(1974年準々決勝 鹿児島実5―4東海大相模)

 試合が進むにつれて鹿児島実のエース定岡正二は、不思議な感覚に包まれていった。東海大相模(神奈川)との準々決勝。「疲れも恐れも何にもない。楽しくて仕方がない。今で言うゾーンに入ったんでしょうね。その後、プロ野球に入ってもああいう感覚はないです」

 184センチの長身を生かして真上から投げ込む。持ち球は直球とカーブ。後に定岡の代名詞になるスライダーを覚えたのは、巨人に入ってからだ。大会前、さほど注目されなかった右腕だが、初戦(2回戦)の佼成学園(西東京)と3回戦の高岡商(北陸)を完封する。2試合とも1―0の薄氷の勝利だった。

 「僕もたいしたもんですね。チームは打てなかったけれど、守備が非常に洗練されていたから信頼していました」。大会1週間前の調整期間でさえ、36歳の青年監督久保克之は1千本以上のノックの雨を降らせた。投手力を中心とした守備重視、攻撃ではバント重視。それが今にもつながる鹿実の野球だ。

1974年のできごと

  • 巨人の長嶋茂雄が引退
  • 超能力ブーム
  • セブン―イレブン1号店が開店

 対する東海大相模は打撃のチーム。この大会の9年前に三池工(福岡)を率いて初出場優勝を飾った原貢が監督で、長男辰徳が1年生で5番を打っていた。「全員が金属バットのグリップエンドいっぱいに持って振ってくる。1年の辰徳でさえ」と定岡は驚く。金属バットの使用が認められたのはこの大会からだった。「錦江湾に浮かぶ小舟が巨大戦艦に向かったようなもの」。定岡は優勝候補との戦いを、桜島を抱く故郷の海を引き合いに言った。

 一回、その原辰徳との対戦を迎える。2死二、三塁。原はそれまでの2試合でいずれも2安打1打点と好調だった。「とはいえ、1年生ですからね。どれほどのもんじゃ、という気持ちがありましたよ」。ところが2ストライクからの3球目、外角の直球を中前に運ばれ、2点を許す。

 すかさず鹿児島実は二回に定岡の左中間二塁打で同点とし、2番溝田誠道(せいみち)の二塁打で逆転する。

 「ここで点を取れなかったら7―1とかで負けていたんじゃないかな。自分が打ったから根拠のない自信がわいてきて、がっぷり四つくらいにはいけるんじゃないかと」

 そこから、だ。外角への直球とカーブが面白いように決まりだし、八回まで10奪三振。実に八つが見逃しだった。「変な欲もなく、力も入っていないから思い通りにいったんでしょうね」。九回に勝利まであと1人までいきながら同点に追いつかれるが、「また次の回も投げられるという思いも強かった」。十二回の守りでは2死二塁から二塁手の中村孝が背後にふらふらっと上がった打球をダイビングキャッチ。サヨナラ負けを免れた。

 十四回にも両チームが1点ずつ。時計は午後7時を回っていた。「ナイターというのも初めてでうれしかった。ずっと炎天下で投げてへばっていたので、力もわいてきた」。十五回、押し出しの四球でみたびリードを奪う。ついに、定岡が最後の打者をこの日18個目の三振に切る。213球目。外角の直球。見逃し。「ビデオを見たけれど捕手の構えたところに糸を引くような素晴らしい球でした。この試合を象徴するような」

 控えめにガッツポーズをした後、定岡の記憶に残っているのはスタンドの観客の様子だった。

 「いろんなファンが涙なのか、汗なのか、雨なのか、顔をぐちゃぐちゃにしてネットの方へ来るんですよ。ああ、人ってこんなに喜べるんだ。そのことにすごく感動しました」

 巨人の長嶋茂雄は、この試合のテレビ中継を練習の合間に見ていたと、後年のインタビューで明かしている。定岡はその年の秋、ドラフトで長嶋新監督の巨人から1位指名を受ける。「人生の礎になった試合ですね」。定岡はそう振り返る。(堀川貴弘)

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 さだおか・しょうじ 1956年、鹿児島市生まれ。74年秋のドラフトで巨人から1位指名。85年に引退するまで通算51勝42敗。引退後はタレントとしても活躍。兄智秋、弟徹久も元プロ野球選手。