福田正博がいま振り返るドーハの悲劇「僕はプレッシャーに負けた」

現役時代は浦和レッズ一筋、引退後も解説者としての立場からレッズ、および日本サッカーを見つめてきた福田正博氏に、食事へのこだわりとドーハの悲劇で学んだ重圧への対処法について話を伺いました。話進めていくうちに「ミスターレッズ」からは、もがき苦しんだJリーグ開幕当初の挫折経験、そして2015年は惜しくもチャンピオンシップ準決勝で敗れた浦和レッズへの愛に満ち溢れたメッセージも飛び出しました。(忘年会特集浦和 忘年会)

福田正博がいま振り返るドーハの悲劇「僕はプレッシャーに負けた」

福田正博がいま振り返るドーハの悲劇「僕はプレッシャーに負けた」

食事をするっていうのは大切ですね。友だちと食事に行くのもいいけれど、僕は家族と行くほうがリラックスできます。

独身の時は、野菜を食べなきゃいけないとか、何を食べなきゃ行けないとか気になっていました。でも、ご飯がストレスになっちゃいけないんですよね。楽しく食べないと効果的に吸収されないんです。

何を食べたかじゃなくて、重要なのは何を吸収できたかなんです。吸収する体力と環境がないといけない。1人で食事をしていても、楽しくないし、次はこれを食べよう、あれを食べようなんていちいち考えていると、おいしくなくなって食べられなくなってしまう。練習だけで疲れているのに、そっちでも疲れてしまうんです。

日本代表では、監督が出すものを全部考えるビュッフェ形式の食事でした。十分に考えられているので、適当に皿に盛っていけばバランスが取れるようになっている。メニューを選ぶ楽しみもありましたし、チームメイトと一緒に食べられるという環境もよかったですね。

もがき苦しんだJリーグ初年度「あまりにも急に環境が変わりすぎて…」

今思い出すと、Jリーグ初年度の1993年なんかは、浦和のチームメイトと一緒に食事に行く暇はほとんどなかったですね。午前練習のとき、ときどき昼にラーメンを一緒に食べるくらい。地元の選手に連れられて、中華料理のチェーン店に行ったりもしていました。

チームメイトと食事に行く時は、食事中自然とサッカーの話になっていました。戦術の話だったり、チームの話だったり。アドバイスなんて偉そうなことは言えなかったですよ。それに、たぶん僕には相談しづらかったと思います。僕はインプットよりアウトプットの方が多いから。だから誰かがしゃべろうとしているときにこちらから話してしまう(笑)。

僕は柱谷幸一さん(現ギラヴァンツ北九州監督)に焼き肉に連れて行ってもらったりしていました。どちらかというと僕は自分1人でいろいろな問題を抱え込んでいたかもしれません。あまり自分の弱いところを見せたくないという性格なので、当時相談できたのは柱谷さんぐらいでした。

あの当時は外食する頻度が高くなかったと思います。外に食べに行くと、人に見られたりしてストレスがありましたから。当時は勝てなかったから、なかなか町には行けない。歩いても嫌なことを言われていました。それがストレスになっていましたね。

1992年にプロサッカーがスタートし、アマからプロになる過渡期で、クラブ間のプロフェッショナルという考えにかなり差がありました。それまでアマチュア実業団として日本サッカーリーグを戦っていた三菱や古河は出遅れていたと思います。チームも混乱していたし、その中の選手は、僕も含めて混乱していました。あまりにも急に環境が変わりすぎて何が何だかわからなかった。僕自身も思うように自分をコントロールできなかったですね。

みんなにとって初めての経験なので、誰もプロフェッショナルの振る舞いを教えてくれない。サポーターやスポンサーにどうやって接していいかわからない。ゲームの後にどういう態度をとればいいのかわからない。もがき苦しんでいた感じでした。

「ドーハの悲劇」で学んだ重圧への対処法とは

加えて1993年は、アメリカワールドカップ最終予選もありました。「ドーハの悲劇」のときは本当に辛かった。1996年の足首骨折、1999年のJ2降格も辛い思い出ですが、「ドーハの悲劇」は僕にとって特に大きな転機でした。

ドーハの時は何もできませんでした。ハンス・オフト代表監督の時代に主力選手として出場してきて、ある程度監督からも信頼を得ていた中で、その期待に応えることができなかった。自分自身に歯がゆさがありましたね。

僕に経験があまり無かったし、失敗をすること、負けることに対しての恐れがあまりにも大きすぎた。勇気が無かったのだと思います。それはプレッシャーに負けたという一言になりますけど、その重圧に対して自分がどういうふうにうまく向き合っていかなければいけないのか。それをずっと考え続けてきました。

やっとわかったのは、プレッシャーから逃げてはダメだということ。試合の中でプレッシャーがかからないようにしようというのは、プレッシャーから逃げようとしているだけであって、乗り越えて成長していくものではないんです。

プレッシャーはかかるものだから、そういう事態になるというのを受け入れて、うまくいかないのを前提に考えるんです。パニックに陥らないように、自分はプレッシャーがかかるとこれぐらいしかできないんだと認める。そして、その中でどのようにやっていこうかという考え方をもっていったほうがいい。

愛する浦和レッズへのメッセージ「プレッシャーに正面から向き合って」

浦和レッズは今年、優勝争いの渦中にいました。置かれている状況から考えると、プレッシャーがかかるのは当たり前。ピッチの中に入ったら、いつも4万人とか5万人とかサポーターがいるわけで、そこには大きなエネルギーがあるんです。

そこで「優勝」という言葉を使わないようにしていたり、先を考えないと言ってしまうのは、逃げているだけに思えます。シーズン終盤で失速するのを、もう「当たり前」だと思って、その中でどうやれば優勝できるか考えたほうがいいのではないかと思いますね。最悪の状況になることを理解した上で準備する。それが必要ではないでしょうか。

よくオシム監督が「責任感の強いヤツほどプレッシャーがかかる」「チームに思いがあればあるほどプレッシャーはかかる」と言っていました。だからプレッシャーがかかってるから自分がダメだとか、かからないようにしよう、ではなくて、正面から向かい合えるようになればいいと思います。ずっとプレッシャーに打ち勝つことができなかった僕は、今、みんなにそう伝えたいと思っています。

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著者・SPECIAL THANKS

福田正博

福田正博

元プロサッカー選手。ポジションはフォワード。
中央大学卒業後、1989年に三菱(現浦和レッズ)に入団。以来、2002年の現役引退まで浦和一筋で「ミスターレッズ」とも呼ばれる。1993年には日本代表としてドーハの悲劇も経験。
2008年から2010年までは浦和でコーチとして復帰し後進の指導にあたった。2010年の浦和退団後は解説者としてさまざまな媒体で活躍中。
神奈川県出身、1966年生まれ。

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。

                             
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