見出し画像

32.安全配慮義務の落とし穴

産業保健活動上、「安全配慮義務」はとても重要な概念です。一般的には、次の2つの法令が根拠法令とされています。

労働契約法第5条の「使用者は、労働契約に伴い、労働者がその生命、身体等の安全を確保しつつ労働ができるよう、必要な配慮をするものとする。」

労働契約法第5条

事業者は、単にこの法律で定める労働災害の防止のための最低基準を守るだけでなく、快適な職場環境の実現と労働条件の改善を通じて職場における労働者の安全と健康を確保するようにしなければならない

労働安全衛生法第3条1項

産業保健職には、事業者に課せられている安全配慮義務の履行を、専門的な立場から補助することが職務上求められます。しかし、この概念においてもいくつかの落とし穴が潜んでいますのでご紹介いたします。

なんでも安全配慮義務の落とし穴

産業保健活動のあらゆる場面で、安全配慮義務の概念は必要になってきます。それは、使用者が労働者を働かせる中で、安全に健康に働かせる義務があり、つまりそれが安全衛生活動であり、産業保健活動と言えるからです。また一方で、労働者側にも自己保健義務(=自己安全義務・自己健康義務)があります。これは例えば以下のように定められています。

労働契約法第3条4項
労働者及び使用者は、労働契約を遵守するとともに、信義に従い誠実に、権利を行使し、及び義務を履行しなければならない

労働契約法第3条4項

労働安全衛生法第26条
労働者は,事業者が講ずる措置に応じて必要な事項を守らなければならない

労働安全衛生法第26条

対になるこの2つの概念においては、基本的に労働者保護の意味合いが強いため、事業者(使用者)側の安全配慮義務の責任範囲の方が広くとられます。しかし、なんでもかんでも安全配慮義務の範疇というわけではありませんし、事業者の責任ということにはなりません。従業員もまた労働契約に従って労務を提供する義務があり、そのためにルールを守ったり、健康に気を付けなければなりません。安全配慮義務と自己保健義務のクリアカットな線引きはできませんが、産業保健職としては安全配慮義務の責任の範囲を過大にとり過ぎないように注意が必要になります。そして、安全配慮義務の範囲は法令、行政機関の通達、裁判例、業界の動向、社会通念、信義則、企業の業種や規模などの体力からなる合理性など、時と場合によって大きく変わることにも注意してください。
参考)自己保健義務の概念は確立しているか(日本医事新報社)

過介入な安全配慮義務

例えば、特に高い業務負荷がかかっておらず、血圧135/85の労働者の健康管理が、安全配慮義務の範疇だと捉えるとどうなるでしょうか?受診勧奨して降圧薬内服を確認して、血圧が120/70になるところまでフォローした方がよいのでしょうか?これは「受診勧奨の落とし穴」でも言及した通り、脳・心血管疾患発症の予見性が高い場合や、業務に起因する異常・悪化が疑われる場合には、安全配慮義務に関わります。しかし、血圧135/85というと、それほど脳・心血管疾患の予見性は高くないと考えられます。つまり、この従業員の健康管理は自己保健義務の意味合いが強いと言えます。セーフティに考えすぎて安全配慮義務の範囲を広げ過ぎてしまうことは、過介入になったり過剰医療に繋がる恐れがあります。また、こうした方に対して、夜勤制限や出張制限といった就業制限を行ってしまうことは本人のキャリア形成や、給与、人事考課などにも影響が出てしまいますので、そういった点にも注意してください。

また、安全配慮義務の範囲を広げることは、その対象となる従業員の範囲も広げることと同義です。上記の血圧の例で言えば、下図のように血圧がそれほど高くない方まで範囲を広げれば広げるほど人数は増えていきます。産業保健資源は有限ですので、優先順位を付けて対応していくことがとても重要です。ハイリスクアプローチ以外にも、集団アプローチや組織アプローチなどの活動を幅広くを行っていくためにも、企業に見合った安全配慮義務の範囲を見極めていくことも産業保健職の腕の見せ所なのかもしれません

画像1

安全配慮義務強調しすぎの落とし穴

よくラインケア(管理職教育)の場で、管理監督者に対して、安全配慮義務を強調して説明してしまうことがあると思います。「部下に何かあれば管理職の責任です!」「部下の体調をしっかり見ましょう!」「部下に仕事をさせすぎてはダメです!」といった具合です(少し分かりやすく大袈裟に書いてますが)。しかし、前述のように、安全配慮義務は強調しすぎることにも注意が必要です。なぜなら、安全配慮義務を過大に捉えれば、「安全に働ける保証がないなら働かせられない」という思考に陥ってしまうからです。例えば、"花粉症で薬を飲んでいるが眠気は全くない労働者"の運転作業や、"筋力がわずかに低下している高齢労働者"の現場作業、"易感染症状のある労働者"のが対面業務などです。実際には事故・労働災害を起こす可能性が非常に低い場合にも、何かあったら管理職の安全配慮義務違反だ、という考えが横行してしまえば、もはや健康差別に近い状況が形成されてしまいます。働く上では何らかのリスクが発生するにも関わらず、そのような小さなリスクを過大に評価してしまえば誰も働くことはできません。安全配慮義務を強調しすぎることは、完全なる健康じゃなければ働けない、という考えに陥らせないように注意してください。

疾病利得の落とし穴

安全配慮義務の名目で、従業員に対して過大な配慮を行うことは、疾病利得に繋がる恐れがあることも知っておく必要があります。例えば、腰痛を抱えた労働者に対して、安全配慮義務だからといって腰部に負荷のかかる業務を全て取り除いたらどうなるでしょうか?もちろん、これは急性期においては大事な配慮となりえますが、これが長期化し常態化してしまうと、ただの不公平な特別扱いになってしまい、その労働者の疾病利得や、職場の不公平感を引き起こしてしまいます。過大な配慮は、ときに本人の治療意欲を妨げてしまう懸念もあることに注意してください(参照「疾病利得の落とし穴」)。また、配慮(就業上の措置)を長期化させないことも有効です。(参照「就業制限かけっぱなしの落とし穴」)

労働判例の落とし穴

安全配慮義務の参考になる労働判例としては歴史的には陸上自衛隊事件と川義事件があります。そして、こうした労働判例を抑えておくことは産業保健職にとって非常に重要です。安全配慮義務の範囲の線引きは、過去の判例によっても左右されうるからです。健診の事後措置、配置転換、復職判断、パワーハラスメント事例などの多くの場面で参考になります。利害が一致しない場面、主治医と産業医の判断が異なる場合など、労働現場では悩ましい場面もたくさんあります。安全配慮義務というやや曖昧な概念だからこそ、労働判例は抑えておくことをお勧めします。また一方で注意が必要なことは、裁判には訴訟開始から結審までに大きなタイムラグがあったり、上告して結果がひっくり返ることもあるという点です。社会の常識や価値観、社会通念は日々変わっていきますので、企業に求められる責任の範囲も変わりうる可能性があります。常にアップデートしていきながら、企業の安全配慮義務の範囲を考えることが産業保健職には求められると思います。(「産業保健職がおさえるべき労働判例十選」)

労災と安全配慮義務

労働災害(ここでは業務災害)では「業務遂行性」と「業務起因性」が問われます。特に後者の業務起因性については福島労働局のHPによれば以下のような説明があります。

(2)業務起因性
業務上疾病の発症の形態は、業務に内在する危険としての有害因子が労働者に接触し、又は侵入することによって疾病発生の原因が形成され、発症はその危険が具現化されたものとなります。したがって、業務起因性とは、業務と発症原因との間及び発症原因と疾病との間に二重に有する因果関係を意味します。そして、それぞれの因果関係は単なる条件関係ないしは関与ではなく、業務が発症原因の形成に、また、発症原因が疾病形成にそれぞれ有力な役割を果たしたと医学的に認められることが必要となります。
 先の業務遂行性の説明と併せてみた場合、例えば、労働者が就業時間中に脳出血を発症したとしても、その発症原因に足りる業務上の理由が認められない限り、業務と疾病との間には相当因果関係は成立せず、業務上疾病とは認められませんが、就業時間外において発症したとしても、業務上の有害因子にばく露したことによって発症したものと認められれば業務と疾病との間に相当因果関係は成立し、業務上疾病と認められます。

安全衛生活動においては、労災を起こさないことも求められますが、労災を起こしたら、安全配慮義務違反となるのでしょうか?その解答はノーです。労災イコール安全配慮義務違反となるわけではありません。そして、産業保健活動の本質は必ずしも労災を起こさない、労災をゼロにするということではありませんのでご注意ください。(参照:「労災ゼロの落とし穴

なお、例えば、日本政策金融公庫(うつ病・自殺)事件では、自殺を業務災害と認め、遺族補償年金等の支給決定をしていますが、安全配慮義務違反は否定されています。

安全配慮義務のカバー範囲

安全配慮義務は労働判例や法改正によって概念として確立してきた歴史的な経緯があり、産業保健のカバー範囲(対象範囲)を変えてきたと言えます。産業保健活動辞典という書籍より、以下の文章を引用します。

安全配慮義務の範囲は安全から疾病へと拡大し、労働と関係なく発症していた疾病であっても、それを増悪させないようにする具体的な業務負担軽減措置も含むようになった。つまり、発症に対する業務起因性があればもちろんのこと、それがなくても安全配慮義務違反となる可能性があるわけである。
 これらの動向は、産業保健の対象疾病が、当初は業務が直接的な原因である「職業病」に限定されていたものが、業務がその発生や増悪の要因や誘因に関わっている傷病である「作業関連疾患」という概念の誕生に沿うかたちで、その範囲が拡大されていった時期と一致している。(p122)

大久保利晃. 産業保健活動辞典

つまり、安全配慮義務のカバー範囲は、古典的な産業保健のカバー範囲としての、完全な業務上の因子により発症する「職業病」(もしくは、業務との因果関係が確立したと認められて関係法令に例示列挙されている職業性疾病ー厚生労働省「職業病リスト」)が対象範囲であったものが、その後に労働判例や法改正などを経て、一般疾病(私傷病)のうち、過酷な条件や作業環境によって、その疾病の自然経過より急速に発症・著しく病勢が増悪する疾患(=「作業関連疾患」)もカバー範囲となったのです。

参考までに、(過酷な条件や作業環境などの)業務負荷によって病勢が自然経過よりも著しく増悪する概念図は、以下の通りです。

疲労の蓄積による血管病変等の進行の発症に至るまでの概念図

手段債務と結果債務

安全配慮義務は結果債務ではなく手段債務と解されています。端的に言えば、
結果債務とは、その結果を達成するように義務づけられていることであり
手段債務とは、その結果の達成をするために最善の努力をすることです。

画像2

Lecture on Obligation, 2014 明治学院大学法学部教授 加賀山茂債権総論講義より

例えばこれは、医療現場の医者ー患者間で交わされる診療契約において示しますと、『「治癒」や「成功」という結果を達成するという結果債務』と、『そのような結果を達成するために患者に対し一般的医学水準に従って通常要求される程度の注意を払って診療行為をするという手段債務』との違いになります。

安全(健康)配慮義務は手段債務ですので、労働現場における安全(健康)という結果を達成するために、企業として合理的に要求される程度の安全衛生活動を行うことが求められる、ということになります。安全配慮義務は達成する義務なのではなく、尽くす義務だと表現できるのかもしれません。安全配慮義務を考える上で、結果ではなく、いかに手段を尽くせるか、プロセスを踏めるかということがより重要になってきますのでご注意ください。

人間(健康)はとても不確実なものですので、どれだけ安全衛生活動を行っていても、どれだけ配慮を尽くしても、快適な職場を形成しても病気や怪我が発生してしまうことはあります。これは医療においても同じであり、どれだけ最高の医療行為を行ったとしても、結果が伴わないこと、救えない患者さんはいます。予見性が非常に低いこともありますし、結果の回避措置にも限界があることを理解した上で、安全配慮義務を尽くす必要があるのだと思います。

参考サイト

【労災補償】損害賠償~使用者の安全配慮義務違反~(労働政策研究・研修機構)
自己保健義務の概念は確立しているか(日本医事新報社)
業務上災害とは(福島労働局)
債権総論講義 加賀山茂
医療契約論── その実体的解明 ──村 山 淳 子
・安全配慮義務に関する債権法改正について 山田創一
 インターネットよりDL


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?