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瀬戸内海に浮かぶ大久野島(おおくのしま)(広島県竹原市)は、対岸の忠海(ただのうみ)港からフェリーに揺られて15分、周囲4キロほどの小さな島だ。数百匹の野生のウサギが生息することでも知られる。家族連れや外国からの観光客にも人気だが、島の過去はあまり知られていない。「ウサギ島」がかつては「毒ガス島」であり、地図からも消されていたことを。
1929年から6600トン 見えない貯蔵庫に
フェリーを下り、休暇村から海沿いの小道を30分ほど歩くと、山を切り開き、海から見えないように設置された巨大な貯蔵庫の跡が現れる。中は人の身長の数倍はある六つの「部屋」に区切られていた。
「それぞれに高さ11メートルの毒ガスタンクが1基ずつ入っていました」。島外在住の元高校教諭で、案内役を務める市民団体「毒ガス島歴史研究所」事務局長の山内正之さん(78)が説明すると、沖縄県から研修で訪れた教師たちは静かにうなずいた。
コンクリートの壁は内も外も所々黒く焼けただれていた。戦後、火炎放射器で焼くことで毒素を分解しようとした跡という。
島では1929年から終戦まで、イペリットやルイサイトなど皮膚や呼吸器に障害を起こす猛毒ガスが計6600トン製造された。「陸軍の資料には、小さな島で住宅も少なく秘密が守りやすかったのでここが選ばれたと記されています」と説明が続く。
最盛期には5000人が従事し、労働力不足を補うため学生や生徒を強制的に働かせる「学徒動員」で集められた10代の若者もいた。「毒ガスの使用は国際法で禁じられていた。だから戦時中、島は秘密にされ地図からも消されていた」
山内さんの案内で、88年に建てられた毒ガス資料館にも立ち寄った。当時使われた防毒マスクや防護服などとともに、数枚の絵が展示されていた。
作者は、岡田黎子(れいこ)さん(93)=広島県三原市。毒ガス入りのドラム缶を炎天下、大八車で運ぶ様子など、実体験を描いた。
岡田さんは忠海高等女学校2年生で15歳だった44年11月、大久野島に動員された。島に向かう船が出る港までは毎朝、海岸線を走る汽車で向かうが「海に面する南側の窓に…
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