いろいろずかん

小西家は、六郷地震によって倒壊しましたが、地元の名士で

直後に建てな直されました。


現在は火災によって焼失しています。


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下記の文章は、私が小西家の火災を受けて寄稿した文章です。

秋田歴研協会誌 第12号 秋田県歴史研究者・研究団体協議会 1999.10


 8月6日夜半、蔵3棟を残し、古く立派な小西家が全焼、焼失した。家族の方々は無事であったが、またひとつ、重要な町のシンボルを失った。ここでは、小西家に哀悼の意を表して、同家の概要を説明したい。


小西家は、同町における旧家であり、その歴史は古い。同町に多い小西家の宗家とされ、大地主神を奉る氏神(藤木神社)も古来より建立されている。明治元年にその神号は禁じられたが、現在でも「権現様」と親しまれている家柄だ。

建物は、明治29年の陸羽地震において一旦は倒壊したが、地震以前の間取りを復元する形で直後に建て直された。大正13年の大火では、隣家まで焼失したが、類焼を免れた。

 現在、敷地坪数約1300坪を有し、藩政期は田圃を多く所有する大地主であった。収穫期には、小作人から集められる米俵が、米蔵に積み上げられ、大正の大火までは、現在の麹室上部の上下に並ぶ梁の間に、冬に食す自宅用の米俵を差して保存したという。


 この麹室は昭和30年代のもので、現在の発砲スチロ-ル製の麹室と違い、藁に泥を塗った土の麹室で、現存は珍しく、その壁厚は藁束程もあった。麹室の部屋は当初、東北地方特有の広い土間で、秋田地方では「どまにわ」の名称で親しまれていた。この土間は、座敷前の縁側まで通り土間として続いていた。地震以前の写真から、この通り土間部分が当時はかなり広かった事が見て取れる。


 昭和初期には大改造され、むくり屋根の玄関が増築され、「どまにわ」には床組をし、畳を敷き、鴨居を廻して座敷とした。この時に柱を抜いて窓を設けたり、下屋の増築を行った。この座敷は、昭和30年代、麹室の設置に伴い廃し、当初の土間の姿に戻された。


 床の間の地袋は置床で、天袋のみ造付、床柱は欅であった。柱間は江戸間で、長押と成の高い差し鴨居が座敷を飾っていた。差し鴨居の成は最大で1.25尺あり、地震直後これだけの木材を即座に調達できたことからも大地主としての当時の権力が伺える。

 屋根は、当初、木端葺であったが、昭和初期頃に切妻屋根トタン葺きとし、その上にコ-ルタ-ルを塗っていた。六郷大火後、小西家を始めとした旧家は火事に対して危機を感じ、昭和10年頃まで屋根の頂部に櫓を組み、天水桶(水桶)を3ヶ置いて火事に備えたというから面白い。同家は地震後の建築であったことから、どまにわ上部の小屋組は強固で、構造強度とは無縁に、多くの部材が配されていた。そのことから、或いは和式小屋組の大工棟梁的な構造補強であった可能性が高い建物であった。


虫食い状態の六郷町の町並みに最大規模の虫食いが生じてしまった。景観を大きく左右するこの出来事は、行政の文化財クラスの建築に対する見解の甘さをも露呈したと言わざるを得ない。もし、消火設備が整備されていればと考えるとなんとも無念である。


住所:秋田県仙北郡旧六郷町