江戸時代深掘りシリーズ2🏯‼️由加社から江戸時代へ🛸‼ - 下松市河内-2024-03-30

2024.03.30(土) 日帰り

チェックポイント

DAY 1
合計時間
1 時間 3
休憩時間
10
距離
8.4 km
のぼり / くだり
102 / 102 m
1 4

活動詳細

すべて見る

以前、『江戸時代深掘りシリーズ』の第1弾として、下松市来巻(くるまき)に祀られている『中ノ迫稲荷神社』を訪れ、そこから『江戸時代』の事柄について詳しく解説しました🤓✏️。 以前の『江戸時代深掘りシリーズ』の第1弾の記事はコチラから ↓↓↓ 江戸時代深掘りシリーズ🏯‼️中ノ迫稲荷神社から江戸時代へ🛸‼ - 下松市来巻-2024-02-17 https://yamap.com/activities/29895309 #YAMAP #山歩しよう その記事の最後に「みなさんの反応が良ければ、またの機会に『江戸時代の深掘り企画』をやってみたいと思います‼️」と宣言していました🥳🎉。そして、たくさんのDOMOは頂きましたが💕、やはり長文だったからかしら⁉️コメントを下さった方はいませんでした😭💦。        ◇   ◇   ◇ そのような状況ではありますが、本日は下松市河内(こうち)久保市(くぼいち)の『由加社(ゆがしゃ or ゆうがしゃ)』へ史跡巡りランを行い🐖💨、そこから『江戸時代深掘りシリーズ』の第2弾として、再び『江戸時代』の事柄を詳しく解説したいと思います✌️🤓✏️。 以下、いつも以上の長文にて『江戸時代』の事柄について深掘りした解説を行っております😅💦。ご興味&お時間のある方のみで構いませんので、一読頂けると幸いです🤗💝。 読まれる方は、長文を覚悟の上で是非とも最後までお楽しみ下さいませ🤗💘‼️ _,.:*"^*;:,._,.:*"^*;:,._,.:*"^*;:,._,.:*"^*;:,._,.:*"^*;:,. まず、今回訪れた下松市河内久保市の『由加社』の由来についてですが、、、。そもそも、文化2年(1806年)、周防国熊毛(くまげ)郡呼坂(よびさか)(現在の山口県周南市呼坂)へ、備前国田の口(現在の岡山県倉敷市児島)の『厄除け神社』として有名な『由加神社』を分祀して来たことが始まりとなります。 その後、天保9年(1838年)12月、この久保市の地で大火事があったことから、『火伏せ』(防火)の御利益もある『由加社』を呼坂から久保市に遷座したとの言い伝えがあります。 その後、昭和16年(1941年)、台風による山崩れで社殿が倒壊したため、昭和24年(1949年)、再度の勧請を発起し、翌年の昭和25年(1950年)、社殿を新築、神輿の修理を行いました。また、昭和54年(1979年)、社殿の再修理を経て現在の姿となっているそうです。        ◇   ◇   ◇ 上記の由来の内容の熊毛郡呼坂へ『由加社』が分祀された年の文化2年(1806年)は、前回の記事内でも解説しましたように、江戸時代後期にあたる『文化文政期(ぶんかぶんせいき)』(略して化政期(かせいき))と呼ばれ、11代将軍『徳川家斉(とくがわいえなり)』の治世でした。 その頃に花咲いた『町人文化(ちょうにんぶんか)』のことを『化政文化』と言い、町人の豊かな経済力を背景に『江戸』を中心に発展した後、全国的な交通網の発展や教育の普及によって、江戸に止まらず各地方にも文化の潮流が広がったことは、前回の記事内でも解説しました。 なお、このような文化の広がりが全国的に及んだこともあり、江戸時代には度々『お伊勢参り』が爆発的に大流行し社会問題を引き起こしたことも、前回の記事内で詳しく解説しました。 さて、この『お伊勢参り』と並んで江戸時代の庶民の間で流行ったのが、讃岐国(現在の香川県)の『金刀比羅宮(ことひらぐう)』(かつての金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん))(通称:こんぴらさん)へ参る『こんぴら参り』です。 江戸末期の化政期(1804年~1831年)に、『お伊勢参り』が爆発的に流行ったと同時に、『こんぴら参り』も隆盛を極め、その後の天保期(1832~1846年)以降には、一生に一度は「丸金か京六か」とまで言われるようになります。 ちなみに、『丸金』とは、金刀比羅宮のシンボルとして使われている金の字の周りを、丸で囲った『丸金紋』のことです。また、『京六』とは京都堀川六条(現在は七条)にある『西本願寺』(合わせて烏丸七条の『東本願寺』も意味する)のことで、金刀比羅宮と共に信仰の地として大いに栄えました。 この様に江戸時代の庶民の間で『こんぴら参り』が流行りますが、その『こんぴら参り』とセットで流行ったのが、備前国田の口(現在の岡山県倉敷市児島)の『由加神社本宮(ゆが じんじゃほんぐう)』を先に参った後に、讃岐国(現在の香川県)の『金刀比羅宮』へお参りする、いわゆる『両参り』と呼ばれるものでした。 この『両参り』ですが、現代でも本州と四国を繋ぐ『瀬戸大橋』を渡り、『由加神社』と『金刀比羅宮』の両方のお参りをおこなう参拝客が多くいるそうですよ。 さて、この備前国田の口(現在の岡山県倉敷市児島)の『由加神社本宮(ゆが じんじゃほんぐう)』こそが、今回、訪れた下松市河内久保市に祀られている『由加社』の元で、全国に50か所以上ある『由加社』の総本山となります。        ◇   ◇   ◇ 現在、『由加神社本宮』がある岡山県倉敷市児島地区の北部、標高273.1mの『由加山(ゆがやま)』は、はるか2,000年以上も昔の紀元前の頃より山岳信仰の地だったそうで、そもそも山中の巨岩を御神体として信仰を集めていたと言われています。 そして、山岳信仰の聖地である紀伊国(現在の和歌山県・三重県)の牟婁郡(むろぐん)(かつて紀伊半島の南部にあった郡)の『熊野三山(くまのさんざん)』とも深い関わりがある場所で、その内容をご説明しますと、、、。 文武天皇元年(697年)、飛鳥時代の『修験道』の開祖である『役小角(えんのおづぬ)』【舒明天皇6年(634年)生(伝)~大宝元年(701年)没(伝)】が、朝廷から謀反の疑いをかけられ伊豆大島に配流された際、門弟たちは『熊野本宮』の御神体である『熊野十二社権現』を携え、聖地を求め全国各地へ流浪の旅に出ました。 それから4年後の大宝元年(701年)、役小角の謀反の疑いが晴れ赦免された後、門弟たちは備前国児島半島柘榴浜(ざくろがはま)(現在の岡山県児島下の町琴浦)に上陸し、山岳信仰の聖地であった児島半島の山(当時はまだ由加山とは呼ばれていなかった)に『熊野十二社権現』の御神体を安置し、『熊野本宮』を児島の地に遷座しました。  その後、修験道の本拠地をこの児島と定め、役小角の主だった5人の門弟たち(義学・義玄・義真・寿玄・芳玄)(五流修験の始祖で五大門弟と呼ぶ)が、役小角から受け継いだ修験道を継承し、後世へ行法・秘事等を伝授して行きます。 それら5人門弟たちがそれぞれ開いた修行場を『五流(ごりゅう)』(五院(ごいん)とも呼ぶ)(尊瀧院、伝法院、太法院、報恩院、建徳院)と呼び、その下に連なる下部組織である『公卿十院(くぎょうじゅういん)』を合せた『五流長床衆(ごりゅうながとこしゅう)』という組織が形作られます。5つの院の内、中心となったのが『尊瀧院(そんりゅういん)』であったため、後にまとめて『五流尊瀧院(ごりゅうそんりゅういん)』と呼ばれるようになります。 その後、この児島の修験道の組織が全国の修験者の管理を行うようになり、これらから任命された門弟たちが紀伊国の熊野本宮へ派遣され、管理・監督する仕組みが出来上がります。        ◇   ◇   ◇ さらに時を経た奈良時代の天平5年(733年)、飛鳥・奈良時代の仏教黎明期に活躍した僧『行基(ぎょうきorぎょうぎ)』【天智天皇7年(668年)生~天平21年(749年)没】が、この地において『三密瑜伽の行(さんみつゆがのぎょう)』を行ったことにちなんで、『由加山』(瑜伽山とも表記)と呼ばれるようになり、その際、行基が祀った『十一面観音』も後に『瑜伽大権現』と呼ばれるようになります。 ちなみに、『三密瑜伽の行』の『瑜伽(ゆが)』とは、そもそも『yoga(ヨーガ)』という仏教用語(古代インド語、サンスクリット語)を音訳したもので、悟りに至るための精神集中や心の統一を伴う修行法『瞑想』の事を表します。そして、現代において流行っているスポーツ的な『ヨガ』(深呼吸しながら行う柔軟体操)の語源でもあります。つまり、『由加山』の語源は、今流行りのエクササイズ『ヨガ』と一緒だったわけです。 ついでに、『三密』の事も解説しますと、密教における悟りを行う時のコツのようなもので、。『身密(しんみつ)』(身体・行動)、『口密(くみつ)』(言葉・発言)、『意密(いみつ)』(こころ・考え)の『身・口・意』の三つの『密』(仏と一体となる行為)を整えることを表しています。ちなみに、コロナ禍の時に流行った「三密を避けましょう!」の『三密』は『密集』、『密着』、『密閉』でしたね~。 さて、その後、天平12年(740年)、第45代天皇『聖武(しょうむ)天皇』【在位期間:神亀元年(724年)~天平勝宝元年(749年)】が児島一円を熊野神社の神領として寄進します。また、史上6人目の女性天皇で第46代天皇『孝謙(こうけん)天皇』【在位期間:天平勝宝元年(749年)~天平宝字2年(758年)】が、紀州の『熊野権現』(現在の熊野本宮大社)に『日本第一大霊験根本(にほんだいいちだいれいけんこんぽん)』の称を授けました。 その後の天平宝字5年(761年)、『由加山』に紀伊国の『熊野本宮』を模した社殿『本宮』(十二社権現宮)と『伽藍堂』(僧侶が集まり修行する清浄な場所)として『寺院』が造営されます。その造営された『本宮』は、紀州の『熊野権現』に授けられた『日本第一大霊験根本』の称号にあやかり、『日本第一熊野十二社権現宮』(現在の日本第一熊野神社)と呼ばれるようになります。また、『寺院』は後の『五流尊瀧院』となって行くのです。 また同時に、五流尊瀧院の奥之院として『諸興寺(しょこうじ)』(岡山県倉敷市木見、現在は跡のみ)が造営されました。さらに、行基が納めた『瑜伽大権現』(十一面観音)を祀るための『那智宮(なちぐう)』(岡山県倉敷市児島由加山)(現在の由加神社本宮、由加山蓮台寺)も造営されます。 そうやって、それらの造営された①『本宮』(十二社権現宮)(後の日本第一熊野神社ならびに五流尊瀧院)(岡山県倉敷市林)、②『諸興寺』(岡山県倉敷市木見、現在は跡のみ)、③『那智宮』(現在の由加神社本宮、由加山蓮台寺)(岡山県倉敷市児島由加山)が、備前国の『新熊野三山』と称されるようになりました。 ちなみに、紀伊国の『熊野三山』は、①『熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)』(和歌山県田辺市本宮町)、②『熊野速玉大社(くまのはやたまたいしゃ)』(和歌山県新宮市新宮)、③『熊野那智大社(くまのなちたいしゃ)』(和歌山県那智勝浦町)の3つの神社の総称のことで、現在も三本足の烏(カラス)『八咫烏(やたがらす)』が御使いとしても有名な人気のパワースポットです。 その後、第50代天皇『桓武(かんむ)天皇』【在位期間:天応元年(781年)~延暦25年(806年)】の御世に『由加山』は朝廷の祈願所と定められます。なお、現在の『由加神社本宮』の拝殿には、朝廷の祈願所となった証の『菊花紋章』が各所に見られます。        ◇   ◇   ◇ さて、そもそも現在の『熊野古道』と称される『熊野三山』へ至る『紀伊路』は、『熊野信仰』が栄える以前の飛鳥・奈良時代の頃より天皇が行幸した街道でありました。そして、平安時代から鎌倉時代にかけて『熊野信仰』が隆盛を迎えると、天皇や上皇をはじめとする『皇族』や『貴族』たちの間で『熊野三山』へお参りする『熊野御幸(くまのごこう)or熊野行幸(くまのぎょうこう)』(通称:熊野詣(くまのもうで))が爆発的な人気を博することになります。 その皇族や貴族の『熊野詣』の際、先達役(案内人)を勤めたのが、『由加山』が管轄する修験者たちでした。そういった理由から『由加山』も皇室から尊崇されるようになり、紀伊国の熊野三山と共に益々発展して行きました。 『由加山』が皇族から厚い保護を受けていた事が伺えるエピソードとして、鎌倉時代の元久2年(1205年)、第83代天皇『土御門(つちみかど)天皇』【在位期間:建久9年(1198年)~承元4年(1210年)】が、かつて天平12年(740年)、第45代天皇『聖武(しょうむ)天皇』が寄進した児島一円(児島郡)を、もう一度、熊野神社の神領として寄進し直しています。 このように、皇族から手厚い保護を受けていた『由加山』でしたが、ある政変をキッカケに陰りが見え始めます。その政変とは、承久3年(1221年)、『後鳥羽(ごとば)上皇』【天皇在位時は第82代天皇(在位期間:寿永2年(1183年)~建久9年(1198年))】が、鎌倉幕府執権の『北条義時(ほうじょうよしとき)』【長寛元年(1163年)生~元仁元年(1224年)没】に対して討伐の兵を挙げた戦い『承久の乱』(別名:承久の変)です。 この『承久の乱』の結果、幕府軍に敗北した『後鳥羽上皇』は隠岐(おき)に配流(はいる)(島流し)されます。そして、鎌倉幕府は京都に『六波羅探題(ろくはらたんだい)』を置き朝廷を監視するようになります。また、幕府が皇位継承等にも影響力を持つようになるなど、朝廷の権力を制限するようになって行きます。こうして、政治の実権が朝廷から幕府へ移り『武士の時代』へと移り変わって行ったのです。 その後、政治の実権を握った幕府は、全国の神社や寺院が持つ神領や寺領を次々と削減しました。そして、武士の組織における主人と家臣の関係『御恩と奉公』の元、削減した土地を活躍した家臣への報酬として当てたのです。こうして、皇族の崇敬を集めていた由加山の神領や寺領も幕府によって削減され、次第に衰退して行きました。 ちなみに、この『承久の乱』後、『後鳥羽上皇』の第四皇子の『冷泉宮頼仁親王(れいぜいのみやよりひとしんのう)』【建仁元年(1201年)生~文永元年(1264年)没】は、備前国児島の『由加山』へ配流されました。そして、『五流尊瀧院』を庵室(あんしつ)(配流先の住まい)として定めたそうです。 なお、現在、岡山県倉敷市木見の『諸興寺跡』(五流尊瀧院のかつての奥の院で、新熊野三山の一つ)には『頼仁親王墓』があり、この地で生涯を終えた『頼仁親王』が眠っています。また、現在に残る修験道の寺院『五流尊瀧院』の歴代大僧正は、『頼仁親王』の子孫が務めていると伝わっているそうです。 さて、その後の『南北朝時代』【建武3年(北朝)/延元元年(南朝)(1336年)~元中9年(北朝)/明徳3年(南朝)(1392年)約56年間】に入ると、紀伊国熊野周辺で争乱が絶えなかったこともあり、それ以降は次第に『紀伊国』の『熊野三山』との繋がりも途絶えて行きました。 そういった状況の中、『戦国時代』【応仁元年(1467年)『応仁の乱』以降】に入ると、中国地方の一円を支配した戦国大名の『大内氏』と、その支配権を受け継いだ戦国武将の『毛利氏』のそれぞれに庇護を受けながら『由加山』の各寺社は細々と存続して行きます。 しかしながら、天正10年(1582年)、『毛利氏』と『羽柴秀吉』(後の豊臣秀吉)とが争ったの『備中高松城の戦い』において、有名な『水攻め』より毛利氏側が敗北すると、毛利氏側に組していた『由加山』の各寺院は『羽柴秀吉』の弾圧を受けるようになります。そして、とうとう神領のほとんどを失ってしまい、『由加山』の信仰の火はまさに『風前の灯(ともしび)』となってしまいます。 以前、『備中高松城の戦い』の際、城主であった『清水宗治(しみずむねはる)』の墓を訪ねて、お隣の光市へランニングしたことがあるよ!! その時の記事はコチラから ↓↓↓ 清水宗治の史跡巡りラン🐖💨 - 光市 浅江・光井-2021-10-10 https://yamap.com/activities/13617797 #YAMAP #山歩しよう        ◇   ◇   ◇ さて、戦国時代末期に崩壊寸前の『由加山』が、『江戸時代』に奇跡の復活を遂げます。どのような経緯で復活していったのか?ここから以降、江戸時代の『由加山』の様子について見て行きたいと思います。 戦国時代が終わり『天下泰平』の江戸時代を迎えると、慶長18年(1613年)、『徳川幕府』はキリスト教を取り締まるために『禁教令(きんきょうれい)』を発布します。それに伴い、同年の慶長18年(1613年)に『修験道法度(しゅげんどうはっと)』が出され、自然崇拝の一種で山を神として敬う『山岳信仰』から発展した日本独自の宗教『修験道』も仏教の一派として統制されます。 そして、この『修験道法度』により日本各地のすべての『修験道』は、真言宗系の醍醐(だいご)(現在の京都府京都市伏見区)の『三宝院(さんぽういん)』(現在の醍醐寺三宝院)が統轄する『当山派』か?はたまた、天台宗系で『聖護院(しょうごいん)』(現在の京都市左京区聖護院中町)が統轄する『本山派』か?のいづれかに所属させられます。この時以降、『由加山』の修験道の寺院である『五流尊瀧院』では、天台宗系の修験道である『本山派』として『聖護院』に属することになります。 そもそも、日本各地に点在する霊山における修験者たちは、かつては『由加山』により管理・監督されていましたが、『由加山』の衰退と共にその支配力も衰え、それぞれが独自の活動を行うようになっていたようです。そのため、それぞれの霊山における日本各地の『修験道』も、真言宗系の『当山派』か?天台宗系の『本山派』か?の選択は各々の判断に任されました。 ここで突然ですが、『聖護院(しょうごいん)』繋がりで、京の冬を代表する京野菜『聖護院だいこん』の由来を解説したいと思います。そもそも、『聖護院だいこん』の由来は、江戸時代の文政年間(1816年~1831年)まで遡ります。その頃、京都の『聖護院』の近辺に住む『田中屋喜兵衛』という農家が、『金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)』(現在の京都市左京区黒谷町にある浄土宗の大本山の寺院)において、尾張の国から奉納された大根の種子を譲り受け栽培し始め、品種改良を重ねた結果、土壌の浅い京都の地に合った『太くて短い形の大根』の育成に成功したそうです。その後、この大根が聖護院一帯で盛んに栽培されたことから『聖護院だいこん』と呼ばれるようになり、京都を代表する京野菜になったそうです。 ついでに、『醍醐寺』繋がりで『醍醐寺三宝院』の事も解説しますと、、、。当山派修験道の総括を行う『醍醐寺三宝院』は、慶長3年(1598年)、『豊臣秀吉』がその地で開いた花見『醍醐の花見』で有名な場所です。また、この『三宝院』の庭園は、昭和27年(1952年)、国の特別史跡および特別名勝『醍醐寺三宝院庭園(だいごじさんぽういんていえん)』として指定されています。 以前、京都の醍醐寺と関わりがある下松市平田にかつてあった『醍醐庵』という場所を詳しく調べたことがあるよ! その時の記事は、コチラから ↓↓↓ 『御国廻御行程記 花岡絵図』より平田の和歌の謎を追え🧐🔍️❗ - 下松市・平田-2021-11-23 https://yamap.com/activities/14460812 #YAMAP #山歩しよう        ◇   ◇   ◇ さてさて、話を『由加山』へ戻しまして、、、。ここから『由加山』復活の契機を詳しく見て行きます。正保4年(1647年)、岡山藩3代目藩主『池田光政(いけだみつまさ)』【慶長14年(1609年)生~天和2年(1682年)没】が、『由加山』の『日本第一十二社権現宮』(後の日本第一熊野神社)を『備前藩特別崇敬社』と定めた事から、『由加山』の復活が始まります。 そもそも、岡山藩3代目藩主『池田光政』は、教育の充実と質素倹約を旨とした『備前風』といわれる政治姿勢を確立した藩主で、寛永18年(1641年)、全国に先駆けた初の藩校『花畠教場(はなばたけきょうじょう)』(岡山城下を流れる旭川の中洲・花畠、現在の岡山市中区網浜)を開校したり、寛文10年(1670年)には日本最古の庶民の学校『閑谷学校(しずたにがっこう)』(現在の岡山県備前市閑谷)を開き、庶民への教育も推奨した人物です。 そして、『池田光政』は政策において、当時全国で主流であった庶民の身分を寺院が保証する制度である『寺請制度(てらうけせいど)』を廃止し、庶民の身分の保証を寺院に代わって神社が行う『神道請制度(しんとうけせいど)』を導入するなど、『神道(しんとう)』を重んじる政策を取ります。 その様な理由から、『池田光正』は、古くより山岳信仰の聖地であった『由加山』を重視し、備前国の藩主『池田氏』の祈願所と定め、毎年、正月、5月、9月の3度に渡って藩主自らも参拝するようになります。そうやって、江戸時代に入り、『由加山』は備前国藩主である『池田氏』の保護を受けるようになった後、次第に人気が盛り返して行き、最初の方でも述べましたように、『こんぴら参り』のブーム到来と共に『両参り』で爆発的な人気を得るようになるのです。 このように、『江戸時代』に奇跡の復活を遂げた『由加山』は、浮世絵のモチーフにもなりました。『化政文化』を代表的する浮世絵師・『歌川広重(うたがわひろしげ)』が、日本の山と海の美を求めて描いた全20図のシリーズ物(当時は『揃物(そろえもの)』と呼ばれた)の『山海見立相撲(さんかいみたてずもう)』の一つに、題名『備前瑜賀山』として雪化粧をした美しい『由加山』の姿が描かれています。 さらに、同じく『歌川広重』が全国各地の名所を描いた全70図にも及ぶ『六十余州名所図会(ろくじゅうよしゅうめいしょずかい)』に、備前国の名所として『備前・田の口海浜瑜賀山鳥居』が描かれています。この絵をググって下さると分かると思いますが、海の中に鳥居が建っている様子が描かれています。実は、『由加山』の南方に位置し門前町であった『田の口』は、かつては海に面した港町でした。そして、江戸時代の人々は、その港から船で瀬戸内海を渡り、讃岐国の『こんぴら参り』へ赴いていたのでした。 ちなみに、この『歌川広重』の『六十余州名所図会』には、『周防・岩國錦帯橋』と『長門・下の関』がラインナップされ、しっかりと周防・長門の名所も紹介されています。        ◇   ◇   ◇ 現在、『厄除け神社』として有名な『由加神社本宮』ですが、この厄除けの御利益が備わったのも、江戸時代に流行った『両参り』がキカッケでした。 もともとの『由加神社本宮』の御祭神は、建築や楽器作りの神様で、木造建築の上棟式(じょうとうしき)(棟上げ)の御祭神である『手置帆負命(たおきほおいのみこと)』と『彦狭知命(ひこさしりのみこと)』の2柱でしたが、江戸時代に『両参り』の風習が流行り始めた頃に、旅の安全を祈願するために『厄除け』の御利益がある『神直日命(かむなおひのみこと)』と『大直日命(おほなおひのみこと)』の2柱が勧請されたそうです。 ちなみに、元からある御祭神の『手置帆負命(たおきほおいのみこと)』と『彦狭知命(ひこさしりのみこと)』の2柱は、『天照命(あまてらすのみこと)』の『天岩戸隠れ(あまのいわとがくれ)』の伝説において、峡谷で木材を調達し、『天御量(あめのみはかり)』(長さを測るための物差し(定規)のこと)を使って、『天照命』をお迎えするための『瑞殿(みずのみあらか)』と言う宮殿を建て、儀礼の時に用いる『御笠(みかさ)』や『矛』、『楯』を製作したと言われています。 なお、古代の大和朝廷を支えた氏族の一つに、祭事を司る『忌部氏(いんべし)』と言う氏族がありましたが、その忌部氏は、祭事の際に使う資材を調達したりする一方で、祭事の際に使う道具を作成したりする職人集団の一面も持っていました。特に、盾や矛など武器製造業に携わった『讃岐忌部氏』(香川県)の祖が『手置帆負命』で、木を伐採し木材を調達した『紀伊忌部氏』(和歌山県)の祖が『彦狭知命』と言われています。 これまでの解説で分かりますように『由加山』は、『讃岐国』(現在の香川県)の『金刀比羅宮』ならびに『紀伊国』(現在の和歌山県)の『熊野三山』と関わりが深い土地であります。これらの背景に古代の氏族『忌部氏』との関わりがあるのではないか?と考えられています。 ちなみに、忌部氏の繋がりで、『備前忌部氏』という一族もいたそうで、こちらは『阿波国』(現在の徳島)から『備前国』(現在の岡山県)へ移住してきた忌部一族の技術集団だったそうで、それら移住してきた人々が『陶芸』を始めたことが、現在の『備前焼』の元となったそうです。 現在の岡山県備前市伊部(いんべ)の地には、忌部一族の祖である『天太玉命(あめのふとだまのみこと)』を祀った『忌部神社』(天津神社の境内末社)があります。創建は不明だそうですが、『備前焼』の窯元である『備前忌部氏』の末裔の人々(窯元六姓(金重、森、木村、大饗(おおあえ、おおあい、おおわい etc.)、寺見、頓宮(とんぐう、とみや、はやみ etc.))と言われる)が、忌部一族の守り神として『天太玉命』を『伊勢神宮』より勧請して、この地にお祀りしたと言い伝えられているそうです。 ちなみに、『天太玉命』は、『天岩屋戸隠れ』の伝説において『天照命』をお迎えする祭事を取り仕切る『司祭』の役割を担った神で、この『天照命お迎えプロジェクト』のリーダー的存在でした。また『玉串(たまぐし)』や『注連縄(しめなわ)』など多くの祭具を作ったことから、『物造りの神様』としてお祀りされています。 なお、現在の岡山県備前市の『伊部(いんべ)』の地名は、『備前忌部氏』が移り住んだ土地にちなんでいます。また、現在は岡山県を代表する工芸品として有名な『備前焼』ですが、元々は『伊部焼(いんべやき)』(『忌部焼』とも表記した)と言われていたそうです。        ◇   ◇   ◇ 続いて、江戸時代の『両参り』の流行がキッカケで『由加神社本宮』へ勧請された『厄除け』の御利益がある『神直日命(かむなおひのみこと)』と『大直日命(おほなおひのみこと)』について解説しますと、、、。 『伊邪那岐命(いざなぎのみこと)』と『伊邪那美命(いざなみのみこと)』の『国生み』の伝説において、死者の国『黄泉(よみ)』から帰った『伊邪那岐命』が『禊(みそぎ)』を行った際、その『穢れ』から災害や凶事を引き起こす神『禍津日命(まがつひのみこと)』が生まれます。その後、『禍津日命』がもたらすを『禍(まが、わざわい)』(災厄)を直すために生まれたのが『神直日命』と『大直日命』とされています。 ちなみに、『国生み』の伝説において『伊邪那岐命』が黄泉から帰った際に行った『禊(みそぎ)』にて、伊邪那岐命の左目から『天照命(あまてらすのみこと)』、伊邪那岐命の右目から『月読命(つくよみのみこと)』、伊邪那岐命の鼻から『須佐之男命(すさのおのみこと)』、いわゆる『三貴子(みはしらのうずのみこ、さんきし)』も生まれました。 先に述べた黄泉から帰った伊邪那岐命の禊より生まれた『禍津日命』、『神直日命』、『大直日命』の三神は、同じく禊によって生まれた『三貴子』のそれぞれと同一神とする解釈があるそうです。つまり、それぞれ『天照命』=『禍津日命』、『月読命』=『神直命』、『須佐之男命』=『大直日命』と言われています。また、『神直日命』と『大直日命』は本来は同一神と見られており、それらの同一神と見られている『月読命』と『須佐之男命』もまた同一神と捉える事があるそうです。 ちょっと余談ですが、神様の名前の後に付く『尊称』には、『神(かみ)』、『命(みこと)』、『尊(みこと)』など様々あります。それぞれ簡単に解説しますと、『○○神』はその名の通り「神様ですよ~!」と表すもので、『○○命』と『○○尊』は、身分の高い方に対する尊称として使われます。 なお、『命』と『尊』の違いについては、細かく言うと色々とあるのですが、大きな違いは『古事記』では『○○命』に、『日本書紀』では『○○尊』にそれぞれ基本的には統一して表記されている点が挙げられます。 また、私の個人的な印象として、歴史書としてお堅いイメージの『日本書紀』に対して、『古事記』は神話や伝承などが多く、登場する神々も人間っぽくて親しみ易いイメージがあります。よって、上記に登場してきた神様たちの『尊称』を親しみを込めて『○○命』と統一していますので、その点を踏まえて頂けると幸いです。        ◇   ◇   ◇ さて、明治時代以降の由加山について見て行きます。明治元年(1868年)の『神仏分離令』により、『日本第一熊野十二社権現宮』は、『日本第一熊野神社』へ。『寺院』(五流尊瀧院』)は『天台宗』の寺院へとなりました。 また、行基が納めた『瑜伽大権現』(十一面観音)を祀るための『那智宮(なちぐう)は、同じく明治の『神仏分離令』より『由加神社本宮』と『由加山蓮台寺』とに分離しましたが、第二次世界大戦後の昭和20年(1945年)、『国家神道解体』により、形式的には分離したままながら僧職が本殿で祈祷を行う等、蓮台寺が実質的に由加神社を管理・運営する明治以前の形態を取り戻します。 そのため、現在の『由加神社本宮』は、『本地仏(ほんじぶつ)』(神の姿をした仏・菩薩)として、『阿弥陀如来(あみだにょらい)』、『薬師如来(やくしにょらい)』祀っている全国でも珍しい『神仏習合』の神社でもあります。 ちなみに、かつて『新熊野三山』の一つと数えられた『諸興寺』は、当初は立派な『堂塔伽藍(どうとうがらん)』を備えた大寺だったそうですが、室町時代の由加山衰退期の頃から次第に廃れて、江戸時代になると『阿弥陀堂』と『薬師堂』を残すだけとなったそうです。そしてこのことが、前述した『由加神社本宮』の『本地仏』として『阿弥陀如来』と『薬師如来』が祀られている所以でもあります。 先述しましたように、第二次世界大戦以降、蓮台寺が実質的に由加神社を管理・運営する形に戻ったため、由加神社としての宗教法人資格は一応保持し、神職を配置しつつも、事実上は休眠状態に近かったそうです。しかしながら、平成9年(1997年)に由加神社が宗教法人としての独自の活動を開始したため、現在の由加神社は蓮台寺と対立状態になっているそうです。 何故そのようになってしまったのか?と言いますと、当時の兄(蓮台寺住職)と弟(由加神社宮司)の間の対立が原因と言われており、由加神社が一部の建物を占拠し、蓮台寺が建物の明け渡しを求めるなど裁判沙汰にもなったそうです。『厄除け』で霊験がある『由加神社』も『兄弟喧嘩』を取り成すことは出来なかったと言うことでしょうかね?        ◇   ◇   ◇ さて、江戸時代に流行った『両まいり』をキッカケに『厄除け神社』として一躍有名になった『由加神社本宮』ですが、その現在の由加山の様子について解説して行きます。まず、由加山の第一駐車場から続いている表参道には、その途中の3か所に『厄除け石段』が設置されています。それぞれ、最初の鳥居から『表参道厄除け石段』、『三十三厄除け石段』、『六十一厄除け石段』と名前が付いているそうです。 そして、由加神社本宮の境内入口に到着すると、そこには備前焼でつくられた大きな鳥居『備前焼大鳥居』が建っています。これは、明治27年(1894年)に奉納されたもので、備前焼でつくられた鳥居としては日本一の大きさだそうですが、そもそも備前焼で鳥居を造るなんて発想は岡山県ならではではですよね(笑)。 それから、鳥居の両脇に目を向けると、そこには、江戸時代後期の文政12年(1829年)、備前岡山藩藩主『池田家』によって奉納された備前焼で作られた狛犬がいます。その鳥居の正面の向かって左側にある『備前焼狛犬(吽)』の方は、右前足を上げた状態なのですが、実はもともと親子の獅子で、足の下に『子獅子』がいたそうです。しかしながら、昭和の頃に子供の方だけ盗難にあってしまい、現在の状態になっているそうです(泣)。 さらに、一方の『備前焼狛犬(阿)』の台座には、備前岡山藩『池田家』の家紋・『揚羽蝶紋』が見られます。特に、備前岡山藩の揚羽蝶紋は『備前蝶』と言われています。ちなみに、備前岡山藩の藩城『岡山城』へ行くと、当然のことながら、各所にこの『備前蝶』が見られます。城内を散策する際、「ここにもあった!」と探して廻るも楽しいでしょうね! なお、『岡山城』は、外壁が黒塗りの『下見板(したみいた)』(外壁の仕上げに使われる板材)で覆われていて、全体的に黒っぽい様相をしていることから『烏城(うじょう)』(烏(う)はカラスの意味)の別名があります。また、城内敷地における発掘調査の結果から、築城時には『金箔瓦』が随所に用いられたと考えられています。このことから、岡山城の別名を『金烏城(きんうじょう)』とも言うそうです。 ちなみに、池田家草創期に用いられた横を向いた蝶紋を『泊蝶紋(とまりちょうもん)』と言うそうで、現座、『岡山城天守閣』(岡山市北区丸の内)の登城記念の『御城印(ごじょういん)』のデザインになっているそうです。岡山城を訪れた際には、是非とも『泊蝶紋』の『御城印』を記念にゲットしては如何でしょうか?        ◇   ◇   ◇ さて、話を由加山に戻しまして、、、。備前焼の大鳥居をくぐって進むと代表的な『権現造り』である『由加神社本宮』の『拝殿』が目に入ります。その『拝殿』の後ろに控える『本殿』は、江戸時代前期頃に建てられたと推定され、現在の由加山内で最古の建物だそうで、岡山県の重要文化財に指定されています。ちなみに『権現造り』とは、『拝殿』と『本殿』の間に『石の間』(相の間)が挟まれており、上から見ると『工』の字の形に見える配置が特徴の建築様式になります。 なお、由加神社の拝殿内には、縁結びで知られる『素戔嗚命(すさのおのみこと)』が祀られてりおり、男性は左側から中に入り奥に祀られている『縁結び獅子』の『女獅子』に、女性は右側から入り『縁結び獅子』の『男獅子』に参ると良縁に恵まれるそうです。 さらに、由加神社には、『厄玉の儀(やくだまのぎ)』と呼ばれるユニークな儀式があります。それは、『厄』の字が彫られた陶器の玉の一か所に穴が空いていており、その穴に向かって息を吹きかけ厄や災いを玉の中に封じた後、納め所に書かれた大きな『厄』の字に向け、その玉を力一杯ぶん投げ、粉々に破壊すると言う儀式です。ストレス発散も兼ねて良さそうな儀式ですね~。 この他にも、橋の足元一面に無数に書かれた『厄』の字を避けながら渡ると厄除けの御利益があると言われる『厄はし』があったり、体の痛い部分や調子の悪い部分をさすると、痛みが消えると言われている『消痛の小鎚(しょうつうのこづち)』があったりと、様々なアトラクション的な儀式もあります。 また境内には、地元・児島地区の漁師が豊漁祈願とともに、捕獲した魚介類の供養をしたいと、平成中期に建てられた『タコ神様』(御祭神:大綿津見神(おおわたつみのかみ))や本殿地下200メートルのところより湧出した御霊水で金銭(硬貨、紙幣)を洗い清めると、不浄の塵垢(じんこう)(塵(ちり)と垢(あか))が消えて清浄な『福銭』になり、『お金持ち』になれると言われる『銭洗弁財天(ぜにあらいべんざいてん)』などがあります。 さらには、学問の神様である『菅原道真(すがわらのみちざね)』公を祀る『天満宮』や豊作や商売繁盛の神様である『倉稲魂命(うかのみたまのみこと)』を祀った『稲荷社』などなど、様々な神様が祀られており、さながら神様たちのテーマパークとなっております。        ◇   ◇   ◇ さて、『稲荷宮』の後ろを確認することを忘れてはなりません。そこには巨大な岩々の集まり『磐座(いわくら)』群があります。由加山の解説の冒頭でも述べましたが、そもそも『由加山』はその山名が名付けられるよりも以前の紀元前の頃より、山中の巨岩を御神体として信仰を集めた山岳信仰の地でした。このような『磐座』は古来より神霊が降りてくる場所と信じられ、古代の人々から聖地として大切にされ崇められていました。この巨石群を眺めていると、何かしらの神様が宿っているのではないか?と、現代の我々でも感じることでしょう。 さらに、同じく境内には、江戸時代の岡山藩の藩主『池田氏』に世継ぎが恵まれず、このこの神社の御神木の楠(くすのき)に願掛けをしたところ、子供を授かったとされる『子授けの御神木(こさずけのごしんぼく)』があります。ちなみに、この御神木の周りを、御神木の正面を背にして右回り(時計回り)で3回まわると男の子が、左回り(反時計回り)に3回まわると、女の子を授かるといわれているそうです。 由加神社をくまなく散策した後は、由加神社を訪れた記念にお土産でも如何でしょうか?最初にご紹介するのは、『由加神社本宮オリジナルの御朱印帳』です。由加神社には、3種類の御朱印帳があるそうですが、その内1種に『倉敷児島デニム生地』の御朱印帳があるそうです。現在の岡山県倉敷市の児島地区は『国産ジーンズ発祥の地』であることから、このオリジナル御朱印帳が誕生したそうです。 また倉敷市は日本の『帆布(はんぷ)生地』(キャンバス生地)の約7割を生産しており、倉敷で生産された帆布は『倉敷帆布』と呼ばれています。『由加神社本宮オリジナルの御朱印帳』の1一つに、この『倉敷帆布生地』を使用した御朱印帳があります。 また倉敷は、『畳表(たたみおて)』の材料に使用される植物『藺草(いぐさ)』の発祥の地でもあります。その『藺草発祥の地』にちなんで、この由加神社では『畳縁(たたみべり)生地』の御朱印帳もあります。由加神社に訪れた際には、是非とも大変珍しいこれらの御朱印帳をゲットしてみては如何でしょうか?ちなみに、初穂料はいづれも2,000円です。 次にご紹介するのは、備前焼でつくられたお守り『美禅守(びぜんまもり)』です。このお守りは直径約1.3センチメートルの小さな球状のかわいらしいお守りで、色は蒼(あお=青)、華(はな=赤)、琥(こ=黄)の全3色があります。もちろん、厄除け神社である由加神社のお守りですから、このお守りには『災難除け』の御利益が備わっています。初穂料は800円です。        ◇   ◇   ◇ 最後にご紹介するのは、由加山へ訪れたらぜひ買って帰りたいお土産の『あんころ餅』です。この『あんころ餅』は江戸時代の頃から由加山名物として有名だったそうです。かつての参拝者は徒歩での長い旅をして訪れていため、疲れた体を回復するために甘い『あんころ餅』が大変重宝されたようです。 かつて参道の門前町には、たくさんのあんころ餅の店があったそうですが、現在、門前町にあるあんころ餅の店は2店のみだそうです。その内の一つ、『あんころ餅専門店 元祖とら屋』は江戸時代からの創業だそうです。 そもそも、正保4年(1647年)、岡山藩3代目藩主『池田光政(いけだみつまさ)』が『由加山』を重視し、備前国の藩主『池田氏』の祈願所と定め、毎年、正月、5月、9月の3度に渡って藩主自らも参拝するようになった事は、先にも解説しました。 その『池田光政』の息子である岡山藩4代目藩主『池田綱政(いけだつなまさ)』【寛永15年(1638年)生~正徳4年(1714年)没】が『由加山』へ参詣した際、それらの訪れた大名行列のへ『お接待』として、由加地区の住民があんこをまぶしたお餅を竹の皮に包んで振る舞ったことが、由加山の『あんころ餅』の起源だそうです。 江戸末期の化政期(1804年~1831年)、讃岐国(現在の香川県)の『金刀比羅宮』との『両参り』が爆発的に人気を博すると、参道の門前町にはたくさんのあんころ餅屋が軒を連ね、多くの参拝客が名物の『あんころ餅』に舌鼓を打ったと言います。その中の1軒が現在も残る『元祖とら屋』だったそうで、つまり『元祖とら屋』は少なくとも200年以上の歴史がある老舗ということになります。 そして、驚くことに『元祖とら屋』のあんころ餅は、現在でも江戸時代から作られていた製法を守っており、『味』と『大き』ともに当時とほとんど変っていないそうです。そして気になる『味』は、すっきりとした甘さのこしあんがたっぷりと塗られ、『大きさ』も一口で口に入るくらいのちょうど良い大きさで、何個でも食べれられる美味しさだそうです。『由加山』を訪れた際には是非とも『元祖とら屋』の『あんころ餅』をゲットして、『江戸時代の味』を堪能してみては如何でしょうか?        ◇   ◇   ◇ ちなみに、『日本三大あんころ餅』というものがあるそうで、その一つに『由加山』の『元祖とら屋』のあんころ餅が入っているそうです。そして残る2つはと言いますと、、、。 一つは、前回の江戸時代深掘り解説で詳しく解説した『お伊勢参り』に関わる三重県の『赤福』のあんころ餅だそうです。そして残る一つは、石川県白山(はくさん)市(旧:松任(まっとう)市)にある老舗和菓子屋『圓八(えんぱち)』のあんころ餅だそうです。なお、『赤福』の創業は宝永4年(1707年)、『圓八』の創業も元文2年(1737年)といずれも江戸時代から続く老舗和菓子店です。 なお、石川県の老舗和菓子屋『圓八(えんぱち)』についての情報ですが、今年、令和6年(2024年)元旦に発生した『能登半島地震』において、『圓八』がある白山(はくさん)市は石川県の南部に位置していたため、地震による直接的な大きな被害は確認されていないとのことです。 しかし、一部に下水道本管の損傷などにより住宅内の汚水が流れにくい被害が確認されたため、一時的に不便を強いられたとのこと、、、。被災地を応援するためにも、石川県を訪れた際には、是非とも老舗和菓子屋『圓八(えんぱち)』のあんころ餅をゲットしたいものです。        ◇   ◇   ◇ ちなみに、明治の俳人『正岡子規(まさおかしき』【慶応3年(1867年)生~明治35年(1902年)没】は、晩年の明治33年(1900年)の春に『赤福』のことを句に詠んでおり、『到来の 赤福餅や 伊勢の春』と詠んだそうです。 この句は、正岡子規の弟子で三重県出身の『山本匂玉(やまもとこうぎょく)』が地元の名物『赤福餅』をお土産に、東京の『子規庵(しきあん)』(東京都台東区根岸)で病床に伏せていた正岡子規の元へお見舞いに訪れた時に詠んだとされています。そして、明治44年(1911年)以降、『赤福』のパッケージに、この正岡子規が詠んだ句が記載されるようになったそうです。 また、正岡子規の弟子の『高浜虚子(たかはまきょし)』【明治7年(1874年)生~昭和34年(1959年)没】が、昭和9年(1934年)、伊勢の『赤福』の店に立ち寄った際、正岡子規が詠んだ上記『到来の~』の句を見て、師のありし日を偲んで、『旅は春 赤福餅の 店に立つ』と詠んだと言われています。そして、これ以降、この高浜虚子が詠んだ句も『赤福』のパッケージに記載されるようになったそうです。 そして、昭和29年(1954年)、『赤福』が『株式会社赤福』になった時の初代社長『濱田ます』(赤福9代目)さんが書かれた『赤福のこと』という本には、『正岡子規がかつて伊勢に参宮した折に立ち寄った『赤福』を懐かしく思い出しながら、弟子の山本勾玉が持参した『赤福餅』を懐かしそうに召された。』と言う内容の記述があるそうですが、、。そもそも、正岡子規が健康な頃に『伊勢参り』をして『赤福』に立ち寄ったという記録はないそうです。 若い頃の正岡子規が伊勢へ立ち寄った可能性があると考えられるのは、明治20年(1887年)と言われています。当時20歳だった正岡子規は、この時は既に上京し東大予備門(のち一高、現:東大教養学部)の学生でしたが、夏休みを利用し故郷の愛媛県松山市へ帰郷していました。そして、夏休みが終わり再び上京する際、京都へ立ち寄り観光を楽しんだ後、横浜行きの船に乗るために三重県四日市市に寄ったのです。もし、正岡子規が『伊勢参り』をして『赤福』に立ち寄ったとするならば、この時が一番可能性が高いと言われているそうですが、、、。 もし、この時に正岡子規が『お伊勢参り』をしたのなら、筆まめな正岡子規が手記や手紙などに『お伊勢参り』のエピソードを書かないはずはありません。しかしながら、一切、正岡子規が『お伊勢参り』を行ったと言う記録はないそうです。よって、株式会社赤福の初代社長『濱田ます』さんの記述内の『正岡子規がかつて伊勢に参宮した折に立ち寄った『赤福』を懐かしく思い出しながら、、、、』の部分が誤りではないか?と考えらているようです。        ◇   ◇   ◇ ちなみに、明治33年(1900年)の春に、三重県の山本勾玉が東京の正岡子規の元を訪れたのは、同年4月8日に行われた『俳句月次会』に出席するためでした。実は、この出来事の少し前の明治33年(1900年)3月24日、正岡子規は自らも記者として勤める『日本新聞社』の新聞『日本』に『赤福』の題で『餅買ひに やりけり春の 伊勢旅籠(はたご)』という句を掲載しています。 なお、この句を実際に正岡子規が作ったのは、その前年の明治32年(1899年)で、この時は既に病床に伏せており、当然のことながら三重県伊勢には行っていません。それでは、なぜ行ったこともない伊勢の『赤福』の句を作り、しかも作った1年後にわざわざ紙面に掲載したのか? そもそも、正岡子規は行ったこともない全国各地の名勝を、さも観て来たかのように勝手に想像して句を作るのが得意な人物でした。東京の『子規庵』で病床に伏せていた正岡子規は、かの有名な伊勢神宮とその門前で売られている『赤福餅』を想像しながら、自分も伊勢に旅行した気分を味わって楽しんでいたと思われます。 そして、その句を作った1年後に、三重県伊勢出身の山本勾玉が句会へ出席するために、この東京までやってくることとなります。当然のことながら、山本勾玉は地方から前触れなく句会に参加するはずもなく、師である正岡子規に対して事前に連絡をしていたはずです。その連絡を受けた正岡子規がわざわざこの句を新聞に掲載したと考えると、、、。 正岡子規がざわざ紙面にこの句を掲載した意図は、三重県伊勢出身の山本勾玉に対して「赤福餅をお土産に買ってきてね!」と言うメッセージだったのではないでしょうか?そして、新聞『日本』に掲載された『餅買ひに~』の句を山本勾玉も目にしたはずです。その結果、正岡子規の元を訪れた山本勾玉が『赤福餅』をお土産に持って来た、、、と考えると、かなり出来過ぎですかね~?        ◇   ◇   ◇ 上記の様に正岡子規の意図通りに、新聞のメッセージを汲んだ山本勾玉がお土産に『赤福餅』を買って来たとなると、正岡子規も自分の企みが成功し、あの伊勢名物の『赤福餅』が食べることが出来た嬉しさの余り、『到来の 赤福餅や 伊勢の春』と詠んだと考えられるのですが、、、。ちなみに、『赤福餅』の賞味期限は現在と同じく当時も『2日間』だったそうで、東京にいた正岡子規にとって『赤福餅』はとても価値があるものだったと思われます。 また、明治時代になって鉄道などの交通網が発達したとは言え、遠方より師匠を慕って弟子の山本勾玉が訪ねてきたことも、正岡子規にとっては嬉しかったに違いありません。句の冒頭の『到来の』の一言に、その喜びが込められている様に感じるのは私だけではないはずです。 現在の『赤福』のパッケージに記載されている『到来の 赤福餅や 伊勢の春』の句は、正岡子規がお伊勢参りに行った事実が限りなく低いと考えられているため、専門家の間では正式な正岡子規の句として認められていないそうです。 句誌など印刷物として残らず、句会などで詠んで短冊などに書かれた句は、その短冊が無くなってしまえば、その存在を証明することができません。現時点で、この句を正岡子規のものと立証できる資料がなく、新たな資料の発見が待たれるところではありますが、上記の様なエピソードがあるこの句は、私としては限りなく正岡子規の真作に違いないと思うのですが、みなさん如何でしょうか? ちなみに、『赤福』のパッケージに記載されているもう一つの句、高浜虚子の『旅は春 赤福餅の 店に立つ』は、昭和9年(1934年)6月に詠まれ、俳誌『玉藻(たまも)』(定本高濱虚子全集第1巻460P・毎日新聞社)に掲載されているので、こちらは正真正銘の高浜虚子の句だそうです。        ◇   ◇   ◇ 随分、話が脱線しましたので、『由加神社』へ話を戻しますと、、、。 現在の『由加神社本宮』は、初詣には35万人以上が参拝し、備中国一宮『吉備津神社』(岡山県岡山市北区吉備津)ならびに備前国一宮『吉備津彦神社』(岡山県岡山市北区一宮)と共に、常に『岡山県の初詣ランキング』の上位に入る岡山県を代表する『初詣スポット』です。 そして、年間でも約100万人が訪れる人気スポットで、冒頭でも述べました様に、江戸時代に流行った『両参り』にあやかり、現在も本州と四国を繋ぐ『瀬戸大橋』を渡り、『由加神社』と『金刀比羅宮』の『両参り』をおこなう参拝客が多くいるそうです。 また、平成29年(2017年)には、『由加神社本宮』が日本遺産『一輪の綿花から始まる倉敷物語 ~和と洋が織りなす繊維のまち~』の構成文化財の一つに登録され、文化の重要拠点としてますます注目を浴びています。 この様に深い歴史と文化を感じながら、本日は、この『由加神社本宮』と所縁のある下松市河内(こうち)久保市(くぼいち)の『由加社(ゆがしゃ or ゆうがしゃ)』への史跡巡りランニングを堪能したのでした。 _,.:*"^*;:,._,.:*"^*;:,._,.:*"^*;:,._,.:*"^*;:,._,.:*"^*;:,. 以上、『江戸時代』の事柄について色々と深掘りしてみました。後半は『由加神社本宮』の観光案内みたいな記事になってしまいましたが、如何でしたか🤗💖。 この『江戸時代深掘りシリーズ』ですが、もう少しネタを用意してあるので、もう暫く続ける予定です😅💦。 最後に、私の長文・駄文にお付き合い頂き、ありがとうございました😘🙏💝。

 今日のウェアーは、『くだまつ笠戸島アイランドトレイル2024』の参加賞で頂いたランニングTシャツです👕💝。
今日のウェアーは、『くだまつ笠戸島アイランドトレイル2024』の参加賞で頂いたランニングTシャツです👕💝。
 途中でトイレ(小)が我慢出来なくなって、コンビニのトイレに駆け込みました🚽😅💦。
途中でトイレ(小)が我慢出来なくなって、コンビニのトイレに駆け込みました🚽😅💦。
 以前ご紹介した事のある『ぎゃらりー 野草の庭』の前を通過🥀🐝。お食事が出来るステキな古民家レストランです。

詳しくは過去記事を参照してね🤗💖。
↓↓↓
スパイ大作戦😎⁉️『ある古民家』を調査せよ❗- ぎゃらりー 野草の庭-2020-11-08 
https://yamap.com/activities/8525937 #YAMAP #山歩しよう
以前ご紹介した事のある『ぎゃらりー 野草の庭』の前を通過🥀🐝。お食事が出来るステキな古民家レストランです。 詳しくは過去記事を参照してね🤗💖。 ↓↓↓ スパイ大作戦😎⁉️『ある古民家』を調査せよ❗- ぎゃらりー 野草の庭-2020-11-08 https://yamap.com/activities/8525937 #YAMAP #山歩しよう
 約4kmのロードを走って、河内(こうち)久保市(くぼいち)の『由加社(ゆがしゃ or ゆうがしゃ)』に到着🤣‼️
約4kmのロードを走って、河内(こうち)久保市(くぼいち)の『由加社(ゆがしゃ or ゆうがしゃ)』に到着🤣‼️
 『由加社(ゆがしゃ or ゆうがしゃ)』の説明板がありました😉👍🎵。

現在の下松市河内の『由加社』の御祭神は『物造りの神様』と崇められている『手置帆負命(たおきほおいのみこと)』と『彦狭知命(ひこさしりのみこと)』の2柱です🤗💖。
『由加社(ゆがしゃ or ゆうがしゃ)』の説明板がありました😉👍🎵。 現在の下松市河内の『由加社』の御祭神は『物造りの神様』と崇められている『手置帆負命(たおきほおいのみこと)』と『彦狭知命(ひこさしりのみこと)』の2柱です🤗💖。
 立派な石鳥居ですね⛩️‼️

突然ですが、定規などがない古代において長さを測る際、指や手の幅や腕を伸ばした長さなどを目安にしていました。『手置帆負命(たおきほおいのみこと)』の名前の由来は、職人が長さを測る際、『手(て=た)を置いて(物を)覆い隠す』ようにして長さを測る姿がそのまま神様の名前となっています📏🧐。
立派な石鳥居ですね⛩️‼️ 突然ですが、定規などがない古代において長さを測る際、指や手の幅や腕を伸ばした長さなどを目安にしていました。『手置帆負命(たおきほおいのみこと)』の名前の由来は、職人が長さを測る際、『手(て=た)を置いて(物を)覆い隠す』ようにして長さを測る姿がそのまま神様の名前となっています📏🧐。
 コチラの石鳥居は、皇紀2536年の寄進とあります。つまり、明治9年(1876年)に寄進されたようですね〜🔍🧐。

『由加社』のもう一方の御祭神『彦狭知命(ひこさしりのみこと)』の名前の『さし』の部分は、『差し』=『物差し』の意で、『彦(ひこ)=男性』の職人が定規を使って長さを測る姿が神様の名前となっています🤓📖。
コチラの石鳥居は、皇紀2536年の寄進とあります。つまり、明治9年(1876年)に寄進されたようですね〜🔍🧐。 『由加社』のもう一方の御祭神『彦狭知命(ひこさしりのみこと)』の名前の『さし』の部分は、『差し』=『物差し』の意で、『彦(ひこ)=男性』の職人が定規を使って長さを測る姿が神様の名前となっています🤓📖。
 狛犬(阿)🐶。

そもそも、この下松市河内にある『由加社』の由来は、天保期に、この久保市の地で大火事があったことから、『火伏せ』(防火)の御利益を求めて、『厄除け神社』として有名な『由加社』を呼坂から遷座したとの記録があることは、最初に解説した通りですが、、、🤔💭。
狛犬(阿)🐶。 そもそも、この下松市河内にある『由加社』の由来は、天保期に、この久保市の地で大火事があったことから、『火伏せ』(防火)の御利益を求めて、『厄除け神社』として有名な『由加社』を呼坂から遷座したとの記録があることは、最初に解説した通りですが、、、🤔💭。
 狛犬(吽)🐶。

本来、『厄除け』の御利益がある神様は、『神直日命(かむなおひのみこと)』と『大直日命(おほなおひのみこと)』のはずなのは、本文中でも解説しましたね🤓📖‼️
狛犬(吽)🐶。 本来、『厄除け』の御利益がある神様は、『神直日命(かむなおひのみこと)』と『大直日命(おほなおひのみこと)』のはずなのは、本文中でも解説しましたね🤓📖‼️
 これらの狛犬(阿吽の両方とも)明治11年(1878年)に寄進されたようですね🔍🧐‼️

現在の下松市河内の『由加社』の御祭神が『手置帆負命(たおきほおいのみこと)』と『彦狭知命(ひこさしりのみこと)』の2柱のみの理由として考えらえるのが、昭和の初め頃、社殿が台風の土砂崩れにより倒壊した後、昭和24年(1949年)に、由加神社の総本山である岡山県児島の『由加神社本宮』から再勧請した際、地元の人々が『由加神社本宮』の本来の神様である『手置帆負命(たおきほおいのみこと)』と『彦狭知命(ひこさしりのみこと)』の2柱のみ再勧請したのでは?と考えられます🤔💭。
これらの狛犬(阿吽の両方とも)明治11年(1878年)に寄進されたようですね🔍🧐‼️ 現在の下松市河内の『由加社』の御祭神が『手置帆負命(たおきほおいのみこと)』と『彦狭知命(ひこさしりのみこと)』の2柱のみの理由として考えらえるのが、昭和の初め頃、社殿が台風の土砂崩れにより倒壊した後、昭和24年(1949年)に、由加神社の総本山である岡山県児島の『由加神社本宮』から再勧請した際、地元の人々が『由加神社本宮』の本来の神様である『手置帆負命(たおきほおいのみこと)』と『彦狭知命(ひこさしりのみこと)』の2柱のみ再勧請したのでは?と考えられます🤔💭。
 境内に『力石(ちからいし)』がありました🪨💪😤。

昭和24年(1949年)の再勧請の際、『厄除け』の御利益がある『神直日命(かむなおひのみこと)』と『大直日命(おほなおひのみこと)』は再勧請しなかったのではないか?と私は推測しています🤔💭。
境内に『力石(ちからいし)』がありました🪨💪😤。 昭和24年(1949年)の再勧請の際、『厄除け』の御利益がある『神直日命(かむなおひのみこと)』と『大直日命(おほなおひのみこと)』は再勧請しなかったのではないか?と私は推測しています🤔💭。
 こちらの『常夜燈』は狛犬と同じく明治11年(1878年)の寄進です🔍🧐‼️

世知辛い話ではありますが、勧請する際の料金(初穂料)はピンキリで、最低でも数万程度必要です。また、神様の数が多くなるほどその額も嵩むのが事実です🤑💸。
こちらの『常夜燈』は狛犬と同じく明治11年(1878年)の寄進です🔍🧐‼️ 世知辛い話ではありますが、勧請する際の料金(初穂料)はピンキリで、最低でも数万程度必要です。また、神様の数が多くなるほどその額も嵩むのが事実です🤑💸。
 こちらが昭和54年(1979年)に再建された社殿です🏯✨‼️

昭和24年(1949年)の再勧請の際、『厄除け』の御利益がある『神直日命(かむなおひのみこと)』と『大直日命(おほなおひのみこと)』が、再勧請されなかった理由として、私の勝手な想像ではありますが、最低限の『由加社』の体裁を整えるために、当時の地元の人々が話し合い、メインの御祭神である『手置帆負命(たおきほおいのみこと)』と『彦狭知命(ひこさしりのみこと)』の2柱のみを勧請したのでは?と考えています😅💦。
こちらが昭和54年(1979年)に再建された社殿です🏯✨‼️ 昭和24年(1949年)の再勧請の際、『厄除け』の御利益がある『神直日命(かむなおひのみこと)』と『大直日命(おほなおひのみこと)』が、再勧請されなかった理由として、私の勝手な想像ではありますが、最低限の『由加社』の体裁を整えるために、当時の地元の人々が話し合い、メインの御祭神である『手置帆負命(たおきほおいのみこと)』と『彦狭知命(ひこさしりのみこと)』の2柱のみを勧請したのでは?と考えています😅💦。
 社殿には立派な龍の『鏝絵(こてえ)』がありました🐉✨。

ともあれ、現在の下松市河内の『由加社』の御祭神は『物造りの神様』と崇められている『手置帆負命(たおきほおいのみこと)』と『彦狭知命(ひこさしりのみこと)』の2柱なので、私の秘密の活動である『表具師』の活動にも通じる神様です。私の『表具』の技量が増して、良い掛け軸をたくさん作ることが出来るように願掛けしました☺️🙏💕。
社殿には立派な龍の『鏝絵(こてえ)』がありました🐉✨。 ともあれ、現在の下松市河内の『由加社』の御祭神は『物造りの神様』と崇められている『手置帆負命(たおきほおいのみこと)』と『彦狭知命(ひこさしりのみこと)』の2柱なので、私の秘密の活動である『表具師』の活動にも通じる神様です。私の『表具』の技量が増して、良い掛け軸をたくさん作ることが出来るように願掛けしました☺️🙏💕。
 社殿造りは、『流造り(ながれつくり)』のようです🏯✨。
社殿造りは、『流造り(ながれつくり)』のようです🏯✨。
 神社のそばには、『切戸川(きりとがわ)』が流れています🌊🚣‍♀️。
神社のそばには、『切戸川(きりとがわ)』が流れています🌊🚣‍♀️。
 こちらの立派な石燈籠は、、、🔍🧐。
こちらの立派な石燈籠は、、、🔍🧐。
 文政4年(1821年)、江戸時代後期の文化文政期の寄進ですね👀。熊毛の呼坂からこの久保市に遷座された年が、天保9年(1838年)でしたので、熊毛時代に寄進された物のようです🤓📖。
文政4年(1821年)、江戸時代後期の文化文政期の寄進ですね👀。熊毛の呼坂からこの久保市に遷座された年が、天保9年(1838年)でしたので、熊毛時代に寄進された物のようです🤓📖。
 お隣のこちらの石燈籠も同じく文政4年(1821年)の寄進でした🔍🧐‼️
お隣のこちらの石燈籠も同じく文政4年(1821年)の寄進でした🔍🧐‼️
 いかにも古めかしい『手水鉢(ちょうずばち)』をよくよく調べてみますと、、、🔍🧐。
いかにも古めかしい『手水鉢(ちょうずばち)』をよくよく調べてみますと、、、🔍🧐。
 この神社内で一番古い文化11年(1814年)の寄進でした😱‼️

熊毛の呼坂に『由加社』が勧請された年が、文政2年(1806年)でしたので、熊毛時代に寄進された物と推測されます🤔💭。
この神社内で一番古い文化11年(1814年)の寄進でした😱‼️ 熊毛の呼坂に『由加社』が勧請された年が、文政2年(1806年)でしたので、熊毛時代に寄進された物と推測されます🤔💭。
 こちらの石燈籠と手水鉢は、どちらも江戸時代後期の文化文政期の寄進の物で、大変貴重な物だと判明しました😳💝‼️
こちらの石燈籠と手水鉢は、どちらも江戸時代後期の文化文政期の寄進の物で、大変貴重な物だと判明しました😳💝‼️
 石鳥居、石燈籠、手水鉢の全体の配置はこのような感じです📷✨👀‼️
石鳥居、石燈籠、手水鉢の全体の配置はこのような感じです📷✨👀‼️
 『切戸川(きりとがわ)』を挟んで、『由加社(ゆがしゃ or ゆうがしゃ)』の全体をパシャリ📷✨。
『切戸川(きりとがわ)』を挟んで、『由加社(ゆがしゃ or ゆうがしゃ)』の全体をパシャリ📷✨。
 復路の途中、『切戸川(きりとがわ)』のほとりにあった桜の木に花がついていました🌸☺️💝。満開までもうすぐですね〜🥰💕。

この後、復路約4kmのロードを走り切って、無事ゴールに辿り着きました🏁🐖💨‼️
復路の途中、『切戸川(きりとがわ)』のほとりにあった桜の木に花がついていました🌸☺️💝。満開までもうすぐですね〜🥰💕。 この後、復路約4kmのロードを走り切って、無事ゴールに辿り着きました🏁🐖💨‼️

もしも不適切なコンテンツをお見かけした場合はお知らせください。