、やがてそのハチャメチャな素顔を知って頭抱えたんですが、もしあのすさまじい落語をやる人じゃなかったらすぐに弟子をやめてたと思います(笑)。
太田 ただ理不尽なだけじゃあ、やってられないですよね(笑)。
志らく 理不尽ってことで言えばね、こんな話もありますよ。談志の十八番は『芝浜』だっていう人も多いけど、談志の本質は人情噺じゃなくて、『金玉医者』とか『せんの虫』あたりのナンセンスな滑稽噺なんです。だから本来は人情噺なんて大嫌いで、弟子がやると嫌がる。あるとき私が『たちきり』をやってたら、師匠がわざわざ舞台袖に来て「こいつは今、何やってんだ?」って前座に尋ねるんです。「『たちきり』です」って答えるや否や「あんなのはな、メソメソ泣いてりゃあ誰だってできる。つまんねぇ噺だ!」と大声で切り捨てる。それ、普通に聞こえてくるんですよ、高座の私にも、聞いてるお客さんにも(笑)。そういうこと平気でやる人でしたから。
太田 ひっどいなぁ(笑)。
志らく 同じく、談春兄さんが人情噺で泣かせにかかろうもんなら、ものすごく怒ってましたね。そのくせ自分の高座では『芝浜』も『子別れ』も平気でやっちゃうんだから手に負えない(笑)。
太田 人情噺自体は嫌いだけど、俺ならこんなふうに演じられるんだぞっていうのを客や弟子に見せつけたいんでしょうね。そういう意味ではほんと、ズルい師匠っていうか(笑)。
志らく そう、ズルいんです(笑)。もうひとつ付け足すと、あるとき独演会の打ち上げで談志が上機嫌な様子でこう言ったんです、「俺の持ちうるメジャーな部分をやってる志の輔、美学をやってる談春、イリュージョンをやってる志らく。3人合わせたら談志になるかな」と。
太田 あぁ、面白いですね。
志らく けど、しばらく考えたのちにこう付け加えた。「いや、やっぱならねぇか。まだ足りねぇよな」って(笑)。すごく嫉妬深いというか、自分の弟子に対しても嫉妬するようなところがあったので、だからなんというのかな――。
太田 ちょっと大人げないとこありましたよね、師匠(笑)。
志らく そう、大人げなかった(笑)。
太田 弟子のことを素直に認めたくないみたいな。ちなみに志らく師匠、自分のお弟子さんは育成されてるんですか?
志らく いや、師匠の影響か、私も弟子育成はあまり熱心とは言えなくて。
太田 けど、お弟子さん大勢いらっしゃるじゃないですか。今、何人ぐらい?
志らく えっと、17人かな。
太田 17人!
志らく だけど、辞めてった弟子も同じ数くらいいますから(笑)。初めて弟子を取るとき談志に相談したら、「面白いから片っ端から取っちゃえ!」って。
太田 そんな無責任な(笑)。
志らく 弟子入りっていうとほら、入門が許されるまでひと月ぐらい師匠の自宅に通って玄関先を掃除するとか、何度断られても食らいついてくるヤツを最終的に弟子に取るとか、談志はそういう美学が大嫌いだったから。であれば、欧米の大学みたいに、入るのは簡単だけど出るのは難しいっていうふうにしちまえって。
太田 なるほどなぁ。
志らく 同じ立川流でも、志の輔兄さんはそれこそ箸の上げ下ろしまで本当に細かく教えるタイプ。談春兄さんは弟子を怒鳴りつけて、怒鳴りつけてっていう、恐怖政治でしょう(笑)。ほんと、師匠は同じでも、師弟関係っていうのはさまざまなんですよ。

太田光×立川志らく

コロナ禍の真っただ中に談志が生きていたら

――今年は談志師匠の十三回忌にあたる年なんですが、志らく師匠は先日、還暦を迎えられましたね。

志らく 落語家ってのは60歳からが勝負なんです。六十代が円熟期で一番いいって、かつて色川武大先生もおっしゃってた。そして、その六十代のお釣りで七十代、八十代を生きてくっていうね。

――談志師匠が亡くなったのは75歳のときでしたよね。

志らく 六十代の談志もやっぱりすごくよかったんだけど、六十代後半からは病魔との闘いだったから。もしあそこで病気にかからず、元気にやってたら今は八十代後半でしょう?
太田 八十代の談志の落語、聴いてみたかったですね。
志らく おそらく往年の談志とは全然違う芸域に達してたはずだし、今の世の中をどうさばいてたんだろうなって、想像するだけで面白いですよね。コロナ禍の真っただ中、一体どんな様子で高座に上がってたのかなぁ、とか。
太田 談志師匠、ちゃんとマスクしてたんですかね(笑)。
志らく ああ見えてかなり臆病で、年がら年中、胃カメラ飲んで検診受けてるような人でしたからね、陰ではしっかりマスク着けて、人前に出るときだけガバッと外して露悪的にふるまうとかね、そういう感じだったかもしれない(笑)。

――今回のエッセイで初めて立川談志という存在を知る若い読者もいるかもしれません。彼らに改めて談志の凄みを伝えるとしたら、どのような点になりますか。

太田 なんだろうなぁ。やっぱり談志師匠自身が、自分は古典落語の凄さにはかなわないって、生涯いてた人だと思うんですね。そして自分が寄席通いをした少年時代のように、なんとかエンタメのど真ん中に落語を再び持っていきたいと足搔き続けた人でもあった。その足搔き自体が、談志師匠の凄みになってたと思うんです。その苛烈さっていうものを感じてほしいですよね。
志らく さっきも話しましたけど、名人の感性で古典やるだけでも凄いのに、そこへさらに現代を匂い立たせるのが談志の凄さです。今なら柳亭市馬師匠の古典を聴けば、誰もが「落語っていいもんだな」って思ってくれるはず。けど、そこへ現代性を自然に盛り込めたら、もっともっと凄い落語になる。それをやっていた談志の境地を、われわれは残りの生涯を懸けて目指せばいいのかなって思ってます。

太田光×立川志らく
「練馬の家」の庭には、かつて談志の愛した桜の木が。

「小説すばる」2023年11月号転載