東京工業大学の池上彰特命教授と、上田紀行教授(副学長)が、教養について語り合う、シリーズ企画(*)。文庫版『池上彰の教養のススメ』の刊行を機に、あらためて教養の意義を考えました。
ギリシャ・ローマ時代の奴隷と、組織で働く現代人はどこか似ている。“奴隷”から抜け出し、自由市民になるために、私たちができることとは?
(取材・構成:小野田鶴)
ビジネス書やビジネス誌の世界では、2010年代前半から「教養ブーム」といわれています。そのブームは沈静化するどころか昨今、教養へのニーズはさらに高まっている気がします。
池上彰氏(以下、池上):それには2つの文脈があると、前回、上田先生に整理していただきましたね。「大学側の反省」と「社会の側の需要」の2つです。大学側の反省については、すでにお話ししましたが、社会の側の需要として見逃せないのが、イノベーションです。
イノベーションと教養といえば、有名なところでは、スティーブ・ジョブズとカリグラフィーですね。
教養とは「自分を自由にする技」
池上:ジョブズは、マウスを使ったパソコンからスマートフォンまで、私たちの生活を大きく変える革新的な製品を多く世に出しましたが、大学はドロップアウトしています。その彼が、唯一大学でちゃんと学んだのが、カリグラフィーでした。ペンを使った西洋書道ですね。カリグラフィーを学んだことが、アップル製品の妥協ないデザインにつながったと、ジョブズは語っています。
カリグラフィーは、いかにもビジネスには「役に立たなさそう」な教養学問ですが、未来を生む創造的な力をジョブズにもたらしました。
逆にいえば「すぐに役に立つものは、すぐに役に立たなくなる」。前回、教えていただいた小泉信三氏の言葉を思い出します。
池上:日本企業がアップルのような製品を出せないとしたら、教養が足りない、のかもしれません。
一方、経営学の世界では昨今、「両利きの経営」が大変な注目を集めていますよね。米国のスタンフォード大学とハーバード大学の先生たちが広めた考え方で、イノベーションを起こすには、既存事業の知見を深掘りする「知の深化」だけでは不足があるとします。知の深化と同時に、いろいろなことへ知見を広げていく「知の探索」が必要である。この2つを同時並行でできるのが両利きの経営で、これこそがイノベーションを生むというわけです。
私と上田先生は、東工大で教養を教える仲間であるわけですが、この論を大学教育に当てはめるなら、知の深化を促すのは専門教育であり、知の探索を担うのが教養教育、ということになります。
社会の側の教養に対する需要としてもう1つ、上田先生が前回、「人としての根っこのようなもの」が必要なのだと指摘されていました。
上田紀行氏(以下、上田):はい、ショートタームの評価に駆り立てられて働く、現代の日本人にとって切実な課題だと思います。
私は今、東工大の副学長ですが、やっぱり評価システムにさらされているわけです。だいたいのみなさんが、今は評価にさらされていますよね。しかも、四半期だとか、毎月だとか、評価のスパンが短い。それはなかなかしんどいことです。
そういう状況を生き抜くうえで、評価とか成果とかと関係なく、自分の魂が喜ぶところを知り、心に持っておくことは重要だと思います。音楽でも小説でも哲学でも短歌でもボランティア活動でも、自分の魂が深く喜ぶところを1つでも2つでも知っていれば、短期的な評価だとか、儲かるかどうかといった話で心がぐらつくことは減っていきます。それが教養であり、リベラルアーツであり、リベラルアーツというのは、その名の通り、「自分を自由にする技」なんですね。
リベラルアーツは、自分を自由にする技、ですか。
上田:はい、話はギリシャ・ローマ時代まで遡ります。
現代人は、多分に「奴隷的」である
上田:リベラルアーツは一般に「教養」と訳されますが、あらためて考えれば「リベラル(自由)+アーツ(技)」なんですね。
そして、ギリシャ・ローマ時代には「自由市民」と「奴隷」という階級がありました。
自由市民というのは、例えば、ソクラテスやプラトン、アリストテレスのような人たちです。自由市民は「ポリス」という共同体で直接民主政を担う政治家でもありました。だから、共同体をどう導くかについて、日々、思いを巡らせていました。自分の知性と感性を総動員して、共同体の未来を考え、「絶対的な善とは何か」といったことを考えていたわけです。
一方の奴隷ですが、何も鞭(むち)打たれて働かされていたわけではありません。奴隷とは「自由市民の指示で働く労働者」です。指示通りに働くわけですから知性はさほど使いませんし、感性となったらもう、ほとんど使いません。
そう考えると、現代社会の組織の末端で働く私たちには、多分に奴隷的なところがあるわけです。池上先生は自由市民だと思いますが(笑)、副学長であるところの私は当然、学長の指示に従いますし、文部科学省に命じられて、いろんな書類を書いたりしているわけです。ときには「こんな面倒な書類に、どんな意味があるのかなあ」などと思いながら。これはいかにも奴隷っぽいですね。
そうであっても私たちは100%奴隷では生きていけません。リベラルアーツや教養といった言葉が、今、私たちの胸に響くとすれば、そういう事情があると思います。
なるほど。先ほど池上先生が指摘された「イノベーション」が、どちらかというと企業経営の課題であるとしたら、上田先生にご指摘いただいた「人としての根っこ」は、企業をはじめとする組織で働く個人の課題という印象を受けます。教養と「人としての根っこ」の関係について、池上先生は、どう考えますか。
池上:そうですね。例えば、理系の学生が企業に就職して、研究開発部門で働いていたとします。そこで自分の専門分野を探索して、研究成果が上がり、製品化されて、利益が上がった。すると、それだけで喜んでしまって、その成功が副作用として社会にどういう影響を与えているかが見えない。そもそも視野に入っていない、ということが、往々にして起きます。
日本の現代史を振り返れば、水俣病があります。
善意の会社員が見落としがちなこと
池上:最初に水俣病の症例が報告されたのは、1956年4月です。原因は、新日本窒素肥料(現チッソ、以下は「チッソ」で統一)という会社が出していた工場排水に含まれる、メチル水銀化合物にありました。ただ、この因果関係が明らかになるまでにはかなり時間がかかりました。当時のチッソは、プラスチックの可塑剤の原料となるアセトアルデヒドの製造で、大成功を収めていたんですね。それまで輸入に頼っていた「オクタノール」という物質を、アセトアルデヒドから誘導・合成することに成功するなど、技術力を誇っていました。
当時、チッソで働いていた研究者はきっと、もっといい可塑剤が作れれば、会社に貢献できる、日本の化学工業界にも貢献できると考えていたと思います。ただ、それだけだと大成功していたアセトアルデヒドの工場周辺で、なぜか奇妙な病気にかかって苦しむ人が出てきているということが、なかなか目に入ってきません。
しかし、チッソの労働組合はやがて、水俣病の被害者の支援に動くようになります。その過程には「自分たちは人間としての志を持っていたか?」「人間として大事なことを忘れていなかったか?」という葛藤があり、気づきがあったのだと思います。
こういうことに気づくには、そもそも人間とは何だろうか、ということを、若いときから幅広い学びのなかで考えることが必要です。若いときに、どれだけ本を読んでいるか、幅広く本を読んでいるか、小説を読んでいるか。
小説ですか。
『罪と罰』を読みましたか?
上田:小説はいいです。普段、体験できないようなことをバーチャルに体験できます。そのことによって人間の奥底にある心理とはどういうものか、人としてどう生きるべきかといったことが考えられる。
池上:そう、若いときにそういう時間を持つことが、後年、すごく生きてくる。
教養は企業倫理にもつながるのですね。確かに「倫理感」といったものは、上司から「持て」といわれて、持てるものではない気がします。いろいろな経験や学びをへて、自分の内面から生まれてくるのが、本当の倫理感かもしれません。
池上:例えば、ドストエフスキーの『罪と罰』なんていうのは、我々の学生時代には必読書でした。要するに「ごうつくばりな婆さんが大金を持っていたって、なんの役にも立たない。だから俺様のものにして有効に使ってやるよ」と、金を奪い、老婆を殺してしまった青年の話です。でも、実際に殺人を犯してしまうと、すごく悩むわけです。心底悩む。その心情を読者は疑似体験するわけです。こういう本を、若いときに社員や役員、経営トップが読んでいるかどうかで、企業がどう成長していくかも変わってくるのではないでしょうか。
学びに 仕事 人生に
生き抜くための最強の武器になる
教養はいつからでもどこででも学ぶことができる
待望の文庫化! 池上彰のリベラルアーツ白熱講義
東京工業大学に着任した「池上教授」が、仲間の先生たちと「教養の本質」を考えた。伝説のベストセラーがついに文庫化
◎ 教養なきビジネスは新しいものを何も生まない
◎ 教養とは与えられた前提を疑う能力である
◎ 教養とはつまるところは「人を知る」こと……
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