いろいろな人物像を探るうち、面白いことに気がつきました。

岡倉天心、今村紫紅など、横浜で生まれてはいますが、でもそれぞれの業績のなかで、横浜の発展に直接関わる顕著な事柄はみあたりません。

それに較べて、他所から来て、横浜を愛し、横浜の発展に関わり、横浜で生涯を終えた人物は、三溪もそうですが、原善三郎、茂木惣兵衛など、多くの人々の名を挙げることができます。今回お話する人物もその一人といえるでしょう。ホテル・ニューグランドの会長を永い間務めた「野村洋三」です。

 

野村洋三 (1870~1949)

野村は、幼名を梅太郎といい、岐阜県で生まれました。奇しくも三溪と同郷で、2歳年下ということになります。

少年の頃から海外に憧れ、15歳のとき、東京に出て、東京専門学校で学び、同時にアメリカ人に英語を学び、アメリカ行きの機会を待ちます。明治23年、遂にその機会が訪れます。製茶業界がアメリカ市場の視察団を派遣することになり、その通訳として雇われたのです。その後そのままアメリカに残って働きますが、明治24年に今度は逆にアメリカ人の通訳となって日本に戻ります。その後、またアメリカに戻り働きますが、うまくいきません。失意のうちに日本に戻った野村は、精神修行のため、円覚寺に行き、禅の修行を始めますが、そこで、老師・釈宗演に出会います。明治26年には、釈宗演が渡米する際には、またまた通訳として付いていくことになります。

明治27年、帰国した野村は、横浜で、外国人相手の東洋古美術を扱う店「サムライ商会」を開きます。このサムライ商会ですが、まことにユニークな外観で世間を驚かせます。外壁は真っ赤に塗り、楼閣上の屋根の上には宝珠をつかむ金色の大鷲、二階の右側には仁王像、左側には厨子、屋根の両端には金のシャチホコ、となんとも奇妙な外観の建物は、逆に大変な集客効果となります。そのうえ、優れた商品を適正な値段で販売するとの評判をとり、外国人の間で、たちまち大人気の店となります。

野村とその店は、当然ながら外国からやってくる人たちの窓口的な役割もはたしていました。そんな賓客を、野村は三溪園に案内することも多かったといいます。アメリカの鉄道王で、東洋古美術の有名なコレクターでもあったフリーアを三溪に引き合わせ、三溪が収集した古美術品を披露し、三溪園を案内したのも野村です。その後、原家とフリーア家との交流は続き、三溪の長男・善一郎、さらに次男の良三郎がアメリカに留学したさいは、フリーア家を訪れ、泊まったりしています。

 

さて、この野村と、三溪の関係ですが、何時頃どのようにして始まったかはしりません。ただ、同郷の出身で、同じ東京専門学校に学び、三溪が親しかった東慶寺の釈宗演とも付き合いがあったわけですから、早い時期から交流があってと想像されます。

こんなエピソードも残されています。

三溪園を造成中だった三溪は、庭の大部分が整備でき、梅の花も根付いたということで、明治39年4月、ごく親しい人々を招いて、内輪の開園披露宴を開きます。こうして内々に披露したつもりが、ある裏切者によってマスコミに知られることになってしまいます。その裏切者が野村だったのです。三溪は、こう語っています。

「造園もまだまだ中途半端で、公表は来春の梅の頃と思っていたのだが、『例のアメリカ式に気早なる野村君の裏切りにより』まだ化粧半ばで幕を巻き上げられてしまった。」

二人が、気のおけない親しさだったことがわかります。

 

さらに偶然ですが、野村は、関東大震災が発生した時、箱根の三溪の別荘に一緒にいました。二人は、三日三晩かけて徒歩で箱根を降り、東海道を通り、三溪園に戻ります。その後の横浜市の復興での三溪の活躍は前にも記しました(No34,2006,11,20付)が、そのさい三溪の片腕となって活躍したのも野村でした。なお、自慢サムライ商会は、この震災で壊滅してしまいました。

その後は、三溪を中心とした横浜財界人の手で設立されることになった「ホテル・ニューグランド」の開業に大きく関わっています。開業後は、当初は取締役として、後には会長を永く務めています。

 

「ホテル・ニューグランド」について

ついでに、そのホテル・ニューグランドについて説明しておきます。

幕末、開国した日本には、当然ながら外国人がどっと押し寄せます。しかし、それを受け入れる宿泊施設は、そう簡単に整いません。ようやく明治3年になって、外国人の手によって本格的な洋式ホテルが誕生します。「グランド・ホテル」と名付けられ、今の人形の家付近に建てられました。その後、経営者はたびたび変わりますが、明治23年には新館を増設するなど、設備・サービスを充実させ、日本を代表するホテルとして繁盛していきます。最終的は客室が100を超えるホテルへと成長し、特に本格的な西洋料理が評判を呼んだといいます。

このホテルも、関東大震災で崩壊し、その歴史の幕を閉じることになります。

 

震災後、落ち着いてくるに従い、グランドホテルに替わる本格的なホテルの要望が強まります。そこで、横浜市と横浜財界がタッグを組み、新ホテルの計画が進められます。今でいえば「第3セクター方式」でしょうか、敷地は横浜市が提供して、建物は三溪など有力財界人が金を出し合って建設しました。名前は旧ホテルを偲んで「ホテル・ニューグランド」と名付けられ、昭和2年に開業しました。

 

ホテルの初代会長には、当時の横浜商工会議所会頭だった井坂孝が就任しました。

井坂孝(1870~1949)は、様々な要職を経て、大正9年には三溪と共に横浜興信銀行の設立に関わり副頭取を務めています。(頭取:原富太郎) 震災のときには復興会の部長として、三溪のもとで中心的役割を果たしました。

 

さてニューグランドは、井坂会長が東洋汽船出身であった経験を生かし、特に飲食のサービスに力を注ぎます。そんなことからニューグランドの厨房からは、ドリア、ナポリタン、プリンアラモードなど、日本初といわれる料理が次々に誕生しています。またホテルオークラ初代料理長や、プリンスホテル料理長、銀座コックドールの料理長など、数多くの人材も送り出しています。

ドリアは、開業当初に招かれたスイス人シェフ・ワイルによって、考案されました。

また、スパゲッティ・ナポリタンは、2代目シェフ・入江が、戦後の接収時期に、アメリカから大量に持ち込まれたスパゲッティとケチャップを活用しようと考えだしたもので、瞬く間に米軍兵士の間で大人気となったといいます。

プリンアラモードは、同じく戦後、ホテルに宿泊してる将校夫人たちを喜ばせようと、デザートに工夫を凝らしたものです。アメリカではデザートはドンと大きなものが出ると聞きます。プリン一個というわけにはいきません。そこで、アイスクリームやら、アメリカから送られてくる缶詰の果物やら手にはいるものを盛沢山にしてみたのです。これがプリン・アラモードと呼ばれるようになります。

宿泊者には、イギリス王族など海外からの賓客も多く、喜劇王ャップリン、ホームラン王ベーブルースなど著名人も名をあげきれないほどです。また、後に連合国司令官になるダグラス・マッカーサーも昭和12年に新婚旅行のさい、宿泊したといいます。

このマッカーサーですが、日本の敗戦に伴い進駐してきた連合軍の最高司令官として、厚木飛行場に降り立ちます。1945年8月30日のことです。恰好よくコーンパイプを加えて飛行機から降り立って、真っすぐに向かった先が、ニューグランドでした。元帥が泊まった315号室は、当時使用していた机などそのままに、いまだに客室として残されています。ただし、マッカーサーが泊まったのは、僅か3日間だけです。

ホテルは、その後も占領軍(GHQ)の将校の宿舎として接収され、返還されたのは1952年にサンフランシスコで平和条約が結ばれてからのことです。

 

野村は、井坂の後を受けて、昭和13年にホテルの会長に就任します。会長時代の野村は、毎朝、食堂に出て、宿泊客に対し、握手して廻ったことから、付いたニックネームが「ミスター・シェークハンド」でした。

戦後、マッカーサーが宿泊したときの責任者も野村です。やって来たマッカーサーは、出迎えた野村に、「何年このホテルに勤めているのか」と聞きます。それに対し野村は毅然と「勤めているのではなく、私はオーナーです」と答えたといいます。また、朝食に卵2個食べる習慣のあったマッカーサーに、卵ひとつしか出さず、もうひとつは、と催促されると、「横浜中を探してもこの一個しか見つからなかった」と日本の食料事情の厳しさを訴えました。これを知ってマッカーサーはアメリカから、大量の食糧を送らせることになるのです。

 

退任後の野村は、住まいの近く、三溪園に毎日のように散歩に出かけていたといいます。きっと、過ぎし日の三溪との想い出に浸っていたのでしょうね。墓は、釈宗演との縁でしょうか、東慶寺にあります。

 

   (ホテル・ニューグランドホテル近況 後方のタワー棟は原範行会長時代のもの)

 

その後のホテル・ニューグランドのことです。

今、ホテルの会長は「原範行」となっています。

「原範行」、名前から判るように、三溪こと原富太郎の跡(正確にいえば、原善三郎の原家本家)を継ぐ原家の当主です。といっても血は繋がっていません。三溪の次男・良三郎(夫人は会津藩主・松平容保の孫・会津子です)の娘・昭子と結婚して原姓となり、原家を継ぐことになります。

 

ついでながら、原家の家系について、正確に紹介しておきます。

三溪は、婿でしたから、善三郎と血のつながりがありません。そこで長男の善一郎を善三郎の養子として原家を継がせます。善三郎にすれば、孫の屋寿の子ですから、曾孫に当たるわけです。しかし、この善一郎には子供がいないまま、早世してしまいます。そこで、次男の良三郎の娘に婿を取り、善一郎の養子として原家を継がせることになるのです。それが原範行です。

この範行、旧姓は吉岡といい、祖父は熊本出身の海軍中将、父は外交官でバチカン大使も務めています。なお、母方の姓は青木で、明治維新後、不平等条約の改正などで活躍した外務大臣・青木周三は、範行からみて曾祖父にあたります。

 

このように、家系を継ぐ、ということは、当時の社会では大変なことでした。昔は、今と違い、家を継ぐ、家系を守る、家を存続させる、ということが大命題だったのです。よく、歴史ドラマの主題として扱われていますね。特に江戸時代以前の話になると、勝手に創作された系図も多いといいます。さらに遡って、家康とか信長となれば、武士はみな、源氏とか平氏と繋がってしまいます。百年以上の前の話は、まあ、年寄の自慢話と思って、目くじらたてることなく、楽しめばいいのです。

でも、今のように、家を継ぐどころか、墓を受け継ぐことさえ拒否してしまう、というような風潮、なにか歴史が断ち切られてしまうようで、寂しいものを感じます。

 

                     (-画像は全てネットよりー)