今回の内容は、ブログではなくて「時空を超えて~歴代肖像画1千年」というメールマガジンです。2006年から年に1~2回の不定期で配信しています。文字数は16,000弱ですので、原稿用紙にすると40ページ分ぐらいになります。

 

 


 


 

時空を超えて~歴代肖像画1千年 No.0002

 


 

2019年09月28日発行


★歴史上の人物に会いたい!⇒過去に遡り歴史の主人公と邂逅する。そんな夢を可能にするのが肖像画です。

 織田信長、武田信玄、豊臣秀吉、徳川家康、ジャンヌ・ダルク、モナリザ……古今東西の肖像画を一緒に読み解いていきましょう。

□□□□今回のラインナップ□□□□
【1】 織田信長の肖像画(三)
【2】 肖像画データファイル 
【3】 信長と対面した宣教師たち
【4】 作者について 
【5】 肖像画の内容  


◆◆【1】織田信長の肖像画(三)◆◆

 今回は、戦国時代末期に、ヨーロッパ人宣教師が描いたという西洋画法による信長の肖像画を取り上げる。写真のように描かれたこの絵は、2001年8月5日テレビ番組『知ってるつもり』で電波に乗って以来、注目され続けている。

 原本は失われたため、私たちが見ることができるのは、明治時代に撮影された複製写真だけである。

 この肖像画については、明治初年に行われた「忠臣」の顕彰事業として制作されたという説もあがっているが、筆者は偽物と切り捨てることができない。

 なお、本稿は2006年12月24日にまぐまぐから配信した原稿を加筆改定したものである。



★★★織田信長肖像画(三宝寺蔵)の参考画像ページはこちら⇒⇒⇒ http://www.shouzou.com/mag/p2.html
 

 

◆◆【2】肖像画データファイル◆◆

作品名:織田信長の肖像
作者名:ジョバンニ・ニコラオ(筆者の推定)
材 質:洋紙に木炭、若しくはコンテ、銀筆等(筆者の推定)
寸 法:不詳(原画は失われた)
制作年:1586年(筆者の推定)
所在地:羽前・三宝寺(山形県天童市)
注文者:織田信雄(筆者の推定)

意 味:原本は、信長の死後まもない頃に描かれた追慕像。織田宗家の代々の礼拝に用いられた。

 遠藤周作の対論集『たかが信長されど信長』(文芸春秋社1992)によれば

 「信長の死後、宣教師によって描かれた細密な絵を、明治になってから複写し、宮内庁、織田宗家、そしてこの三宝寺で分け持ったという。織田家ではこの絵が信長にもっとも似ていると語り伝えられる。

 天童は、信長の二男信雄の直系が江戸後期転封された藩。代々の位牌をまつる三宝寺の仰徳殿内に、この絵は大切に保存されている。」
 


 次に、明治になって複写された写真の撮影者について。

 元天童市立旧東村山郡役所資料館長・湯村章男氏の『織田家の菩提寺に残る信長の肖像画について』によれば
 

 「この写真の裏には『大武写真館』と赤い印がおされている。この大武写真館とは、天童織田藩出身の写真師大武丈夫が開いた写真館である。

 彼は天童から仙台に出て、明治34年(1901)仙台市東一番町55番地で写真業を開業する。そして明治41年(1908)には大正天皇東北ご巡幸に供奉撮影の命を受け、東宮殿下松島行啓を撮影している。

 明治42年(1909)には東京へ出て日比谷に写真館を新築開業。その後、宮内庁御用を受け、外国の展覧会等に出品ししばしば最高賞を得ている。門人多数におよぶと『セピア色の肖像』(朝日ソノラマ刊2000)にある。

 彼の現存する記念写真としては、高橋是清や孫文、香淳皇后の写真などが有名だといわれている。大武丈夫は当時としてはかなりの写真家だったことがわかった。明治の中頃複写されたと思われるその写真は、現在仰徳殿(三宝寺境内)に飾られている。」
 

 三宝寺が織田宗家の菩提寺となったのは天保元年(1830)のことであった。
 


 信雄の依頼でニコラオが制作した、と筆者が推測する理由。

1.明治維新の33年前、天保6年(1835年)に天童藩がこの絵を所有していたという記録があること。

(この絵は洋風画ではなく西洋画そのものであるから、幕末以前の日本人には描き得ないし、鎖国下に西洋人画家も存在しない。それより前の時代であるならば、作者は江戸初期のキリシタン追放以前の南蛮人となる。)

2.織田信長の次男・信雄(1558-1630)は、11才のとき岐阜において神父ルイス・フロイスに接しており、長じて安土のセミナリオに出入りして西洋文化に親しみ、またオルガンチーノ校長や教師たちとも面識があったこと。

3.イタリア人修道士ジョバンニ・ニコラオ(1560-1626)が、天正11年(1583年)から慶長19年(1614年)までの31年に渡り、セミナリオで西洋画法を伝授するために派遣されていた正規の画家であること。

4.本能寺の変のあと尾張と伊勢の領主となった信雄が、まだ権力も財力も保持していた時代(1585-87年)に、セミナリオが安土/高槻から大坂に移って来ており、教師二コラオが在籍していたらしいこと。

(二コラオは、アジア巡察使ヴァリニャーノの肝入りで派遣された有能な画家・修道士であり、1587年のキリシタン追放令でセミナリオの九州移転が余儀なくされるまでは影響力の大きい中央で教えていたと考えられる。)

5.このようなリアルな肖像画を描くには信長とよく似たモデルが不可欠だが信雄の家臣には弟・長益(1547-1622)がおり、大坂には同腹の弟の信包(1543-1614)がいたこと。


〈参考図左〉後年の織田信包 〈参考図右〉同・織田有楽斎長益

 


◆◆【3】信長と対面した宣教師たち◆◆

 室町から桃山にかけて渡来した宣教師は100名以上という。その中で、信長と会見した外国人宣教師の名は4名まで分かっている。

 ルイス・フロイス、フランシスコ・カブラル、ソルド・オルガンチーノ、アレッサンドロ・ヴァリニャーノである。


ルイス・フロイス Luis Frois(1532-97)

 リスボン生まれのポルトガル人。16才でイエズス会に入った後、インドのゴアでフランシスコ・ザビエル及び日本人ヤジローに出会った。

 1563年 肥前に到着。2年後京都に入り、13代将軍足利義輝に会う。
 1569年 足利義昭と共に上洛した織田信長より京都での布教の許可を得る。

 4月8日二条城の建設現場で初めて会見した信長は、フロイスを2時間質問攻めにした。

 以下は、2ヶ月後フロイスが書いたローマ宛の書簡(6月1日付け)。文字による信長の肖像である。
 

 「この尾張の王は、年齢37才になるべく、長身痩躯、髯少なし、声ははなはだ高く、非常に武技を好み、粗野なり。正義及び慈悲の業を楽しみ、傲慢にして名誉を重んず。決断を秘し、戦術巧みにしてほとんど規律に服せず、部下の進言に従うこと稀なり。

 彼は諸人より異常なる畏敬を受け、酒を飲まず、自ら奉ずること極めて薄く日本の王侯をことごとく軽蔑し、下僚に対するが如く肩の上よりこれに語る。諸人は至上の君に対するがごとくこれに服従せり。

 良き理解力と明晰なる判断力とを有し、神仏その他偶像を軽視し、異教一切の占いを信ぜず、名義は法華宗なれども、宇宙の造主なく、霊魂の不滅なることなく、死後何事も存せざることを明らかに説けり。

 その事業は完全にして巧妙を極め、人と語るに当り紆余曲折を憎めり」
 

 1580年 巡察師ヴァリニャーノの来日の際通訳として同行し信長に拝謁。

 1583年 有名な『日本史』(1549-93までの日本教会史)の執筆に着手。

 ルイス・フロイスと織田信長が京都で初めて出会ってから13年後の1582年5月12日。信長は自らを神と称して誕生日の祭祀を挙行する。自らを本尊として祀った安土城総見寺には群集が押寄せた。

 しかし、ひと月もたたずに本能寺の変が起こり、信長は自害。このときのことをフロイスは次のように書き残している。
 

 「しかるに信長は、創造主デウスにのみ捧げられるべき、祭祀と礼拝を横領するという狂気じみた言行と暴挙に及んだ。

このためデウスは、群集の参拝を見ながら信長が味わっていた歓喜が19日以上継続することを許さなかった。」
 

 1590年 帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、同行して聚楽第で秀吉と会見。

 1597年 2月 秀吉によるキリシタン26人公開処刑(長崎26聖人殉教)を記録したのち同地にて病死。享年65。
 


フランシスコ・カブラル Francisco Cabral (1533頃-1609)

 アゾーレス諸島のサン・ミゲル島生れのポルトガル人。
 1550年 インドに渡り、軍人として働いたのちイエズス会の司祭となる。

 1570年 日本布教長として来日。大村・有馬などで多くの信者を改心させたが、日本人に対しては批判的だった。

 信長には二度会った。1571年、カブラルが、フロイスや日本人ロレンソ了斎(1526-92)を引き連れ、岐阜城を訪れたときには、信長は極めて丁重に扱っている。

 1579年 来日した巡察使ヴァリニャーノと布教方法を巡って対立。カブラルは、宣教師に日本語を習得させようとせず、日本人に対してもラテン語を学ばせないで司祭になる道を閉ざしていた。

 1581年 日本布教長を解任される。
 1583年 日本を去り、マカオに移動。
 1592年 ゴアでインド管区長を務め、ゴアで死去。

 以下は、カブラルの言葉。
 

 「日本人ほど傲慢・貪欲・無節操かつ欺瞞に満ちた国民を見たことがない。やむを得ない場合を除いては、共同生活に耐えられず、すぐ人の上に立とうとする。そのため、分派・異端が発生する。

 心中をさらけ出したり、他人に悟られたりしないことを、思慮深く名誉なことと考えている。」
 

 筆者はカブラルの慧眼に感服する。これは最も早い時期の西洋人による、本質を突いた日本人論であろう。

 カブラルの見方は宗教者のものではない。彼は冷徹な政治家・統治者の目、そして経済人(経済的合理性のみに基づいて行動する人間)の目で見ているのである。

 それは、図らずも後年の徳川家康の見識と一致している。であるがゆえに、この日本人の特性を一切禁ずる方向性をもって、江戸時代を治め抜いた。明治以後の為政者にもこの家康の方法論は、有益であり続ける。

 また後年カブラルがスペイン国王に送った書簡の中では、中国の征服には日本人傭兵が役立つと、実に元軍人らしい観察眼を覗かせている。
 


ソルド・オルガンチーノ Soldo Organtino(1533-1609)

 北イタリアのカスト生まれ。22才でイエズス会に入る。
 1570年 来日。岡山、高槻、摂津、河内に布教。日本人に人気があった。

 1576年 信長の許可を得て、京都に南蛮寺を建立。信長が何の予告もなく安土のセミナリオを訪れたり、伊東マンショの演奏するチェンバロに聞き入ったというエピソードも伝わっている。

 翌年息子の信雄がオルガンチーノを訪ね、親しく宣教師たちと語り合った。信雄は後日「時が至ればキリスト教を詳しく学びたい」と記した礼状を送っている。

 信雄が訪れた翌日には多くの部下を引き連れた信忠が訪れ、熱心に聴聞し、領地岐阜への布教するように伝えている。

 1578年 攝津の荒木村重が、信長に対して謀叛を起こし、高槻のキリシタン大名・高山右近がこれに従うという大事件が起こった。このときオルガンチーノは信長に呼び出され、右近の説得に奔走させられている。

 開城せねば高槻のキリシタンは皆殺しにするという脅迫であり、もしこれに失敗すれば、信長がキリシタン全部に対する迫害に転ずる怖れがあった。

 結局、オルガンチーノの説得は成功し、褒美として安土のセミナリオも建設されることになる。これ以後の信長の信任は厚かった。

 1580年 安土に全寮制のセミナリオ(神学校)を建てることを許され、オルガンチーノは校長に就任した。ここでは25人の生徒(武士の子弟)と、神父・修道士を含めて50人の職員が生活を共にしていた。

 セミナリオでは日本語、習字、ラテン語、ポルトガル語、作文、数学、音楽(合唱・器楽)、キリスト教の教義など教えられた。

 あるとき信長はオルガンチーノに「民衆に対して天国で救われると説いているが、それは民衆が罪を犯さないための方便だろう」と尋ねたことがある。

 信長はキリシタンに対して寛容ではあったが、信仰心はなく、宗教を政治のための道具と考えていた。

 1582年 信長の死と安土城の焼失。
 1583年 オルガンチーノは安土のセミナリオを高槻に移転。
 1585年 高山右近の明石転封により、セミナリオを大坂に移転。
 1587年 秀吉により最初のキリシタン追放令が出されると、小豆島に逃れ、
 最終的には長崎半島南部の有馬のセミナリオに合流した。

 1591年 天正遣欧少年使節の帰国後、彼らと共に秀吉に拝謁。
 1609年 長崎で病床につき76才で没した。
 


アレッサンドロ・ヴァリニャーノ Alessandro Valignano(1539-1606)

 イタリア・ナポリのキエーティで貴族の家に生まれる。
パドヴァ大学で法学を学んだ後、教皇パウルス4世の招きでローマで働く。

 1566年 イエズス会に入会。
 1570年 司祭となる。
 1573年 広大な東洋地域を回る巡察師となり、生涯に三度日本を訪れた。

 1579年 最初の来日では、増加するキリシタンに対して司祭が著しく不足している現実を踏まえ、教育機関を充実させる改革を企図して本国に要請。

 日本人司祭の育成及び、教義の理解を視覚で補うための聖画像を描ける画工の確保が急務だった。こうして設立されたのが、
 

肥前・有馬と安土における中等教育のためのセミナリオ(神学校)
豊後・臼杵のイエズス会員養成のためのノヴィシアード(修練院)
豊後・大分の府内における高等教育のためのコレジオ(大学)
 

である。

 1581年には初めて織田信長と謁見。信長はヴァリニャーノの威風堂々とした体格や人間性、政治的手腕に強い印象を受けたらしい。安土に滞在した4ヵ月間を非常に喜び、厚遇している。

 大柄な黒人の召使いを見て、その肌を洗わせたというエピソードはこのときのもので、それが本物の色だと知った信長は、彼をヴァリニャーノからもらい受け、ヤスケと名付けた。

 ヤスケはこれ以後、奴隷ではなく士分の扱いを受けるようになり、信長への恩義を忘れなかった。

 ヴァリニャーノは日本布教費用の増額を本国で認めてもらうために、天正遣欧少年使節の企画を発案した。

 天正遣欧使節と共に安土を去るときには信長より、正親町天皇も欲しがったという秘蔵の巨大な「安土城の図」(狩野永徳作)を贈られている。

 1582年 ヴァリニャーノは天正遣欧使節一行と共に日本を離れ、インドのゴアまで付き添った。この頃が布教の全盛期だったといわれている。

 1583年当時、イエズス会員は85名おり、司祭が32名、日本人修道士が20名、雑役をする人々は500名。教会の数が200あり、信徒は15万人に達していた。

 1590年 2度目の来日は、帰国する遣欧使節を伴って行われた。
 1591年 聚楽第で豊臣秀吉に謁見。日本に活版印刷機をもたらした。

 1598年 最後の来日では日本先発組のイエズス会と後発組のフランシスコ会などの間に起きていた対立問題の解決を目指した。

 1603年 最後の巡察を終えて日本を去る。
 1606年 マカオで死去。

 


◆◆【4】肖像画の作者について◆◆

 1.明治時代における忠臣の顕彰事業

 まずジョバンニ・二コラオについて語る前に、「この絵が描かれたのは明治時代ではないのか?」という疑問に答えねばならない。

 それは、この肖像画が「明治期に行われた“忠臣”の顕彰事業として制作された」という説である。

「忠臣の顕彰事業」とは、天皇に特筆すべき忠義を尽くし、歴史の中に消えてゆく偉人たちの名誉回復のために行われた事業のことである。

 長い武家政治のあと、天皇中心の国家を実現した明治政府が自らを権威付けるために必要な示威運動だったともいえよう。

 

 なかでも最も有名なのが、明治の元勲の筆頭に数え上げられながら西南戦争を引き起こして敗死した西郷隆盛の肖像がある。

 これは政府印刷局のお雇い画家だったイタリア人、エドアルド・キヨソーネが明治16年(1883)に制作したもので、15年後の明治31年(1898)には、彫刻家・高村光雲により上野公園の銅像が造られた。

 戊辰戦争の英雄で明治陸軍の創設者・大村益次郎の肖像画(遺像)もキヨソーネによって描かれ、靖国神社には明治26年(1893)に銅像が建てられる。

 明治政府らしいといえば、南北朝時代の後醍醐天皇の忠臣・楠木正成の顕彰事業があげられよう。明治23年(1890)に四条畷(なわて)神社が建立され、明治37年(1904)には楠木正成公ブロンズ像が鋳造されている。

 また、戊辰戦争において新政府軍についた天童織田藩は多くの犠牲を払ったため、その功労が認められて、藩祖・織田信長の顕彰事業が企画された。

 明治2年(1869)には明治天皇によって京都船岡山に建勲神社が建立され、さらに天童藩の知事であった織田信敏(信雄の直系の子孫)によって明治3年(1870)の天童市真鶴山に建勲神社が建てられたのである。
 


 つまり、三宝寺に伝わる本作品は、「忠臣の顕彰事業」として明治時代になってから制作されたのではないのかという説なのだが、実は、この絵には維新の33年前の天保6年(1835)に存在していたという記録が残っている。

 再度、湯村章男氏の『織田家の菩提寺に残る信長の肖像画について』を引用する。
 

「天童藩代官佐藤次右衞門が著した勤仕録の天保6未年(1835年)の項に次のような一文を見つけることができた。

 『天保六未年正月朔日 一例之通出仕之處、御太祖様尊像御書院奉掛、御中小姓以上席々拝礼相済候後、於御用部屋被相詰、同所詰御酒頂戴被仰付、…』(天童市史編集資料第14号)
 

 織田家では藩主への年頭の挨拶の折り、毎年御太祖様(信長)の肖像画に拝礼し、その後家臣たちは御酒をいただくことになっている。

 これは、『例之通』とあることから初代藩主信雄以来営々と絶えることなく慣習として受け継がれてきたことが想像できる。

 毎年拝礼を重ねてきた肖像画が、複写され三宝寺に残ったらしい。」
 

 肖像画本体が失われている以上、断言することはできないけれども、「明治の顕彰事業説」は否定してよさそうである。
 


 そして明治以前の制作となれば、桃山時代が俄然輝きを帯びてくる。

 天保6年ではこのような絵を描ける人間が日本に存在しない。なぜなら本作品は西洋画そのものであって、洋風画ではないからである。

 江戸中期から後期にかけて平賀源内、小野田直武、亜欧堂田善、司馬江漢らが洋風画を描いてはいるが、本作品の技術は彼らの及ぶものではない。

 鎖国下の日本に西洋人画家が存在するはずもなかった。国内で唯一異人の商館があった長崎出島における西洋人画家の可能性は寡聞にして知らぬ。

 また、織田信長と対面した宣教師たちの誰かが描いたということはあり得ない。4人とも技術者ではなかった。
 


 2.ジョヴァンニ・ニコラオ登場

 肖像画の制作時期を桃山時代と考えると、うってつけの人物がいる。

 桃山時代のヨーロッパといえば、ルネサンスからバロックに移行するはざまの時代であり、マニエリズム期にあたる。

 信長と同時代を生きたイタリアの芸術家にはミケランジェロ(1475-1564)ティツィアーノ(1488-1576)、ポントルモ(1494-1557)、ブロンズィーノ(1503-72)がいた。

 1582年には、バッサーノ(1515-92)、ティントレット(1518-94)、ヴェロネーゼ(1528-88)、バロッチ(1528-1612)、アローリ(1535-1607)、カラッチ(1560-1609)、カラヴァッジオ(1571-1610)が生きている。
 


 天正11年(1583)イタリアから、彼らの同業者が来日した。

 画家の名は、ジョヴァンニ・ニコラオ Giovanni Nicolao(1560-1626)通称Cola。

 ニコラオはスペイン領・ナポリ西方の町ノーラに生まれ、幼い頃からナポリの絵画工房で修行を積んだらしい。ナポリはオルガン製作でも有名な都市であった。

 1577年、17才のときイエズス会に入会。1581年にはセミナリオの絵画教師として日本に派遣されることが決まった。
 


 当時、極東の日本でキリシタンが爆発的に増加すると共に、聖画像の需要が増大。必要総数5万点。日本人画工を養成することが急務となったため、巡察使ヴァリニャーノが本国に要請した本格的な画家のひとりである。

 彼は、油絵・水彩・銅版画、祭壇画・壁画に優れていただけでなく、時計・楽器の製作や数学もできた万能芸術家だった。ニコラオの日本滞在は約31年にも及び、その大半を長崎で活動したという。

 1582年初め、天正少年使節に付き添って日本を出発したヴァリニャーノは、インドのゴアに留まったので、二コラオらと接触したはずである。

 ニコラオはマラッカを経て、マカオに至りここで救世主像を制作したりして1年を過ごす。長崎に到着したのは1583年7月20日のことであった。
 


 来日当初のニコラオは体調が優れなかったらしい。長崎は日本で最もキリシタンの多い地域であり施設も整っていたから、しばらく長崎で静養しながら神学を学んでいる。

 当時、日本の布教管轄区域は、下教区(肥前長崎)、上教区(豊後大分)、都教区(畿内)、を中心とした三つの教区に分けられており、下教区に11万5千人、上教区に1万人、都教区には2万5千人の信者がいた。

 キリシタン最大の擁護者だった織田信長は既に亡く、明智光秀、柴田勝家、織田信孝を下した羽柴秀吉の天下が目前となった時期である。

 安土にあったセミナリオは1583年よりキリシタン大名・高山右近の治める南蛮文化の中心地・高槻に移っていた。

 体が癒えたニコラオは、画家として長崎周辺の教会のための聖画像の制作に腕を振るい始める。
 


 1584年3月、徳川家康と結んだ織田信雄と、羽柴秀吉の間で小牧・長久手の戦いが始まったが、勝敗が決することなく10月には和睦が成る。

 続く1585年3月、秀吉が根来・雑賀衆の紀州討伐、6月には四国征討を行う。配下となった織田信雄やキリシタン大名の小西行長、高山右近らも奔走した。

 同じ年秀吉の有力武将だった右近は、軍功により高槻四万石から明石六万石に転封となったため、保護者を失ったオルガンチーノのセミナリオは高槻から秀吉のお膝元である大坂に移された。

 翌1586年3月、九州より、イエズス会日本準管区長のコエリョ一行が秀吉を表敬訪問。ニコラオも同行。この年は平穏に過ぎる。12月関白・太政大臣となった秀吉は豊臣姓を拝命。
 


 1587年が明けると九州征伐が始まり、5月に薩摩の島津義久が降伏。6月になると秀吉は突如として伴天連(バテレン)追放令を発した。

 九州各地で目にした神社仏閣の破壊と、長崎が借金の担保としてポルトガルの領土と化していたことは、新しい天下人にとって目に余るものだった。7月になって秀吉は大坂に凱旋。

 大坂にあったセミナリオや各地の教会の宣教師らは移転を余儀なくされた。

 慌ただしく小豆島、そして九州西方の肥前平戸島、生月(いきつき)島、長崎へと転々とし、遂には1580年から活動していた有馬(長崎県島原半島)のセミナリオと合流することになった。
 


 このときの大阪→小豆島→平戸→生月→長崎→有馬というセミナリオの流転に、ニコラオら修道士・画家も同道していたと、筆者は考える。

 また織田信雄は、天正18年(1590年)小田原征伐のあと秀吉の勘気を被り改易されて流罪の憂き目にあっているから、信雄の経済的余裕があった時代はそれ以前に限られる。

 宣教師やキリシタン文化に理解のあった織田信雄の生涯が、もし、卓越した画家ジョバンニ・ニコラオと交差する一瞬があったとするならば、

 そしてセミナリオの責任者のオルガンチーノを通してニコラオに、亡き父信長の肖像画(追慕像)の制作を依頼することがあったとするなら、

 大坂にセミナリオが存在した1586年という時期であったろう。
 


 それは、日本滞在のほとんどを九州に過ごしたニコラオが、日本準管区長コエリョに随行して、唯一畿内に滞在した時期でもある。

 いくら優れた画工であったとしても、コエリョが秀吉に謁見するのに一介の修道士を引率する必要はないから、

 ニコラオらを上京させた目的は、大坂のセミナリオにおける日本人生徒の画技の指導だったはずであり、コエリョ一行が九州に去ったあとも、大阪に留まったと思われる。

 信長の肖像画の制作に当たって、信長の身代わりのモデルを務めたと思われる同腹の弟・織田信包は秀吉に仕えて大坂にあったし、腹違いの弟・織田長益も、尾張清須城を拠点とし伊勢も治める信雄の配下にあった。

 九州と並んで、大阪、兵庫、福井などには当時の外国人画家の手になる聖画像が数多く伝わっていることもニコラオらの活動を想起させる。
 


 3.報告書に記されたニコラオ

 以下に「イエズス会日本年報」「ルイス・フロイス書簡」やJ.P.Schutte神父の論文等に取材した隈元謙次郎著「近時発見の帝王図に就て」と高瀬弘一郎著「キリシタン文化の諸相」によりニコラオの消息を追ってみる。

 1583年 来日時ニコラオ23才。神学を学ぶ。体調勝れず。
 1584年 最初の作品を有馬と長崎で1点ずつ制作。
 1585年 有馬の新しい聖堂のために「キリスト像」を描く。
 1586年 中国の教会のために「キリスト像」の大作を完成し送る。

銅板に油彩で「聖ステファノ像」を制作。

この年の3月、京阪への旅行に、イエズス会初代日本準管区長コエリョが4人の司祭と3人の修道士を随え出発。修道士の中に豊後のコレジオと僧院に絵を作ったニコラオという画工がいたが、病んだ同僚に付き添い下関に留まる。

堺に上陸後、コエリョは3月16日秀吉と謁見。正式な布教許可を得た。その後京都に至る。帰途一行は豊後に立ち寄り、10月 有馬に帰還。

(「ルイス・フロイス・天正14年度耶蘇会年報」太田正雄訳)
 


 1587年 6月秀吉による伴天連(バテレン)追放令。
 

大坂から移ってきたセミナリオが小豆島と平戸を経由して10月に生月島壱部へ、11月に長崎へ移り、12月に有馬(島原半島南部)のセミナリオと合流。学生総数70名。
 

 1588年 1月 有馬から北へ5キロ山あいの八良尾(北有馬町丙)に移る。
 1589年 4月 八良尾から16キロ南の加津佐に移転。

 1590年 ヴァリニャーノと共に天正少年使節が帰国。

リスボンから運んだグーテンベルグ活版印刷機は加津佐のコレジオに設置された。

 1591年 3月 天正少年使節とヴァリニャーノが秀吉に謁見。

長崎での活動の自由を取り付ける。
5月 セミナリオの八良尾移転。

 1592年 11月 セミナリオの美術部門が志岐に移る。

海を隔てた天草下島の志岐に画学舎を設置。ニコラオが専任となり日本人2名が助手を務めた。
 (1587年から91年まで、ニコラオに関する記録は欠落しているがこれは追放令によるセミナリオの流転が原因と思われる。)

 1594年 画学舎の在籍者数。

油彩8名、水彩(テンペラ画)8名、銅版画5名の生徒が在籍し、準管区長の報告ではローマ伝来の聖画像にも劣らぬ作品の出来栄えを伝えている。
 


 1595年 6月 八良尾セミナリオ放火により焼失。

有馬から東へ10キロの有家へ移る。生徒数は200名を数え、志岐の画学舎も移ってきていた。

 1596年 10月 スペイン船サン・フェリペ号事件。

スペインの世界帝国成立について奉行に問われた水先案内人が「信者が十分増えたら軍隊を 派遣し征服する」と口を滑らせる。
12月 伴天連禁止令。

 1597年 1月 長崎26聖人の殉教。10月 有家のセミナリオ閉鎖。
 1598年 8月 秀吉の死。

以後1612年まで長崎ではキリシタンの禁制が弱まった。長崎にセミナリオ創建。
 


 1599年 3月 天草下島の河内浦に移転。8月 志岐に移転。
 1600年 長崎に移転。
 1601年 10月 長崎の火災のため、有馬に移転。

 ニコラオと14人の生徒はオルガンと時計を作る。西洋に劣らぬ版画を作り各地に供給との報告。

 1602年 長崎に移転。画学舎と印刷所。ニコラオの有能なる指導の報告。
 1603年 ニコラオの有能なる指導の報告2件。

ニコラオ司祭補となる。告白を聞くに足る日本語知識を有すとの報告。

 1605年 ニコラオ、画学舎の校長に就任。
 1607年 上司がニコラオの性格について報告。

 1611年 有馬のセミナリオがこの年まで存続という文献あり。
 1612年 8月 江戸幕府による初めての伴天連禁止令。

 1613年 上司がニコラオの性格について報告。
 1614年 上司がニコラオの性格について報告。

「智識普通以下。才能普通。判断・思慮・経験・学識総て普通以下。性多血質。告白を聴く事の才能、人に会う能力も普通以下。」

1月 高山右近らキリシタン148名をマカオに追放。生徒28名とニコラオら教師6名も含まれ、マカオでセミナリオが再開されたが、資金難もあって振るわなかった。

 1620年 この年までニコラオは活動。
 1626年 マカオにて死去。66才。
 


 4.ジョヴァンニ・ニコラオの教え子たち

 1614年の報告を見る限りにおいて、司祭補であったジョヴァンニ・ニコラオに対する上司の信頼は厚くない。ただし、その評価基準は優れたイエズス会指導者足り得ることであったから、

 キリスト教義に疎かろうが、司祭としての見識・品格に欠けようが、熱血質で短気であろうが、画家としての資質には全く関係のないことであった。

 ニコラオ自身も、図画教師としてはるばるイタリアから東アジアに派遣され長年実績を上げてきた自負もあり、上司の批判など何処吹く風であったろう。

 彼が制作した作品は現存しているはずであるが、ニコラオ作と断言できるものは見つかっていない。

 17世紀のオランダでは、既に作品に署名するという行為が普及していたが、イタリアでは比較的少数の作品にしか署名は行われていない。ましてや神に捧げる聖画像に画僧の名を記すなど許されないことであった。

 

〈参考図左〉「聖母子像」福井県の旧家で見つかった1600年前後のイタリア派の作品

〈参考図右〉「悲しみのマリア」長崎奉行が押収した同時代の作品

 

〈参考図〉「聖母子像」福井の寺の天井裏で見つかった1600年前後の作品。白地に薄塗り(描きかけ)であり、西洋人が当地で描いたことが明らか。『日本美術全集10』(小学館)では、作者がニコラオである確率が高いと解説。

 


 一方教師としてのジョヴァンニ・ニコラオは長崎、有馬、天草のセミナリオで日本人洋画家30名以上を養成し、日本美術史における『イエズス会画派』を形作る。

 イエズス会の資料によると、ニコラオの門下には、ヤコブ丹羽、レオナルド木村、マンショ・タイチク、ルイス・シオヅカ、タドウ、ペドロ・ジョアン、オタオ・マンショ、マンショ・ジョアンが育っており、

 日本側の資料によれば、山田右衛門作、生島三郎佐、弟・生島藤七、三郎佐の門人・野沢久右、さらに信方の存在が確認できる。
 


 彼らの中では、
 

・日本人と中国人の混血で、ヴァリニャーノの意向で早期にマカオに渡り、宣教師マテオ・リッチの下で活躍したヤコブ丹羽

・肥後・宇土生まれの卓越した画家で、肥後の全教会を絵で飾ったマンショ・タイチク

・1637年、3万7千人の犠牲者を出した島原の乱において、籠城してただ一人生き残り、江戸勤めのあと故郷・口之津に戻り83才の天寿を全うした山田右衛門作(えもさく)。

・禁教後も、大名らの求めるままに西洋風俗画を描き続け、唯一署名を残しその作品が確認できる信方
 

 らが興味深い。
 


 ニコラオの生徒たち、イエズス会画派の作品には共通した刻印があった。

 それらは西洋人の作品とは明らかに異なっていて、日本人の手になるものと一目で判別できるような、“和臭”ともいうべき、稚拙で生硬な表現に留まっていることである。

 遠近法、陰影法等あらゆる画法が銅版画などの手本から学習されたものであって、人物だろうと風景だろうと、実物を一切参考にしていない。さらには、人物像の中に解剖学的知識をまったく見出すことができないのだ。
 


 実物を前にして、物の見方を学ばせることは不要である。これが、セミナリオ・画学舎教師であるニコラオの、基本的教育姿勢であった。

 ニコラオ自身は、イタリア・ルネサンス後期の画家として工房での修行を積んでいたにも関わらず、こうした姿勢を生涯貫いたのは、

 イエズス会が異国での布教のために、必要な条件を満たす聖画像の描き方を促成栽培的に日本人画工に植え付けようとしたためであり、芸術家を育成する必要が皆無だったためである。

 この点においては、ニコラオは教義に完全に忠実であり、イエズス会の図画教師としては、完璧に有能な人材であった。


◆◆【5】肖像画の内容◆◆

 いかにも王者の風格のある肖像画である。テレビで初めて見かけて以来、漠然と寿像であろうと考えていたのだが、遠藤周作の著作によって死後の制作と知った。

 構図は、模範的かつ月並みな、手堅い構図である。

 モデルには向かって左上部からの斜光(自然光)が当てられている。右半分と口唇やあごの下が陰になり、口髭の下には鼻先の影が、あご下には下からの反射光が描かれている。

 胸から肩への奥行感や小袖の質感など、手慣れた明暗・立体表現、人物描写が認められる。背景の空気感も的確である。桃山時代にあって、ニコラオの教え子には到達し得なかった技量の冴えがここにはある。
 


 ニコラオは、ゴアでヴァリニャーノから日本の支配者・織田信長について、人物像や人柄について情報を得ていたであろうが、モデルへの心情的な共感はまったく見えてこない。

 目の前に着座していたと思われる身代わりのモデルに対しても、何の感慨も持っていないようである。

 これは卓越した肖像画であると同時に、客観的であっさりとした人物表現であり外国人であるがゆえの、公平さと平明さ、かつ一抹の無味乾燥さも包含している。

 注文者・織田信雄から求められたプロとしての手腕を、確実に発揮しようとする外国人画家の気概のみが感じられる。
 


 さて、この肖像画制作の実際について検討するならば、

 セミナリオの責任者であるオルガンチーノと、画家ニコラオ、依頼者の信雄の間で、制作日、場所、材料、モデル、着衣について打ち合わせ・調整のための時間は要したであろうけれども、

 制作そのものは、日を跨ぐことなく数時間で完成まで至ったことだろう。

 この絵は、本絵のための下絵ではないし、似顔絵のような画家の手すさびとして描かれたものではなく、全身全霊で描かれた肖像画であって、

 このようなリアルな遺像を描くときには、影武者たる身代わりのモデルが必要になる。そうしないと陰影の描写に説得力がなくなってしまうからだ。
 


 織田信長(1534-82)の兄弟の仲では、父・織田信秀の四男・三十郎信包(1543-1614)と、十一男・源五長益(1547-1621)が存命であった。

 信包の母親は土田御前であって、信長と同腹の弟になる。千利休門下の茶人・有楽斎として有名な長益については、母親で誰であるかは分かっていない。1586年の時点では信包が43才、長益は39才である。

 画像ページに掲載したが、二人が法体姿となった老年の肖像画が残っているのでこれと比較すると、

 本作では一重まぶたに描かれている点と耳たぶの形、及びえらが張っていないことが信包と共通しており、

 鼻筋とまなざしは長益に似ているようである。長益は耳たぶが仏像のようにふくよかで大きく、またえらが張ってがっしりした容貌だった。
 


 この絵の中の信長は、堂々たるスターリン髯を生やしており、ルイス・フロイスの報告にある「髯は少ない」という記述とは矛盾する。

 ただ、筆者の知っている限りにおいても髯のない肖像画は 2種類存在するので、信長はたまに髯を剃ることがあったとみる。

 髯のない信長を思い描いてみると、役者のように美形である。

 うりざね顔と切れ長の大きな目、大きめの鷲鼻などは、本能寺の変の数か月後に病死した同腹の妹・お犬の没後まもなく描かれた肖像画と共通している。

 しかし髯は、独裁者にこそふさわしい。晩年は神であることを演出するためにも、剃るのを我慢していたことだろう。

 信長の側室・お鍋の方と関係の深い岐阜県・崇福寺の肖像を探せば、今回の三宝寺本を彷彿とさせる、豊かな髯をたくわえた信長に会える。
 


 信雄が、武人である叔父の信包をモデルとして座らせ、そばに家臣で猛将だった長益を控えさせ、ニコラオに制作させたとしたら、本作の仕上がりのようになるかもしれない。

 信雄、信包、長益が、ニコラオの描きかけのデッサンを見ながら、あれこれ注文を付けている図は楽しい想像である。

 画像ページには、三宝寺本を反転させた画像と早稲田本を並べてみた。

 日本画と西洋画の違いはあるが実によく似通っているように見える。もしかしたら信雄は、この早稲田本、あるいはこれを元に描かれた狩野永徳作品を借り出して、ニコラオのために持参したのかもしれない。

 

 

 

 

 

 


〈参考文献〉

「日本絵画館6 桃山」土井次義・武田恒夫・菅瀬正著(講談社)1969年

「原色日本の美術25 南蛮美術と洋風画 」坂本満著(小学館)1970年

「ブックオブブックス 日本の美術34 南蛮美術」坂本満・吉村元雄著 (小学館)1974年

「日本美術全集10 黄金とわび」山本英男著(小学館)2013年

「たかが信長されど信長」遠藤周作著(文芸春秋)1992年

「狐狸庵 歴史の夜話」遠藤周作著(牧羊社)1992年

「織田信長と高山右近」津山千恵著(三一書房)1992年

「日本の歴史12 天下一統」林屋辰三郎著(中公文庫)1974年

「キリシタン時代の知識人」遠藤周作・三浦朱門著(日経新書)1967年

「キリシタン時代の文化と諸相」高瀬弘一郎著(八木書店)2001年

『美術研究第119号』「近時発見の帝王図に就て」隈元謙次郎著 1941年11月

「織田家の菩提寺に残る信長の肖像画について」元天童市立旧東村山郡役所資料館長 湯村章男著

「キリシタンの子どもたちの音楽教育」金谷めぐみ著 2015年 (西南女学院大学紀要Vol.19) 

「セミナリヨ・コレジヨ/天正遣欧少年使節」「セミナリヨ・コレジヨの設置期間と移転」(南島原市教育委員会ホームページ)

『藝海余波(第7集)』松平斉民収集【早稲田大学図書館WEB展覧会】No.32館蔵「肖像画」展-忘れがたき風貌- Part.2

 


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