「戦争は一番の罪悪」 美輪明宏さんが考える日本が大切にすべきもの

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自身の被爆体験や次世代への期待を語った美輪明宏さん=撮影・御堂義乗(オフィスミワ提供)
自身の被爆体験や次世代への期待を語った美輪明宏さん=撮影・御堂義乗(オフィスミワ提供)

 歌手で俳優の美輪明宏さん(85)=長崎市出身=が毎日新聞のインタビューに応じ、自身の被爆体験や戦争の記憶、故郷への思いなどを語った。広島・長崎に原爆が投下されて75年の節目の年に、美輪さんが伝えたいこととは――。【聞き手・松村真友】

 ――75年前の長崎はどんな町でしたか。

 ◆長崎全体がグラバー邸ではないですけど、不思議な、コンテンポラリー(現代的)でロマンチックな町だったんです。日本風と洋風が混ざり合って、すてきでした。それが戦争が始まって防空壕(ごう)を掘って、中でひっそり息を潜めていました。今の新型コロナウイルスの時代みたいに息を詰めて、時の過ぎるまでじーっと息をこらして、とにかくこもりきっていたわけです。戦争が起きて原爆が落とされて、何もかも灰になってぼろぼろの町になりました。一瞬にして。

 ――1945年8月9日はどんな体験をされましたか。

 ◆私は(爆心地から約4キロ離れた)実家がある長崎市本石灰(もとしっくい)町にいたので、命は助かったんです。私は自宅の2階の部屋で宿題の絵を描いていまして。ちょうど描き終わって、総ガラス張りの縁側から2、3メートル離れて絵を見ていました。「あれっ」と思った途端にいきなり雷が1万個ぐらい落ちたような光がピカッと光りまして。「あれ、こんな良い天気なのに雷?」と思うか思わないかの時に、しーんと世界中の音が止まりました。次の瞬間、今度は世界中の音を全部集めたような音がして、ドカーンとなって家が揺れて傾いて。目の前のガラスが割れるんじゃなくて飛ぶんです。一瞬にして。ちょっと近かったらガラスが体中刺さっていたわけです。後ろに下がっていたので助かりました。

 後ろでお布団の手入れをしていたお手伝いさんが「こっちへこっちへ」って言うから2人で布団をかぶって。その時初めてB29の飛行機の音がしました。原爆が落とされる前まで飛行機の音はしなかったんです。普段は警戒警報の後に空襲警報が鳴るはずなのに、原爆が落とされた後に空襲警報が鳴り出したんです。やがて飛行機の音も消えてって。そしたら阿鼻叫喚(あびきょうかん)のものすごい声がして「B29がまた来るから逃げろ」って言うんで、1階でひっくり返っていた兄を助けてお手伝いさんと3人で外へ逃げたんです。

 外では馬車の馬がドタッと死んでいました。全身焼けただれた馬車引きのおじさんが、ぴょんぴょんぴょんぴょん跳び上がっているんです。ちょうどフライパンで豆がはじけるように。よっぽど熱くて苦しかったんでしょう。そういう惨状を目の当たりにしながら、船大工町にある神社の下の防空壕へ逃げ込みました。防空壕の中も阿鼻叫喚で大変でしたよ。その後、山を越え、弟たちが疎開していた田手原村(現長崎市)に着の身着のまま逃げたのですが、その間も焼けただれた人とすれ違ったりして。長崎は煙を上げて無くなりかけていました。

忘れ…

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