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JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.09.20
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カテゴリ:JINさんの農園
『​鎌倉散策 目次​』👈リンク
【​鎌倉の寺社リスト​】👈リンク

「葛原岡神社」、「日野俊基卿墓」を後にして、「源氏山公園」に向かって進む。
「源氏山公園案内図」。



「現在地」
「源氏山」は白旗山または旗立山とよばれたこともあると。
緑豊かな自然に囲まれ、公園のすぐわきには、鎌倉の七切通しの一つであり、国の史跡でもある
化粧坂が、園内には頼朝像・広場などがある。
春には桜、秋には紅葉が楽しめるのだ。
北鎌倉、大仏へぬけるハイキングコースがあり、近くには葛原岡神社、銭洗弁天、佐助稲荷等が
ある。
-----がこの日に歩いた源氏山超えの道なのである。
​​



「源氏山公園管理詰所」が左手に。



その先に、以前に上って来た「​化粧坂切通​」👈リンク の下り入口が左手に。



そして「源氏山公園」の「​源頼朝像​」👈リンク。



ズームして。



「源氏山公園」から下って「寿福寺」の裏にある「源実朝・北条政子墓」を目指す。
右手には大きな「源氏山公園トイレ」があった。



案内に従い「寿福寺、鎌倉駅」方面に歩を進める。



この辺りは石畳の整備された道が。



しかし途中からは、これぞ「山道」が。



そして「山道」の脇、右手にあったのが「太田道灌公の墓」。
「太田道灌」の「首塚」、「供養塔」とも言われていると。



近づいて正面から。



「太田道灌公の墓
江戸城築城で有名な太田道灌資長はこの地で生まれ、扇谷上杉家の家宰として活躍しました。
その曾孫である太田康資の娘梶(後に勝)は、徳川家康の側室として水戸徳川家の初代徳川頼房の
養母となリ、徳川家を支えました。
彼女は出家後に英勝院と号し、三代将軍徳川家光よりここ源氏山一帯を賜って英勝寺を開きました。
この太田道灌公の墓は文政九年(1826年)に水戸徳川家の子孫てある英勝寺住職が以前の墓を
再建したものてす。」



「太田道灌齋大居士」と刻まれているのであろうか



そしてさらに進む。



この先から、切通しの如き光景になり急坂が始まった。



崖の下には大きな五輪塔のある墓地の姿も。



ズームしたが・・・。



更に下り坂を進む。



この付近から岩肌が剥き出しになった切通しの如き坂道が。



そして石段を下りると、「寿福寺」の大きな墓地が広がっていた。



「デベッカ家の墓所」。
小林 米珂(こばやし べいか、1863年7月 - 1929年2月10日)は、明治時代に日本に帰化した
イギリス人の法律家。ジョージ・ベイカーというアメリカ人牧師として来日したとも言われるが、
Joseph Ernest De Beckerの名で日本の性風俗や法律についての著作を出した。
小林米珂名義で日本で弁護士登録し、鎌倉海浜院ホテル、日清蓄音器、帝国木製、帝国船舶の
取締役のほか、鎌倉で不動産業を営んだ。デベッカー、デベッカ、米河、米加とも。
高濱虚子の大家でもあったと。



デベッカ家の墓所の先の石段を下りて振り返る。



寿福寺の広い墓地が広がっていた。
多くの墓が「やぐら」の中に。「池田家」の墓。



恒達家?の墓。



そして「大佛次郎(おさらぎじろう)」の墓。
柵で囲いを作った一角に二基の墓石が建っており、一基が大佛次郎、もう一つは大佛の父である
野尻政助の墓であった。



「大佛次郎墓」。



右側面には、「昭和四十八年四月三十日 野尻清彦」と本名で没年が刻まれていた。
その左に「昭和五十五年五月十九日 妻 酉子云」と。
映画女優だった妻吾妻光の本名(原田酉子)が記されており、二人がここに寄り添って
眠っていることがわかるのであった。
裏面には「昭和四十八年六月建立」



一昨年、横浜・山手にある「​大佛次郎記念館​」👈リンク を訪ねたのであった。

そして「源実朝・北条政子墓」に向かって墓地の中を進む。



この寿福寺の背後の山腹には30穴からなるやぐら(横穴墳墓)群が。



そして「北条政子の墓」に到着。



「源頼朝公夫人 〇〇○ 北条政子 (現在)静岡県伊豆韮山町」



「五輪塔」。
桔梗の花が手向けられていた。



そして「源実朝の墓」。
「源実朝」は、「鶴岡八幡宮」の大イチョウの木に隠れていた、 二代将軍・源頼家の子・
「公暁」に暗殺された。これにより鎌倉幕府の源氏将軍は断絶したのだった。



「五輪塔」
源実朝の「やぐら」は、牡丹唐草の文様が彩色されていたため「唐草やぐら」とか、
「えかきやぐら」と呼ばれていたという。



「源実朝の墓」の隣のやぐら内にも立派な五輪塔が。



そして「源実朝・北条政子墓」を振り返る。



帰路の大きなやぐらの中にあったのが「高浜虚子」の墓。



深閑としたやぐらの中に、「紅童女墓」(孫娘)、「白童女墓」(四女)を左右に並べた
真ん中に椿寿居士「虚子の墓」が。
本名=高浜 清(たかはま・きよし)
明治7年2月22日—昭和34年4月8日 
享年85歳(戒名:虚子庵高吟椿寿居士)❖虚子忌・椿寿忌 
墓地:神奈川県鎌倉市扇ガ谷1丁目17–7 寿福寺(臨済宗)



墓石には「虚子」と刻まれていた。



塔婆には戒名の「虚子庵高吟椿寿居士」の文字が。



墓参者用の「御名刺受」も備えられていた。



「​森田愛子​」👈リンク の墓。森田愛子は29歳で亡くなった俳人で虚子の孫弟子。
「森田愛子之墓」という文字は、高浜虚子が書き、墓標は高浜虚子の墓の方へ向けて建てられて
いると。
「紅梅の花一ぱいに蕊ひらき」、1931年(昭和16年)鎌倉の寿福寺で詠まれた句。

イメージ 18

そして寿福寺の山門に向かって進みながら墓地を振り返る。



「寿福寺」の「中門」。



「鐘楼」。



「参道」。



「総門」を境内から。



「総門」。



「庚申塔群」。



そして鎌倉駅に向かって「今小路」を進むと「えびす屋」の人力車が。
2名で60分貸し切りで17,500円と。

​​


                              ・・・​もどる​・・・


                  ・・・​つづく​・・・​





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Last updated  2021.09.27 05:14:15
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