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長谷川初範、いじめがきっかけで始めた剣道。米留学時は侮辱してくる相手に竹刀「本当に頭に来た瞬間があって」

1977年に今村昌平監督が校長を務める横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)の二期生として在籍時に舞台『ええじゃないか』で初舞台を踏み、1980年に『ウルトラマン80』(TBS系)で主人公・矢的猛役を演じドラマ初主演をはたした長谷川初範さん。

1991年には大ヒットドラマ『101回目のプロポーズ』(フジテレビ系)でヒロインの亡き婚約者と彼にソックリでヒロインの心を惑わす男の二役を演じ、ダンディーな二枚目ぶりが注目を集める。

『純情きらり』(NHK)、主演映画『TAKAMINE~アメリカに桜を咲かせた男~』(市川徹監督)、舞台『ピサロ』など多くのドラマ、映画、舞台に出演。2022年2月19日(土)には映画『リング・ワンダリング』(金子雅和監督)が公開になる長谷川初範さんにインタビュー。

 

◆いじめられる日々から抜け出すために剣道の道場へ

北海道紋別で生まれ育った長谷川さんは、小さい頃はからだが弱くていじめられっ子だったという。

「あまり身体(からだ)が強くない脆弱(ぜいじゃく)な子どもだったので、父親にスパルタで育てられて。小学校のときから冬は毎日暗いうちに起こされて車でスキー場まで連れていかれて、スキーを持って上に上がらされて、朝日とともに滑る。それを2本やって家に帰って朝食を食べて学校に行くんです」

-なかなかのスパルタ教育ですね-

「実家は裕福でしたけど、小遣いはもらえませんでした。父から自分で稼ぎなさいと言われていたので、小学校2年生くらいから港で鯨を引き上げるための杉の木を剥いで砂浜に並べるアルバイトをしていました。中学時代はキャディーのアルバイト。当時はカートがなかったので、背中にゴルフクラブを背負って6時頃からのスタートで、授業がはじまる前までやっていました。

父は祖父がはじめたスーパーマーケットを営んでいて、その3代目にさせるために貨幣のことを学ばせようと思ったんでしょう。たっぷりお小遣いをやってバカ息子になるよりはということだったと思うんですけど、バカ息子はバカ息子なんですけどね(笑)。

中1のときにラジオで聴いたエリック・クラプトンのバンドに感動して、そのレコードを買って来て、この感動を町の人たちにも伝えたいと思って、スーパーの2階の窓から外にスピーカーを目一杯出して、フルボリュームでかけて流したんですよ。

町の人もみんな僕と同じように感動しているだろうなぁと思って外を見たら、すごいみんな迷惑そうな顔をしていてね。『あれ? 僕の感動とみんな違うのかな?』って思ったんだけど、『あそこのバカ息子はまた変なことをやっている』みたいな感じで(笑)」

-せっかく自分と同じ感動を味わってもらおうと思ったのに-

「そう。そういう風にちょっと変わっていたかもしれないですよね。それで小学校に入学してから身体があまりにも弱いので、いじめっ子にいじめられていました。

友だちにも言えないし、先生にも言えないし、非力な自分がイヤで『強くなりたいなぁ』って。小学2年生のときに友だちが剣道を習いはじめたというので、父親に剣道を習いたいと言いました。そして家から歩いて行ける近所の道場に通いはじめました。

僕は母親がデザインしたオリジナルのジャケット、半ズボンに白いタイツで、まさにおぼっちゃまスタイルの服装で、はじめて剣道の道場に行って『今度からタイツは脱いでね』って言われたときは(笑)。

そこから男の子教育みたいなのがはじまって、上下関係はあるけれども兄弟みたいにして上の人たちと過ごして…、いまだに仲が良いです。みんな札幌にいるんですけど、剣道の仲間だけは本当に財産だなあと思います」

-剣道でかなり優秀な成績を残されたそうですね-

「意外とハマって(笑)。1年間ずっといじめられていたわけですから、身体的に強くなりたいというのは魂の叫びでしたし、剣道がおもしろかったのですよね。

ある種、芸事って模倣なんですけど、次から次へといろんな技を自分で見て覚えて、自分でやってみる。そして子どもたちの後にある大人たちの稽古を見て、その技を次の日に自分でやってみて習得していく。それと教えていた先生たちが非常に優秀でうまい先生たちだったので、きれいな剣道を模倣できたんですよね。

その後、練習を重ねて全国大会に出て最優秀個人賞をもらって、そのときに日本テレビの会長だった正力松太郎さんに『武道館で関東大会をやるから小学生の部で出てくれないか』と言われて出場したら優勝しました」

-すごいですね。さすがにいじめられることはなくなりました?-

「彼は2年生か3年生のときに引っ越していきました。『おかげさまで強くなりました』って言ってやりたい(笑)。今振り返るとそれがきっかけですから。いじめられていなかったら剣道をやっていなかったと思います」

※長谷川初範プロフィル
1955年6月21日生まれ。北海道出身。1977年、今村昌平監督が制作の舞台『ええじゃないか』で初舞台を踏み、1978年、『飢餓海峡』(フジテレビ系)でドラマ初出演。1980年、『ウルトラマン80』で初主演。1991年、『101回目のプロポーズ』で武田鉄矢さん演じる主人公の恋敵を演じ注目を集める。連続テレビ小説『純情きらり』(NHK)、『俺の話は長い』(日本テレビ系)、映画『TAKAMINE~アメリカに桜を咲かせた男~』(市川徹監督)、舞台『No.9 -不滅の旋律-』などドラマ、映画、舞台に多数出演。60歳を迎えてからバンドを結成し音楽活動も精力的に行っている。

 

◆高校1年のときに交換留学生としてアメリカへ

長谷川さんは、高校1年生のときにロータリークラブの交換留学生として米国オレゴン州ニューポート高校に留学することに。

「剣道のエキスパートとして行くことになったんですけど、なかなか渡米できない時代でしたし、お父さんたちが戦争の兵隊さんたちという世代ですからね。

そういう意味では生々しい時代のいわゆる差別用語があり、偏見に満ちていたり…、そのなかで剣道のエキスパートとして防具と竹刀を持ってアメリカに行って『剣道をやりませんか』って誘ったんだけど、毛嫌いされていて剣道をやりたい人はいませんでした。

ちょうど陸上競技とアメリカンフットボールのシーズンが終わって、アメリカンフットボールのマッチョな人たちが、筋肉をつけるためにレスリングに来る時期で、アメリカの海兵隊みたいな二人が『長谷川、お前はレスリング部に入るべきだ』って勧誘に来たんです。

理由を聞くと、日本のレスリングチームが前にオレゴンに来たとき対戦したらめちゃくちゃ強かったからだと。お前たちがやっている剣道とか柔道は強い。それは戦争のときから有名だ。日本人は強いって。だからお前もレスリング部に入らないかって、とりあえず見学だけでもと誘われました。

剣道は柔道と違うと思ったんですけど、窓もない密封された体育館の裏にある広いレスリング場に連れて行かれたら、3、40人のマッチョな男たちが汗まみれになって練習する姿や熱気に圧倒されてしまったことを憶えています。

次の日から僕も136パウンド、62kg級で入って、僕らはまだ高校1年生なので2軍、2年生、3年生が1軍。このチームで練習を2週間くらいした後にツアーがはじまったんです。

オレゴンの各地区の高校で夜試合をするんですが、まさに町の一般市民の方々のエンターテインメントなんです。生放送のラジオ中継が入って、スクールバンドが入って、チアガールが入って、町中の人が見に来る。

腕を組んで座って筋肉を誇示すると強く見えるわけ。そんな連中がずらっと並んでいるんだから、最初はもう怖くて怖くて足がすくんでね。

でも、最初は怖かったけど、そのうち負けてばかりいるのが悔しくて研究していくうちに、だんだんハマっていって力もついてきたんです。その甲斐あって地区大会のメンバーに入ることができました。結局チームは負けてしまいましたが、いい経験になりました。

レスリングを一生懸命がんばったので、やっとみんなに認めてもらったんだけど、日本人だからといってからかわれたり、やんちゃな奴らに囲まれたり、すごい侮辱してくるやつもいました。

あるとき本当に頭に来た瞬間があって、ロッカールームから竹刀を持って向かって行ったら、蜘蛛の子を散らしたみたいに逃げて行ったんです。

それで次の日その話題になっていて、『昨日すごかったんだって?』みたいな感じでね。アメリカって、まっとうに向かって行くということが評価されるところだと実感しました」

-いろいろな体験をして帰国されてからは?-

「身体は鍛えて胸囲が1メートル20センチくらいになりました。学生服は力を入れたらバキッて破けるわけで(笑)。バーベルを買って毎日持ち上げていたり、鉄下駄を買ってそれで学校まで走って通っていました」

-すごいですね。何を目指していたのですか?-

「そう思いますよね(笑)。アメリカ留学中に一緒に住んでいたのがレスリングの先輩だったんですが、部屋でいつも筋トレをやっていたんですよ。

それで僕も『何のためにそれをやるの?』って聞いたら、『お前バカなんじゃないのか。これから俺たちは世の中に出るんだよ。そのときに身体を鍛えておかなかったらどうやって戦っていくんだよ。アメリカの社会はタフな世界なんだぜ』って言われて『はい、すみません』って(笑)。その言葉が僕にすんなり入ったんです。それから僕も身体を鍛えようとトレーニング方法を全部教えてもらったんです」

高校卒業後、長谷川さんは南カリフォルニア大学に入学する予定だったが、その準備中に家業の倒産、両親の離婚などから断念することに。

「全部手続きも終わっていたんですけど、家業が倒産してしまい、お金が振り込めなくなって諦めざるを得なくなりました。そのときは目の前がまっ暗になりましたが、アメリカ行きはきっぱり諦めて新しい道を探しはじめました」

 

◆今村昌平監督の学校の二期生に、初舞台で主役に抜てき

両親が映画好きで物心つく前から映画館に連れて行ってもらっていた長谷川さんは、幼稚園に通う頃にはひとりで映画館に行って映画を観ていたという。

「昔は町内ごとに映画会社の映画館があって、僕の町内には東宝映画と洋画がふたつ入っている映画館があったんです」

-もともとは演出家志望だったとか-

「本当は英語の専門学校に行って通訳とか、そういう仕事の方に行こうと考えていたんです。せっかく高校時代に留学の経験もしたしね。

でも、映画も好きだったので、横浜の駅前に映画の学校ができたというから、最初は興味本位でパンフレットをもらいに行ってみようと。

そうしたら、受付のカウンターの奥に淀川長治先生と浦山桐郎監督がいて、日本映画週間とかでパンフレットに写真が出ていた監督たちが5人くらいお茶を飲んで喋っているんですよ。本当にこの人たちがいるんだと思って驚きました。

当時はまだ今村さんのことをそれほど知りませんでしたが、淀川さんが好きだったこと、こういう人たちと直接関われるんだったらこの学校で勉強する方がいいと思って入学を決めました。

教室さえない、潰れたボーリング場の中にパーティションを立てて、そこで授業なんですよ。2年目にはよくわからないけど、関係者にお金を持っていかれて学校が潰れそうになって、生徒たちは学生運動上がりも多いから、みんなで先生たちを吊るし上げて。

そうしたら今村さんが最後の最後に『あのね、被害者は君たちもであり、僕らもなんだよ。ここには被害者しかいないんだ』って言われて『そうか。おしまい』って(笑)。すげえなあと思ってね。

金を持って行った人はここにはいない。それで僕たちは喧々諤々(けんけんがくがく)みたいなことをやったってどうしようもない。ここからはじめるしかないんだということで、『ええじゃないか』という、まだ映画にしていない原案を舞台でやろうと。

西田敏行さん主演でヒロインは藤田弓子さん、そしてほかの俳優さんも全部入れて。『お前たち学生は100人いる。村のガヤ(その他大勢)だ』って(笑)。

だけど台本ができて読んでみたら感動して、『主人公の男は僕だ!』と思ったんです。次の日学校でみんなが感想を聞かれて、僕の番になったときに『これは僕です。まさしく僕です。僕以外考えられません』って言ったら、みんなドッと笑ったんだけど、台本を読んで感動して最後まで自分がそのストーリーの中に入れたというのははじめてでね。それを言ったんですよ。

そうしたら西田さんのスケジュールがダメになって、僕が主役になったんです。それで俳優座劇場で2週間。幻の舞台と言われているんですけど、100人がウワーッと騒ぎまくる。

最後に僕が撃たれて倒れて、演出上はみんなが悲しんで、そこからええじゃないか踊りがはじまる。僕は『ヘロヘロって死ね』と言われていたんですが、頭からやっていくと、アドレナリンが出まくって気持ちが盛り上がっているから、撃たれたら両手を大きく広げて上を見上げてそのままドーッと前に倒れたんですよ。

一瞬手で受け身をとっているんだけど、客席から見るとそのまま顔から前に倒れたように見えるんですよね、すごい音がして。

でも、はじまって最後までやっていって叫んだりしていると、撃たれたときにやっぱりそうなっちゃうわけですよ。

それでまた『お前やめなさい。ヘロヘロと死んで欲しいんだ』って言われて、それでも演出された通りに動けずに後ろに倒れてみたんですよ。そうしたら、角っこに頭をぶつけちゃって、みんなは僕が死んだと思ったそうです。

最後の日は、演出家が僕のすぐ近くの舞台袖にいて『長谷川、ヘロヘロと死ね』って合図しているんだけど、興奮しているから、また両手を広げてワーッとやったら、『違う、違う』ってやっているんですよ(笑)。結局、最後まで言うことを聞けなかった。

それでも舞台『ええじゃないか』は大絶賛されました。それから30年経って、当時舞台を観て下さったというある先輩俳優から『長谷川くんは、昔今村さんのところで、俳優座劇場でやったとき主役をやったんだよね? あれ良かったよ』って言っていただいたこともありました。

それで学校が盛り返したんです。終わったときに100万円余ったって演出家がおっしゃって、僕らは朝までドンチャン騒ぎ。いくら飲んでもいいって言われて。

今村さんの教育は、『とにかく狂ったように飲んで騒げ。静かに飲むな。理知的に飲むな。おとなしく互いに仲良くするな。殴り合え。それで町中で暴れろ。警察に逮捕されたら私が迎えに行く』と学生時代から言われていたんだけど、僕はそういうことはできませんでしたが(笑)。

僕はケンカをやったことはないんだけど、『何かあったときには俺が迎えに行くぞ』って言われたらうれしいなあと思います。おもしろかったですよ。ケンカっ早いか、女性を見たらみんなで先生と一緒に取り合うかという、とにかく野獣のような人たちの学校でしたからね(笑)」

 

◆森光子さんの舞台ではじめてギャラを手に

1978年、今村昌平監督プロデュースのドラマ『飢餓海峡』(フジテレビ系)で本格的に俳優デビューした長谷川さん。出演していないときは助監督として走り回っていたが、ギャラはもらっていなかったという。

「修行という形ですからギャラはもらってなかったです。プラス先生(浦山監督)はお酒好きだったので、『朝まで隣にいろ、とにかく話を聞いていろ』と言われ、正座したまま朝までずっとお酒を注ぐという感じでした、撮影中も」

-俳優として出演もされているわけですから大変ですよね-

「大変ですよ。それでぼろくそ言われるんですよ、みんなの前で。辱(はずかし)められて(笑)。卒業してすぐの夏でしたから21歳かな」

-森光子さんとの出会いが分岐点になったそうですね-

「はい。それから何年かして森光子さんのドラマをやるときに、急遽バッティングした若い俳優さんの代わりに呼ばれて1クール。『これってレギュラーというやつだ』って。

そのお金も間に入った人に騙されて全部持っていかれて、お金が一銭もなくて、毎日なんとか電車賃だけ工面して行って、朝昼のご飯はレギュラーの人全員に森さんがご馳走してくれるんです。

夜は各々自腹でしたが、僕はお金がないので、ずっと大部屋の楽屋にいました。共演者から誘われるんですけど、『いやいいです』って言ってお断りしていました。僕のそんな状況を森さんはご存じだったそうです。

それで『おもろい女』という森さんの舞台が秋にあったんですけど、その舞台にキャスティングしていただいて、東京に出てきて2、3年目にはじめてギャラをいただきました。

いつももらえなかったから、ちゃんとギャラをいただいたのは、森さんの舞台がはじめて。

それから何十万か持って、好きなものを食べて買い物をしようと新宿に出たんだけど、東京に出て来てレストランになんて入ったことがないからどこに行ったらいいかわからない。あのときはちょっと悲しかったですよね。

それで何をしたかというと靴を買いに行ったんですよ。新宿伊勢丹にブーツを買いに。そしたらブーツフェアで1万円以内のブーツから順番に並んでいて、順番に見ていくと、どんどんステキになっていくんですよ。

最終的にたどり着いたトップがイタリアのタニノ・クリスチー。芸術品で美しくてすごい高かったんですけど、もうこれしかないと思ってそれを買ったの。当時で十何万でしたから、今だと2、30万ですよね。

それで、『これ買ったんですよ』って言ったら、舞台をやっている最中だったので森光子さんに呼ばれまして『初範ちょっと。あなたね、お金は大切に使いなさい』って言われて(笑)。それで1万円お小遣いをくれたんですよ。森さんには本当に良くしていただきました。

でも、その靴は、のちのち初主演ドラマ『ウルトラマン80』で使うことになったのですが、アクションしようが走ろうがビクともしない。なめしの皮と美しさと全体がすばらしいブーツでした」

1980年に長谷川さんは『ウルトラマン80』に主演することに。次回は『ウルトラマン80』のオーディション&撮影裏話、大ヒットドラマ『101回目のプロポーズ』の撮影エピソードも紹介。(津島令子)

©2021 リング・ワンダリング製作委員会

※映画『リング・ワンダリング』
2022年2月19日(土)よりシアターイメージフォーラム他全国順次ロードショー。
配給:ムービー・アクト・プロジェクト
監督:金子雅和
出演:笠松将 阿部純子 片岡礼子 品川徹 田中要次 安田顕 長谷川初範
漫画家を目指す草介(笠松将)は、不思議な娘・ミドリ(阿部純子)とその家族との出会いを通じて、その土地で過去に起きたことを知ることに…。

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