寿福寺はJR 鎌倉駅の西口を出て100メートルほどまっすぐ進み、信号のある四つ角を右に曲がります。7~8分ほど北(横須賀線の東京方面に平行)に進むと、左手に八坂大神がありその先が鎌倉五山の一つである寿福寺です。
下馬塔と「亀谷山壽福金剛禅寺」の銘のある石碑の後ろに赤塗りの惣門があります。惣門から中門まで60~70メートルの石畳は両側の杉に挟まれ、閑静な禅寺の雰囲気を楽しむことができ、また撮影スポットとなっています。
惣門の手前右手には、鎌倉同人会による、源実朝生誕八百年を記念し、平山郁夫氏の書による「源實朝をしのぶ」と彫られた碑が立っています。
突き当たったところにある中門の奥には仏殿があり、左手には高く伸びた複数の柏槙、右手には鐘楼、その奥には庫裏・寺務所があり、御朱印の受付もしています。中門から垣間見るだけですが、手入れのされた庭を見ることができます。
仏殿内には、俗に籠釈迦(かごしゃか) と呼ばれる釈迦如来坐像、両脇には大きな仁王像が立っています。近隣の古老によると、仁王像は明治の神仏分離のときに下駄材になるところをもったいないということで同寺に祀られたとのことです。 青蓮寺(手広)の鎖大師坐像も同様の経過をたどったとのことです。
中門の前を左手に曲がり、すぐ右に曲がって仏殿のある敷地に沿って奥にすすむと墓地になります。
ここには、"やぐら"といわれる岩を掘った空間に北条政子や源実朝の供養塔があり、大仏次郎、高浜虚子などの著名人のお墓もあります。
また明治の外務大臣の陸奥宗光伯爵(1844-97)の陸奥家のお墓も手前にありますが、崖の崩落の危険があり現在は立ち入り禁止です。陸奥宗光は申すまでもないのですが、子息の陸奥広吉(1869-1942)も外交官として活躍し、また社会事業家として鎌倉の町の発展に尽力しました。夫人のイアン陸奥(1867-1930)は英国人で、鎌倉をこよなく愛し、多くの社寺を訪ね、そこで得た話を『kamakura Facts and Legend』(1918) として残しました。鎌倉の寺社を英語で勉強するかたにはバイブルといえるでしょう。
山門の右手には庫裏、寺務所があります。その奥は公開されていませんが、歴代のご住職のお墓や池、その先には鎌倉彫の後藤家の墓が大きな"やぐら"の中にあります。後藤家斎宮代々之墓と彫った石塔が立ち、奥の壁の中心にはお地蔵様が祀られ、周りには多数の石塔が立っています。歴史の長さとその隆盛がうかがい知れます。
寿福寺は、頼朝(1147-1199)の死後、政子(1157-1225)によって1200年(正治二年)、栄西(1141-1215)を開山に建立されました。
この付近は、頼朝の父義朝(1123-1160)の屋敷があったといわれています。頼朝が鎌倉に幕府の地を選んだ理由は、要塞堅固の地であることと、先祖ゆかりの地であることが挙げられていますが、何といっても父が無残な死をとげ、雌伏20年、ようやくそれを実現しようとする頼朝にとっては、ゆかりの地は絶対なものであったに違いありません。
この地に幕府を立てようとしたが狭かったので計画を変更し、大蔵の地に建てたとあります。
さて栄西は臨済禅の祖といわれることもあります。 三代将軍実朝(1192-1219)は栄西のもとによく通ったといわれます。夜の宴で酒を少々飲み過ごし、二日酔いに苦しむ実朝に、『喫茶養生記』を献上、寿福寺の寺宝になっています。
『喫茶養生記』を少々覗いて見てみましょう。
その「序」で、"茶は養生の仙薬なり。" とし、"天竺、唐土、同じく之を貴重す。我が朝日本、亦嗜み愛す。" とあり、すでに日本でも茶が飲まれていることを記しています。さらに、"古今奇特の仙薬なり。"と茶には特別な効果があると謳っています。
続けて、人間がこの世に出た頃には、天人のように健康であったが、今の人は五つの臓器が朽ちてしまったようだと嘆いています。(いつの時代も同じですね)
針や灸、湯治で治そうとするとますます弱くなってしまうであろう。そうならないための第一は養生することである。
すなわち、五臓、特に心臓の養生が大切で、茶を喫するのが一番である、と説いています。
「巻上」では、
人の体の五臓と五種の味の関係を説きます。肝臓は酸味、肺臓は辛味、心臓は苦味、脾臓は甘味、腎臓は鹹味(塩味)を好み、苦味以外は日常の食事で得ることができるが、苦味は常にあるものではないので、心臓が弱くなり常に病をおこすと述べています。
そこで、大切な心臓を養う苦味は茶を飲むことで得られ、病を除くことができるとしています。さらに中国の書物から茶の効用をいろいろと紹介しています。
「巻下」では、五種の病について述べ、当時の人々が患っていた病気の一端が分かります。(少々長くなりました。)
その後の寿福寺には、退耕行勇(1163-1241)、蘭渓道隆(1213-78)、大休正念(1215-89)などの高僧が相次いで住職となりました。
鎌倉時代末期に鎌倉五山の一つとなり、足利義満(1358-1408)が五山制度の確立した至徳三年(1386)には鎌倉五山の第三位になりました。
江戸時代には隣接の英勝寺が徳川家の関係で繁栄し、寺領も減少したようです。
近年は、禅寺のもつ閑静な境内と著名人のお墓があることで、訪ねるかたが後を絶ちません。