益子直美「あだ名は“ガリバー”に“電柱”」身長コンプレックスをひっくり返したバレーボールとの出会い
身長、体重、容姿。コンプレックスから逃れることは難しいものです。でも、それが長所となることもあります。小学生で160センチあった少女は、バレーボール界に見出され、日本のエースへと成長。歩んできた道のりを、益子直美さんが明かします。(全5回中の2回) 【画像】はちまき姿で「紺と白、襟のポイントが素敵なユニフォーム」を着て試合に挑んでいた高校時代の益子さんほか(全13枚)
■あだ名は「ガリバー」「電柱」からかわれるのがつらかった ── 中学入学と同時にバレーボールを始めるまでは、背が高いことがコンプレックスだったそうですね。 益子さん:幼稚園のころから背が高くて、小学校高学年では、すでに160センチを超えていました。周りからは、「恐竜」「ガリバー」「色つき電柱」なんてあだ名で呼ばれて。
下町なので、電柱にチラシがいっぱい貼ってあったんです。休み時間に私が歩くと、ネス湖のネッシーをもじって「益子のまっしーが出た~!」と言われたり。それがすごく嫌で、休み時間になると、体を小さく丸めて、目立たないように過ごしていました。 いま思えば、いじめというよりも、単にからかわれていただけだと思うのですが、まだ子どもだった私には、心ない言葉がズキズキと胸に刺さりました。 ── バレーを始めてすぐに才能が開花したのですか?
益子さん:自分では才能があるなんて思いませんでしたが、入部したてのころ、監督が母に向かって、「娘さんは順調に行けば、日の丸を背負いますよ」と言ったんです。 まだ球拾いしかしていなかったので、母は「何を言っているんだろう」とまったく信じていませんでしたけれど。 監督はバレーボールの経験がなかった方でしたが、たまたま顧問になり、熱心に研究されていました。指導は厳しく、毎日怒られてばかり。ミスをすれば、罵声がとんできて、容赦なくぶたれるので、いつもビクビクしていました。とはいえ、当時はスパルタ指導が当たり前の時代でしたから、そういうものなんだと思っていました。
── 中学3年生のときには、全日本ジュニアに選抜されました。 益子さん:関東大会にも勝ち進んだことのないチームだったのですが、なぜか選ばれて。でも、それをきっかけに一度バレーをやめているんです。