織田信長の妹で、絶世の美女と謳われ悲劇の生涯を生きたお市の方(1547-83)はご存じですね。お市の肖像画は高野山持明院に残っていますが、残念ながら彼女のリアルな美しさを伝えてはいません。

 

これは娘の茶々(豊臣秀吉夫人・淀殿)が1589年頃、父・浅井長政(1545-73)の肖像画とセットで描かせたものですが、死後6年経っており、絵師もお市と面識がなかったためか、典型的な追慕像で、人となりを彷彿とさせるものはありません。

 

しかし、信長のもう一人の妹・お犬の方の肖像画は、当時としては文句の付けようのない迫真の表現で、清楚な美女を描き切っています。

 

 

以下に収録しましたのは、例によって「時空を超えて~歴代肖像画1千年」というメールマガジンの第4号です。文字数は5,200ほど原稿用紙13枚分です。

 

 


 


 

時空を超えて~歴代肖像画1千年 No.0004

 


 

2019年11月30日発行


★歴史上の人物に会いたい!⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。 そんな夢を可能にするのが肖像画です。

 織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、ジャンヌ・ダルク、モナリザ……古今東西の肖像画を一緒に読み解いていきましょう。


□□□□今回のラインナップ□□□□
【1】 織田信長の妹・お犬の方の肖像画(龍安寺)
【2】 肖像画データファイル 
【3】 像主・織田信長の妹・お犬の方について
【4】 作者について 
【5】 肖像画の内容 


◆◆【1】織田信長の妹・お犬の方の肖像画(龍安寺)◆◆

 今回は、織田信長の妹の肖像を取り上げたい。細川昭元夫人となったお犬の方という、信長によく似た美しい女性である。

 有名な浅井長政夫人・お市の方の肖像は、衣装以外の実像は伝わって来ないけれど、お犬の方の像は死の直後に描かれているため、女性の肖像としてはリアルで珍しい。


 ※本稿は2006年01月08日に『まぐまぐ』から配信した原稿を加筆改定し、新たに『メルマ』より配信したたものである。

 




★お犬の方の肖像画(龍安寺蔵)参考画像ページはこちら ⇒ https://www.shouzou.com/mag/p4.html

 

 

 

◆◆【2】肖像画データファイル◆◆

作品名: 細川昭元夫人(お犬の方)像
作者名: 不詳(狩野派絵師)
材 質: 絹本著色(日本画・軸装)
寸 法: 75.6×31.9 cm
制作年: 1582年
所在地: 京都・龍安寺(京都市右京区)
注文者: 細川昭元
意 味: 死の前後に描かれた追慕像。


◆◆【3】像主・織田信長の妹・お犬の方(1550-1582) について◆◆

 お犬の方の本名と出生年は伝わっていないが、この仮の名は、生れ年の干支に由来すると思われる。2006年が戌年であるから、これより38回りさかのぼった1550年が戌年にあたる。

 兄信長は1534年、姉お市は1547年の生れであり、父親は1551年に没しているので、この年号に無理はない。

 父は織田信秀(1510-51)、母の記録はないが信長、信行、お市、信包と同腹ではないかと思われる。

 彼らの母・土田御前にとっての初めての子が信長(1534-1582)であることからその生年は1510年代と考えられ、お犬の生まれた1550年においても40前で出産が可能な年齢であった。

 お犬は最初に尾張国大野城主・佐治八郎為興(1553-1574) に嫁いだため、大野殿、大野姫とも称される。
 

左:三宝寺蔵 (左右反転)信長像 中:龍安寺蔵 お犬の方像 右:早稲田大学図書館蔵 信長像

 

左:正伝永源院蔵 弟・織田有楽斎像 中:持明院蔵 お市の方像 右:大徳寺蔵 信長像

 


 佐治氏は、室町時代後期、知多半島南部に4代に渡って勢力を張ったが、元は日吉神社の神官の流れをくむ近江甲賀の民である。秦氏の流れをくむ土木工事の達人、穴太衆とも深い関係を持っていた。

 初代・佐治宗貞は、近江国から移住してきて、三河国守護職一色氏の家臣となる。やがて一色氏の衰退により大野城を奪って3万石を領した。

 以後、緒川城(東浦町)の水野氏と知多半島を二分するほどの勢力を持ち、佐治水軍の将として伊勢湾全域の海上交通を掌握していたという。

 織田信長は、この佐治氏の軍事力に注目する。

 2代目・佐治為貞は、台頭してきた水野氏により次第に圧迫され、桶狭間の戦い(1560)に勝利した織田家の配下に入ることになった。

 彼は、木下藤吉郎の指揮のもと、清洲城の修復に従事しており、城の出来映えに満足した信長は、佐治氏に城の建築を任せるようになった。

 この頃信長は妹お犬の方を、3代目・為興に嫁がせたのである。為興は、信長の義理の弟となり、一字を与えられて佐治信方と名乗っている。一門衆に等しい扱いである。
 


 佐治為興とお犬の方の間には、長男・与九郎一成(1569-1634)、二男・中川久右衛門秀休が生れた。

 一成は後年豊臣秀吉の命によって、お犬の姉・お市の三女小督を正室としたが、再び秀吉に命ぜられるまま離縁させられている。後妻には信長の娘・お振を迎えた。

 この長男一成の生年から推定すると、お犬の輿入れは1568年、19歳のときと考えてよいだろう。為興は、16歳である。

 その6年のち為興は、信長の嫡男信忠に従って、伊勢長島の一向一揆鎮圧に参戦したが、ここで命を落とした。享年22。お犬25歳、1574年のことである。

 お犬の方は、夫の死後、織田家に戻っている。

 1577年に再び兄・信長の命で、山城国槙木島城主・細川昭元(1548-1592)と再婚する。昭元は30歳、お犬は28歳であった。
 


 細川昭元は、室町幕府三管領の一角を代々占めていた細川氏の嫡流・京兆家の継承者である。

 細川家は、応仁の乱の当事者・細川勝元(1430-73)以後、政元(1466-1507)、澄元(1489-1520)、晴元(1514-63)と3代管領職を務めたが、足利将軍家の弱体化と共に、三好氏や松永氏が台頭。

 父・晴元の没落後、昭元は三好長慶の質となって、そのもとで元服した。

 1568年、大軍を率いた織田信長が、足利義昭を擁して上洛する。このとき昭元は、三好氏の影響下を脱して織田家に通じ、臣下に入る。1571年12月には、将軍義昭の下に出向き右京太夫に任じられている。

 その後は、畿内で抵抗を続ける三好義継や、投降と謀叛を繰り返す松永久秀(1510-1577)の対応に追われ、1577年10月 織田信忠・明智光秀・長岡藤孝と共に久秀の拠る信貴山城を落城させた。

 この年に信長はお犬の方を、家臣昭元に嫁がせたのである。信長は、昭元に対し、信の一字を与えて信良と名乗らせている。
 


 お犬と昭元の間には、一男二女が生れた。しかし、お犬は再婚から5年後の1582年9月8日 病没する。享年33。

 三月前の6月2日、兄・信長が本能寺で横死を遂げている。

 お犬は病の床で、兄の死を聞いたであろう。数えの2歳で父・信秀を失った彼女にとって、16歳年長の信長は父に代わる存在であり、衝撃は大きかったに違いない。

 9月12日には 京都・妙心寺で、信長の百忌日の法要が行われる。天下は秀吉の時代へと大きく舵を切ろうとしていた。
 


 昭元との間に生れた子供たちのうち、長女は後年、安倍実季の正室となり、次女は前田利常の正室・珠姫に仕えた。

 長男元勝(頼範)は豊臣秀頼に仕えて大阪の陣で戦ったが敗れ、京都の龍安寺に蟄居した。その後大和高島に移されている。


◆◆【4】肖像画の作者について◆◆

 絵の上部に、妙心寺・月航宗津(げっこうそうしん)の賛が書かれており、その年記が 天正10年10月となっている。お犬の亡くなったのは9月であるから肖像が描かれたのは、まさに死の前後のことである。

 本作品は、お犬の子の要請で描かれたという。といっても前夫の子、佐治一成らではなく、昭元との間に生れた幼い子供たちであったとする方が自然である。従って、注文者は細川昭元として問題ない。
 


 室町時代の画壇では、足利将軍家の肖像を代々土佐派の御用絵師が制作していた。従って幕府管領・細川家も土佐派と関係が深かったはずである。

 しかし、1567年土佐光元が、羽柴秀吉の軍に加わって戦死したため、家門は廃絶しており、弟子筋がかろうじて命脈を保っている状況だった。

 狩野派絵師では、第8代将軍・義政の家族の肖像画制作に、初代・狩野正信が携わったのが初めであるが、信長の時代には、もはや狩野派の全盛期となっていた。

 お犬の肖像画の作者については何も伝わっていないが、昭元は信長に仕えており、当時の状況からみて、狩野派の絵師とみて間違いないだろう。

 狩野永徳(1543-90)の弟・宗秀季信(1551-1601)、あるいは嫡男の右京光信(1565-1608)あたりではないかと推測する。

 ちなみに、京都・妙心寺には、二条昭実夫人像(織田信長の娘)と大野治長夫人像があり、龍安寺の細川昭元夫人像を加えて三名幅と云われているとのことである。


◆◆【5】肖像画の内容◆◆



 小さな絵である。参考画像ページの左に掲載した大雲院・信長像の約半分ほどの大きさで、頭部の幅も4cm 程度であろう。

 賛には、彼女の美貌を称えて、楊貴妃に例えており、若くして没したことを哀悼する文章が書かれている。

 その下で、高麗縁の置畳の上に片膝を立てた夫人が、数珠をかけて合掌している。

 確かに彼女は美しい。やや定型化しているが、額に作り眉を書き、切れ長の大きな目、大きめの鼻をいただいた細面は十分個性的で、兄・信長の容貌にも重ねることが可能である。

 唇はわずかに開いているように見え、念仏もしくは題目を唱えている形であり、彼女の信仰心の篤い姿を伝えている。
 


 画面の中では、衣装は大変重視されている。

 白地の打掛は辻が花で、臙脂と朱と白の横縞文様が印象的である。金地の中に点在する緑が、補色効果で臙脂色をより鮮やかに見せる。金地に挟まれた白い帯は、小川のせせらぎを表わしているのかもしれない。その中に青い朝顔を散らしれている

 肩口にのぞかせる小袖の橙色と白の対比も美しい。また全面に細かな文様が描き込まれている。

 お犬の形見となった衣装を、誰かに羽織らせて、ポーズを取らせたものだろうか、立膝の下半身を縁取る輪郭線がリアルでなまめかしい。

 古来日本の肖像画では女性像が少ない。

 男性像が主に顔の描写(性格描写)に力点を置いているのに対して、女性像では、人物に深く立ち入ることは避けて、薫るが如きあでやかな衣装によって故人をしのばせるのが作法だったかのようである。
 

 

 

 

 

 


〈参考文献〉

「戦国武将の肖像画」二木謙一・須藤茂樹著(新人物往来社)2011年

「日本肖像画史」成瀬不二雄著(中央公論美術出版)2004年

「日本の歴史12 天下一統」林屋辰三郎著(中公文庫)1974年

「狩野永徳展図録」京都国立博物館(毎日新聞社)2007年

「ブック・オブ・ブックス 日本の美術33 肖像画」宮 次男著(小学館) 1975年

「日本美術全集10 黄金とわび」山本英男著(小学館)2013年

「日本絵画館6 桃山」土井次義・武田恒夫・菅瀬正著(講談社)1969年

「日本美術全集18 近世武将の美術」宮島新一他(学研)1979年


 

 


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★お犬の方の肖像画(龍安寺蔵)参考画像ページはこちら ⇒ https://www.shouzou.com/mag/p4.html
 

 

 

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