TOKYO巡礼歌 唐獅子牡丹

文楽(人形浄瑠璃)と昭和の日本映画と麻雀漫画について書くブログ

文楽 8・9月東京公演『曾根崎心中』 国立劇場小劇場

第三部、曾根崎心中。

これが「御観劇料8,000円」なのは、いろいろな意味で、すごいッ。



ムラのない緊密性、かしらによる心理描写の表現力を感じる舞台だった。

私の考える「上手い人形遣い」とは、かしらによる表現に秀でた人だ。かしらだけで彼や彼女の内面を表現し、物語の表現に深みを与えられる人。今回の『曾根崎心中』の主役二人、和生さん、玉男さんは、現代文楽においてかしらの表現に秀でた人の代表だと思う。

 

お初〈吉田和生〉は、いつも以上に、心理描写に振って演じられているように感じた。特に「天満屋」では、お初の内へ内へと向かう心理を、かしらの微妙なニュアンスで細密に間断なく描写し、緊張感のある舞台を形成していた。

間断がない、というのがポイントだと思う。たとえば、力んでキセルを落とすといった明確な場だけをポイントで立たせる演技をする人もいる。それを描画に例えるなら、墨を紙に「ボタっ、ボタっ」と滴下して、そのかたちのおもしろさを見せるような芝居。しかし、今回のお初はそうでなく、濡らした紙の上に筆をスーッと引いて線を滲ませていくような、線と面としての連続性をもった感情表現だったと思う。滲みが広がっていく淡い色味の動きやそのゆっくりとした経過の興味深さ。線が描かれ続け、滲みが広がり続けることによる、ギュウッと締め付けられるようなお初の心の描写がずっと続く。どこを見るでもない、暗い俯きの表情の彼女の独白を、身体の動きをおさえ、かしらのわずかなニュアンスに視線を集める。抑えた中に緊張感を途切れさせず、観客を舞台に釘付けにさせつづける力は、さすが。

道行ではわりとクッキリした芝居にしているのも、良い。「星が流れた」のところなど、キメの姿勢がきっちりしている。義太夫に乗っている部分はある程度演技を立たせないと、何やってるかわからなくなるからかな。




今回感銘を受けたのは、「天満屋」の徳兵衛〈吉田玉男〉。徳兵衛がお初の足を喉に当てて心中の意思を伝えるというシーン。このとき、縁の下に隠れている徳兵衛は、縁から下げられているお初の足(すなわち自分の顔より下にある)を持ち上げるのではなく、自分の顔を下げて、お初の足にキュッ!とくっつけていた。この心中の決意を伝えるシーンに重みが出るのは、徳兵衛が自らのかしらを下げてお初の足に頬を寄せているからではないだろうか。みずからが顔を寄せることによって、徳兵衛という人の健気さや純粋さ、気持ちの昂りがあらわれてくる。お初の足を持ち上げていては、こうは見えないのではないか。

この演技、いまに始まったことではなく、復活当初の初代玉男からしてそうだったのだろうと思う。いまの玉男さんもずっとそうしていると思う。しかしなぜ自分が突然今回それに気づいたかというと、先日見た淡路人形座の上演前解説が印象に残っていたから。
淡路島の民俗芸能である淡路人形座は、民俗芸能という言葉のイメージにあるような祭事での上演ではなく、現在では地元にある常設劇場で連日上演を行っている。場所柄、来場者は観光客主体のため、文楽鑑賞教室のように軽い解説+短時間演目を上演する初心者向けの形態が取られている。解説そのものは文楽の鑑賞教室でも取り上げられるトピックと近いのだが、「泣く」演技の解説において独自性があった。女方の人形が泣く際は、「袖を顔に当てるのではなく、顔を袖に当てにいく」のがコツであるという。これにははっとさせられた。人形の操演、ひいては見方の示唆として、核心的な部分を突いていると思った。人形は、普通の人間よりもあえてかしら(頭)の動きを増やすことで、彼や彼女の感情をより濃厚に表現できるのだ。

逆に、かしらを動かさず体や手だけで演技をすれば、情緒や品性が下がるといえる。和生さんのお初が本来の身分設定を超えて上品に見えるのは、おそらくそこが原因だな。和生さんは絶対に手を人間のように雑に動かさないから。「生玉社前」での小手招きとか、上品すぎる。ただこれは、人形の外見を超える和生さんの芸の強度があらわれているということなのだろう。普通は人形の造形、外見に負ける。突然ブラックなことをいうが、「かわいい」という感想しかもらえない女形は、その典型だと思う(簑助を除く)。人形の外見を無視して和生さんの遣い方を何やかや言いたくなることこそが、上手さなのだろう。玉男様のツラがいいだけのダメ男役が終演後、ゴミクズカスと罵倒されるのも、同じことだと思う。*1

 

それにしても、玉男さんのダメ男ぶりは本当にすごい。国立劇場の歴史に残るダメ男ぶり。
なんの役にも立たん幼稚なやつがそこにおって、それにたまたま「徳兵衛」という名前がついていたというホンモノの風格をたたえている。たまたま九平次に騙されちゃっただけかのように被害者ヅラで泣き言抜かしているが、過去にも同じようなことを何度も繰り返してるに違いない。店の主人からしたら厄介払いに結婚させようとしてるんじゃないの(結納したら即放り投げる予定)と思わされるような、なんなら原作はそこまでひどく書いてないんじゃと若干思ってしまうほどの役立たずオーラ。原作の話運びの不自然さや違和感すらカバーするダメさがすごい。初代玉男の徳兵衛はこんなにダメだったのだろうか(?)。

ダメぶりはともかく、徳兵衛のように無個性で、まじでただの「人形」な役をキッチリと演じ切ることができるというのは、純粋に、すごい。私は、役の本質に接近する演技力でいうなら、「三人組」の中で一番玉男さんが上手いと思っている。たとえば、玉男さんは近松ものの二枚目、徳兵衛(曾根崎心中)、忠兵衛(冥途の飛脚)、治兵衛(心中天網島)を確実に演じ分けている。彼らは入れ替え不可能な個人としてそれぞれ屹立している。類型に寄せることもない。彼らは舞台上で、「キャラ」ではなく、とある人、として立ち現れてくる。全体の佇まいや、ニュアンスでの表現だ。「あ、なんかこういうヒト、いそう」という点では、ある意味師匠より上手いかもしれない。
玉男さんの演じ方というのは、新作・新演出を含め、文楽の現代化を考える上で大きなヒントになると思う。自身の口から多くを語ることはない方だが、本当は文楽の新作の可能性と才覚を一番内在している人だろう。




九平次〈吉田玉志〉はバックグラウンドがまったく指定されていない役のため、文章そのまんま文字通りにやると、薄っぺらくなる。しかし、わずかに散らばっているヒントから役が形成されていた。徳兵衛より金回りがいい、遊びに慣れている、頭がよく他人には興味ない等、役に厚みがもたされている。玉志さんは所作が綺麗目であるがゆえに、鋭い悪意があるのは良い。この金属的なシャープさは他の人には出せない。たいていは単なる雑な人になるところ、性格がキツそうに見えるのは、上手い。
ちょっと綺麗目すぎて、「粋(すい)」、八右衛門(冥途の飛脚)に接近しているように思えた。ミキモトのブラックパールがごとき気品。以前はもうちょっと酔いの表現を強めしていた気がするが、そっちのほうが徳兵衛のビビリの本能に訴えかける怖い感じで、見せ方は良かったな。ただ、天満屋できせるを手に座って長講釈するところは、町人らしい肩の力が抜けた感が出ていて、いまのほうがいい。手つきも、時代もののように洗練されすぎないよう、補正されていた。
あと、やっぱりこの人、対話等の相手役が女性だと、ちょっとマイルドな芝居になるなと思った。ちょっと不思議な習性(?)。

芝居が「他人の番」であっても、ちゃんと芝居をしているのは、ベテランの技。お初の「怖い」セリフに、ぶるっとしたり、ぞっと伸び上がったり。ただ、必ずしもこのようなリアクションであったり、具体的に何をやっているというわけでもない。とある時間空間を舞台上の人形全員で共有しているように見せる雰囲気作りはセンスとしか言いようがない。対話芝居においても、相手の芝居の頭や末尾に若干演技を引っ掛けるため、時間空間がシームレスにつながり、単なるカギカッコつきの芝居にならない。これは九平次だけでなく、お初、徳兵衛にも言えることだが、人形がその役の時間を過ごしてる人は、上手い。

 

文字通りやると薄っぺらくなるのは、九平次だけではない。最初の場面で徳兵衛が連れている丁稚、天満屋の下女も同じ。センスが出る役だと思う。彼や彼女の目には、周囲がどう見えているのか。特に、下女に比較的まともな人が配役されるのは、そのためだろう。今回は火打石のタイミングがバッチリでした(紋秀さんです)。




天満屋の錣さん・藤蔵さんはとても良い。「恋風の身に流れては蜆川」が、湿度を帯びていそうなのが良い。蜆川にしても、若干澱んだ細い暗い川がイメージされる。曾根崎の町の情景も、薄闇の中に角行燈が浮かび、それぞれの店の戸口から漏れる光が道に明かりのラインを引いていて、店の中を覗き込むとその先だけ極彩色の世界が広がっているような、夢幻的でいて、安っぽく、淫靡なイメージが浮かんでくる。ことばとしては現れてこない、人々のざわめきや座敷から漏れる下手な三味線太鼓の音、道を行き交う人が草履を引きずって歩く音、呼び込みのダミ声が聞こえるような風情がある。世の中の暗所、芥の雰囲気がある。世界が「書割」ではない。会期後半は特に情景の描写が「乗って」いた。
あいかわらず、お初の情が濃すぎて、毛深そうなのも良かった。和生お初は全然毛深そうじゃないのに。すっきりと凛とした女性ではない、のが、個人的に好き。お初はもはや悪魔憑き状態で、彼女の言う「心中」が、絵空事としての美化された「心中」ではない。いまやってる商売は地獄、好きな男はもうこのさき身の立ちゆく見込みが壊滅して境遇も地獄。死ぬのはすさまじい苦痛だが、それよりはまし、的な。社会の底辺の煮凝りの情念の世界。生玉社前や天神森はわりとスッキリしているので、意図せずこの天満屋の濃厚さが活きていた。

 

意外と(?)良かったのは「生玉社前の段」の靖さんで、徳兵衛のへこたれ感がよく出ていた。私が文楽で人形床問わず重要だと思っているのは、品位(その人物と社会との関係性の描写)、性根(人物の内面の描写)、情緒(物語の背景となる情景の描写)の3つ。いちばん最後の「情緒」は非常に難しく、かなり芸歴いってる人しかできないし、永遠にできない人も多いと思う。けど、ヤスさんはわりと若いわりに、なぜか卑俗な世話物の情景が出ている。いつか、『心中天網島』の「河庄」とか、『近頃河原の達引』の「猿回し」とか、やって欲しいですね。

 

 

  • 義太夫
    • 生玉社前の段
      豊竹靖太夫/野澤勝平
    • 天満屋の段
      切=竹本錣太夫/鶴澤藤蔵
    • 天神森の段
      お初 竹本織大夫、徳兵衛 豊竹睦太夫、豊竹薫太夫、竹本織栄太夫/鶴澤清志郎、鶴澤清𠀋、鶴澤清公、鶴澤清允、鶴澤藤之亮
  • 人形
    手代徳兵衛=吉田玉男、丁稚長蔵=吉田玉延、天満屋お初=吉田和生、油屋九平次=吉田玉志、田舎客=吉田簑之(9/11-24休演、代役:吉田簑悠)、遊女=吉田簑太郎、遊女=桐竹勘次郎、天満屋亭主=吉田文哉、女中お玉=桐竹紋秀

 

 

 

『曾根崎心中』は、シンプルで古臭い話であるがゆえの解釈の幅の広さが、プラスにもマイナスにも働く。お初は人物像が「人による」ことが多いが、その女性像が古く転ぶリスクは非常に高いと思う。私は、簑助さんの描く女性像は、古いと思っている。いくら可愛くても、いま、あれを真似すべきだとは思わない(そもそもできないけど)。勘十郎さんは人物像の組み立てがまったく違っていて、とある人間いち個人としてのお初、つまり「徳兵衛が好き!他人は関係ない!!」に全振りしているため、古さを感じない。対して和生さんは、心理描写に振り切って演じることによって、追い詰められた人間の普遍的な心の動きを表現していたと思う。そういう意味では、かつ現代的な人物像を表現できる人として、和生さんのお初は、良かったな。やっぱり上手いわ、和生さんは。

 

最終上演の演目が『曾根崎心中』であったことは、私は、「これ?」という念に耐えなかった。周囲の文楽好きの人で『曾根崎心中』を歓迎している人、誰もいなかったし……、むなしい。良い配役であればあるほど、物語の薄っぺらさが目立つ演目であるというのも、今回改めて感じた。「ちゃんとした人」が出ないと間持ちしない話だが、「ちゃんとした人」が出れば出るほど、物語に対してその芸が浮いて見える。盛り上げようとすればするほど、そこまでの話じゃねえだろ的な……。上手い人からするとやりがいがある演目だとは思うけど、客からすると、このメンツを調達するなら別の演目自体が面白い演目を見たかったなというのが正直なところ。本当に……。

文楽の現状は、非常に悪いと思う。極度にシュリンクし続ける演目選定、露骨な世襲優遇、今後の東京公演の見通しの立たなさ。なぜ観客の信頼を裏切ることばかりになってしまうのだろう。東京公演については、別会場となると、国立劇場自体についていたお客さん(特に高齢の方)や社交的な意味で来場されていた方がどこまで残るのか。そして、東京公演の日数減少は大阪公演で補填するつもりらしいが、そういうことじゃないと思う。本当に、いろいろと、残念だ。

 

 

 

9月24日の千穐楽第三部は、「天神森」の終了後、カーテンコールがあった。

技芸員ほぼ全員が本舞台へ並び(決して全員じゃないのが若干笑える)、呂太夫さんから、これまでの国立劇場での観劇のお礼、次回以降の別会場公演でも引き続きの来場のお願いがあった。お客さんはみなさん当然大変喜んだほか、技芸員さんたちもみなさん笑顔で、とても良かった。特に人形遣いさんは普段は無表情なので、笑顔が印象的だった。

最後だからということか、お客さんへのサービスとして、撮影可だった(拡散もOK)。技芸員さんも客席を撮っていた。こっちのほうが絶対不可なことだし、ちょっと堅苦しそうな人まで嬉々として袖からスマホを出して客席風景を撮っていて、笑ってしまった。

当日の隣席の方が国立劇場文楽公演で時々となりになる方で(別に口聞いたことない。完全に赤の他人)、いつも真顔で舞台を見ている方だったが、カーテンコールではすごく嬉しそうに舞台に手を振ったり、写真を撮ったりされていて、それも良かった。

退場時、客席案内のスタッフの方が、再会場の時にはご来場をお待ちしていますと挨拶をしてくださったのが印象的だった。

国立劇場で最後の公演の千穐楽といっても、正直、この演目と今後の見通しのなさでは「感無量感」ともいかず、なんだかなぁと思う部分が多かったのだが、このカーテンコールでモヤモヤがある程度晴れた気がした。

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勘十郎が撮った写真をチェックするお初と和生。……が気になる玉輝さん。(玉輝さんもスマイルで客席の写真撮ってました)

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2度目のカーテンコール。なぜか移動しているSHIKORO。

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SHIKOROが移動したため穴が…… そして藤蔵さんがハナ肇銅像に……

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和登はこんなときでもちゃんとお初のかしらを見ていて、えらいっ。写ってないけど左は和馬さんです。

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千穐楽ノベルティ、カラの大入袋。
カラ!?!? 白太夫茶筅酒を振った極小もちの祝儀と同じノリか!?!?!?

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この「いつから使われてんだ!?」という千穐楽、満員御礼札も最後? 別会場にもついてくるのかな?

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*1:個人的には、お初は安女郎に見えないことより、あまりにも大人っぽく見えすぎることのほうが気になった。和生さんと玉男さんの関係がそのままスライドしているのだろうが、姉さん女房感が、すごいッ。