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天才の育て方

スケート選手清水宏保の母さん 津江子さん:1 父の通夜、その日も練習は続けた

2007年07月10日

 マスコミの取材から解放され、津江子が長野五輪スケート会場「Mウエーブ」を去ろうとしたときだった。宏保が観客席に現れると、「これは母さんのものだから」と言いながら、金メダルを津江子の首にかけた。半べそをかいたような笑顔だった。

写真長野五輪スピードスケート男子500メートルで優勝した清水宏保選手。日本スケート史上初の金メダルだった(98年2月)
写真スケート選手清水宏保の母さん・津江子さん

 1998年2月、困難を乗り越え、家族全員でつかんだ金メダルだった。

    * 

 74年2月、北海道帯広市で小さな建設会社を営む均・津江子夫婦に4人きょうだいの末っ子として生まれたのが宏保だ。その宏保が小学2年のとき、均は胃がんで余命半年の宣告を受けた。しかし、ベッドから離れられなくなることを恐れ、手術を拒否。ワクチン治療を選んだ。

 「自分は宏保が成人するまでは生きられない。宏保は才能があるスケートで、大学に特待生として入学させたい。自分が少しでも動けるうちに鍛えよう、と夫は思ったんです」

 朝4時半に起きて朝練。朝練がないときは学校に行く直前に縄跳び100回。授業中は何度も居眠りして先生にしかられた。放課後はスケート団で午後7時まで練習。さらに30分以上、リンクを回った。均はすべての練習に付き添った。

 ある日、津江子が練習を見に行くと、宏保が泣きべそをかきながら滑走していた。ところが、均の前にさしかかると何でもない顔をする。通り過ぎると再び泣いた。何周回っても、決して父には泣き顔を見せなかった。

 親子の執念の前に、がんはしばらく活動を停止したかのようにみえた。しかし、宏保が高校に入ったころから徐々に、均の体調は悪化し始めた。固形物を受け付けなくなり、点滴しながら宏保の練習や試合に向かう。宏保が高校2年の年末、とうとう入院を余儀なくされた。

    * 

 「宏保は2度お見舞いに行きましたが、『こんなところに来ないで練習しろ』と2度とも追い返されました」

 高校総体が迫っていたのだ。

 年が明けて行われた大会で、1000メートル、1500メートルに優勝。均はそのビデオを何度も何度も見て、数日後に息を引き取った。宏保は通夜の日も休まず、黙々と練習した。それこそが均が一番喜ぶことと信じたからだ。(敬称略)

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