「ガリガリガリッ!」

骨が砕ける音を、私は右の耳で聞いた。この時、自分は死んだ!と、はっきりそう思った。意識が消えた。
その音は三十数年の時を経た今もなお、耳にこびりついて離れない。
首の骨が砕ける瞬間の音だ。

その音を聞いたのは、ヒョウが首に咬みついてきた二度目の事故のことだった。

「えっ?ライオンだけじゃなくて、ヒョウも?」

そうなのです。私はご丁寧にも十日間の間に二度も事故にあっているのです。
ヒョウの時は鋭い牙に咬みつかれた傷は深く、第四頸椎粉砕骨折で全治6ヶ月の重傷を負ってしまった。
帰国後日本の病院で診てもらったところ、あと一ミリ、傷が深かったら、死んでいたか、全身麻痺だったと云われた。

私がケニアのナイロビに降りたったのは、1986年、一月、日本テレビの番組で「野生のエルザ」で名を馳せた、ジョージ・アダムソンのインタビューをするためだ。
妻のジョイは1980年に亡くなったが、夫のジョージは八十歳になった1986年。当時も元気でライオン達と暮らしていた。その生活ぶりは映画、著書と全く変わっていなかった。

ナイロビに着いた翌日、セスナ機で北東に一時間半飛びコラ国立動物保護区に着いた。
目の前にジョージ・アダムソンが立っていた。
ジョージは上半身裸で、ショートパンツ姿。髪も顎ヒゲも、それから胸毛も真っ白。
まるで年をとったイエス・キリストみたいだった。

ランドローバーの助手席に私、後ろの座席にカメラマンと音声が乗りこんだ。
運転はなんとジョージ自身だった。三十数年前は八十歳の高齢ドライバーなど、日本では考えられないこと。
コラの道はまるでアルマジロの背中のようにデコボコして起伏が多い。そこをフルスピードで走るのだから、軽量の私はたまったものではない。あちこちに体をぶっつけ、悲鳴をあげる。なのにジョージは知らん顔でぶっ飛ばす。誰も走っていないから、いいけれど……

「オールド暴走族!」思わず怒鳴りそうになる。

一時間ほど走り、車は止まり、クラクションを鳴らす。

「あらっ」

はるか彼方から ライオン達が二頭、三頭……五頭と群れをなして現れた。
夕日を背に悠然と歩く姿に、私は声もなく見とれてしまった。

美しい。

このライオン達はコレッタ(ライオンの名前)の家族で、全部で七頭いる。ジョージは車を降り、ラクダの肉の塊を投げ与えた。

「コレッタ、これはお前にだよ」
「ヘーイ、ボルディ、ちゃんととれよ」

ボルディが後に私を噛むヤツ!(※写真参照)

ジョージはライオン達がかわいくてたまらないみたい。頭を撫でんばかり。それぞれに名前をつけている。
いつの間にか、私も車を降りて、彼の後ろに立っていた。目の前にライオンの群れがいるのに、不思議なことに恐ろしさは少しも感じなかった。

「トモーコ、着いてすぐライオンに会えるなんて、君はラッキーだね」
「本当、ラッキーだわ」

(何がラッキーなものか。)

カメラが私達を狙っている。ライオン達はジョージの餌に前足をのばしてジャレつくのもいるし、ぶっとい前足で餌を叩き落そうとするのもいる。まるで巨大な猫みたいだ。今日はあまり空腹ではないらしく、腹ばいになったり、ごろごろ寝転がったり、ちょっとグータラしている。

「トモーコ、今、何時?」
「七時十分過ぎよ」

モチロン夕方。ライオンは 夜行性なので涼しくなってから行動する。あたりは薄暗くなってきた。コラの夕焼けの美しさは、たとえようもない。本当に魂を奪われ、気が遠くなりそうな美しさだった。

「第一ポイントでコレッタの家族を発見、オーバー」

車に戻り、無線で連絡をとるジョージは実に嬉しそうだった。何日も群れに逢えない日もあるそうだ。
私は車の外に出ているジョージの足に寄りかかるようにしながら、しゃがんで一番ちいさなライオンの子を眺めていた。アーモンド型の眼がパッチリとして、とてもかわいい。
さっきもらったラクダの肉を両前足で押さえて、まだしゃぶっている。

カサッ!

後ろで物音がした。

(何だろう?)

振りかえると、大きなライオンが私のほうに向かってゆっくりと歩いてくる。内股で近づいてくる……ネコ科だからやっぱり内股ね。危なくないのかしら?

ヒタッ……ヒタッ……ヒタッ……

足音がしない。

と突然トットットッと駆け出した。眉間に傷のある大きなライオンの顔が目の前いっぱいに広がった。

“ライオーン” MGMの映画のロゴだ。
 
とっさに逃げようとしたが、ジョージの足が邪魔になって動けない。
私は空中に跳ね上げられ、大きな弧を描いて空を飛んだ。

「ギャーッ!」

ものすごい叫び声は私のものだったろうか?




この結末とヒョウの詳細は、また次回。
乞うご期待。

松島トモ子