三宝寺所蔵の≪織田信長像≫を巡る言説について | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

(2020/9/19改訂)
 
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図 1、≪織田信長像≫、三宝寺
 
『三宝寺所蔵の≪織田信長像≫を巡る言説について』
 
 山形県天童市にある三宝寺に、織田信長(1534-1582)の肖像画が祀られている(図1)。より正確を期すならば、肖像画を写した写真が祀られている。原画は焼失したとされており、この写真は明治期に天童出身の写真師大武丈夫によって写されたものである1)。
 
 この肖像は、90年代に作家遠藤周作(1923-1996)が自著で触れたことで一般に知られるようになった2)。近年ではテレビ番組3)や天童市のHP4)でも紹介されるようになっている。話題を呼んでいるのは、当時の日本画とはかけ離れたその写実的描写のゆえだろう。「宣教師によって描かれた」とされており、それが事実だとすれば、1614年のバテレン追放以前に描かれたものになる筈だが、史料的裏付けに乏しく信憑性は薄い。しかし筆者にとってより興味深いのは、この肖像を巡る言説である。作者も制作年代も詳らかでない肖像が、いかにアイデンティティを獲得していくかという過程がそこには現れている。
 
1.史料的裏付け
 研究者の田村英恵によれば、現在、確認されている≪織田信長像≫は23点ある5)。しかし、三宝寺所蔵の≪織田信長像≫(以下、三宝寺像)はその内に含まれていない。もちろん、これが複製写真であり、肖像画そのものが残っていないという理由もあるだろう。しかし田村は全ての著作において、三宝寺像にまったく触れていないのである。史料的裏付けに乏しく、正式な≪織田信長像≫としては認知されていないという状況がそこに見て取れる。いわば偽書のような扱いを受けているわけだが、問題を複雑にしているのは三宝寺像の出所であろう。三宝寺は、織田信長の直系である天童藩織田家の菩提寺である。また、遠藤周作は、
 
信長の死後、宣教師によって描かれた細密な絵を明治になってから複写し、宮内庁、織田宗家、三宝寺で分け持ったという。織田家ではこの絵が信長にもっとも似ていると語り伝えられている。6)
 
 という話を伝えている。つまり、この肖像は織田本家のお墨付きとされているのである7) 。天童の郷土史研究家・湯村章男は、天保六年(1835)の勤仕録に「織田家では藩主への年頭の挨拶の折り、毎年御太祖様(信長)の肖像画に拝礼し」という文を見つけ、これが三宝寺像であろうと述べている8)。ただし、天童藩で毎年拝礼されていた肖像画が三宝寺像であるという確たる証拠は挙げられていない。埋めなければならない余白はまだ多そうであるが、湯村の説は滋賀県立安土城考古博物館のパネル展示に採用されている9)。
 
2-1.織田信長像
 次に、内容の面から考えていくことにしよう。もっとも知られている≪織田信長像≫は長興寺所蔵のものであろう(図2)。これは狩野永徳(1543-1590)の弟、元秀によって本能寺の変の翌年に描かれたものである。また神戸市立博物館所蔵の一幅も、作者不詳ながら同年に描かれたものだ(図3)。この2作は重要文化財に指定されている。他に狩野永徳の筆である「蓋然性が高い」10)とされている大徳寺所蔵の一幅も重要な作であろう(図4)。これらの作例に比較すると、三宝寺所蔵の本作の特殊性は明らかである。陰影のつけ方などの技法、胸像であること、そして、束帯姿でもなく、肩衣袴でもなく、直衣姿でもなく、甲冑姿でもない着衣が、当時の武将の肖像画としては奇異に映る11)。
 
図2イメージ 2 図3イメージ 3 図4イメージ 4
 
2-2初期洋風画
 それでは、「宣教師によって描かれた」という伝承についてはどうであろうか。安土桃山期には、イエズス会が絵画の工房を日本に作ったことが知られている12)。この工房の出身者による画派をイエズス会画派と呼び、彼らの作風を初期洋風画と呼ぶ。したがって、当時の日本に西洋の技法が存在しなかったわけではない。
 
 江戸幕府の禁教令によって、多くの作品が失われたが、残存しているいくつかの作品によってその作風を知ることが出来る。著名なのは、重要文化財に指定されている≪泰西王侯騎馬図≫(図5)であろう。これは会津藩が所有していたもので、17世紀初頭の作だとされている。同じく重要文化財に指定されている≪聖フランシスコ・ザヴィエル像≫(図6)、イエズス会画派で唯一、作品に名が残っている信方(?-?)作の≪師父二童子図≫(図7)なども挙げることが出来るだろう。より伝統的な図像の≪マリア十五玄義図≫や≪雪のサンタマリア≫(図8)も初期洋風画の一例である。
 
図5イメージ 5
 
図6イメージ 8 図7イメージ 6 図8イメージ 7
 
 しかし、これらのいずれも、三宝寺像には似ていない。初期洋風画の方が陰影のつけ方もはっきりとしており、人物の造形も写実というよりは理想的表現に近いものになっている。三宝寺像が非日本的であるからといって、それが初期洋風画的であるということには結びつかない。その2つを混同するのは、たとえば非日本的であるという理由でルネサンス期の絵画とシュルレアリスムの絵画を混同することに等しい。両者は全く異なるものである。

2-3.ジョバンニ・ニコラオ
 それにも関わらず、「宣教師によって描かれた」という伝承を前提にして、Wikipediaなどでは三宝寺像の作者がジョバンニ・ニコラオ(Giovanni Nicolao, 1562 - 1626)だということにされている13)。ニコラオは先述したイエズス会の絵画工房のために派遣されたナポリ出身の画僧であり、この時代の日本において写実的な肖像を描ける宣教師はニコラオだけであるため、三宝寺像はニコラオ作ということにされてしまったのだ14)。
 
 では、ニコラオの作風はどのようなものだったのだろうか。当時の記録は残っているものの、残念ながら、筆者が調べた限りでは、実際の作例を見つけることは出来なかった。研究者の児島由枝は、ニコラオの書簡から、彼が当時のナポリ画壇と関係があったことを指摘している15)。ニコラオと同世代のナポリ画壇では、たとえばファブリツィオ・サンタフェーデ(Fabrizio Santafede,1560 - 1634)を挙げることが出来るだろう。
 
 しかし、サンタフェ―デの画風(図9)と初期洋風画の画風は、それほど似ていない。あえて言えば、初期洋風画の中では、1597年に制作されたことが明らかになっている≪救世主像≫(図10)がもっとも近いだろう。サンタフェーデの手になる≪マルタとマリアの家のキリスト≫は、ニコラオが日本を訪れた30年後(1612年)の作品であり、さらにその間にナポリを訪れたカラヴァッジオ(Michelangelo Merisi da Caravaggio、1571 - 1610)の影響を受けているであろうことを割り引いても、細身で鼻筋の高い人物造形や衣服の襞の処理などに≪救世主像≫との類似点を見出せる。≪救世主像≫は「指先のぎこちない描写から、イエズス会で学んだ日本人画家による作品と考えられ」16)ているが、他の初期洋風画に比較してマニエリスムの影響が色濃く表れており、筆者はこれがもっともニコラオ本来の作風に近い作品なのではないかと推測する。いずれにしても、どちらも三宝寺像には似ていない。
 
図9(部分)イメージ 9 図10イメージ 10
 
 このように、内容から見れば、三宝寺像を位置づけるべき場所は見出せない。どこに並べたとしても、ひとつだけ浮き上がって見えてしまうだろう。筆者の考えでは、三宝寺像の作風はむしろ明治期の肖像画家、たとえばキヨソーネ(Edoardo Chiossone, 1832~1898)の描いた肖像画(図11)にもっとも近い。
 
図11イメージ 11
 
まとめ
 現在、Wikipediaで「ジョバンニ・ニコラオ」を調べると、三宝寺像が唯一の代表作として出て来る17)。これは日本版だけではなく、各国版すべてそうである。ニコラオは初期洋風画の父とも呼べる存在であり、日本美術史上において占める位置は大きい。にも関わらず、彼の代表作が来歴不明の肖像画の写真にされてしまっているのだ。

 ニコラオが三宝寺像の作者であるという説を唱えたのは、おそらく『肖像ドットコム』の記事が最初である18)。試しに、この記事が登場する以前の日付で「ジョバンニ・ニコラオ」と検索をかけても織田信長像は出て来ない。また、Wikipediaの記事で採用されている1583-1590年という制作年が『肖像ドットコム』の主張通りであることも、ニコラオ=作者説の最初の提唱者が『肖像ドットコム』であることを裏付けているだろう。

 1992年の段階で遠藤周作は「宣教師によって描かれた」と書いており、2001年8月5日放送『知ってるつもり?!』のHPでも「当時の宣教師が書いた」19)としているのに対し、2006年に書かれた『肖像ドットコム』の記事では「ニコラオ作」として主張が一歩進められている。これをWikipediaの該当記事執筆者が採用し、「公式」の見解として広められているという状況が見て取れる。

 作家の画風は作例によって決定される。作例が他に何もない場合、ある作家の全画業は彼の唯一の作品に寄りかかってしまうだろう。仮に、その唯一の作品が怪しいものであっても、それが彼の作品ではないと証明するための他の作例は存在しない。したがって、筆者が試みたように、同時代や同じ流派の作例から判断するしかない。ここまで述べてきたように、筆者は、三宝寺像が同時代の作、とりわけニコラオの作であることは、極めて疑わしいと考えている。
 
(追記:2020年現在Wikipediaの該当記事から三宝寺像は削除されている)
 

1.湯村章男「織田家の菩提寺に残る信長の肖像画について」『中学校:歴史のしおり』2006年1月号、帝国書院、12-13頁。
2.遠藤周作『たかが信長されど信長』文藝春秋、1995年。
3.『知ってるつもり?!』2001年8月5日放送。
4.「天童織田藩のあらまし」『山形県天童市』http://www.city.tendo.yamagata.jp/municipal/syokai/tendoodahan.html(2013年7月30日閲覧)
5.田村英恵「織田信長像をめぐる儀礼」黒田日出男編『肖像画を読む』 角川書店、1998年、176-198頁。
6.遠藤周作、前掲書。
7.信長直系の大名家は天童藩の他には丹波柏原藩が幕末まで存続している。柏原藩の儀礼については、田村の著作で詳細に述べられている。
8.湯村章男、前掲書
9.ただし、考古学博物館の展示はさすがに慎重であり、タイトルには「宣教師が描いたと言われる」という一文が入っている。
10.松島仁「狩野派絵画と天下人:障壁画と肖像画を中心に」『聚美 3: 特集:狩野派の誕生と興隆』青月社、2012年、39-57頁。
11.田村英恵によれば、織田信長の肖像画のうち、束帯姿が15点、肩衣袴が3点、直衣が1点、甲冑姿が3点である。
12.坂本満『人間の美術8:黄金とクルス』学習研究社、2004年。
14.「織田信長の肖像(三宝寺)」『肖像ドットコム』http://www.shouzou.com/mag/mag2.html(2013年7月30日閲覧)
15.「聖地ロレートとローマのSalus poluli romani:対抗宗教改革期イタリア美術と日本」『上智史学(56)』上智大学、2011年、95-114頁。
16.「神戸市立博物館開館30年記念 特別展 南蛮美術の光と影 泰西王侯騎馬図屏風の謎」『神戸市立博物館』 http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/institution/museum/tokuten/2012_01namban.html(2013年7月30日閲覧)
18.「織田信長の肖像(三宝寺)」『肖像ドットコム』前掲URL(2013年7月30日閲覧)。
19.「知ってるつもり?!」『日本テレビ』http://www.ntv.co.jp/shitteru/next_oa/010805.html(2013年7月30日閲覧)

 
追記:ニコラオの弟子Emmanuele Pereiraが1610年に描いた肖像画(様式の参考に)↓
 
「この肖像画を描いたエマヌエーレ・ペレイラ(Emmanuele Pereira、ユー・ウェンホイ 游文辉)は、マカオのキリスト教の家庭に生まれ、地元のイエズス会の学校で教育を受けたと伝えられている。彼は日本に渡り、ジョヴァンニ・ニコラオに絵画を教わった」
 
 
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