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応挙工房周辺(「遊虎図襖」と「遊鶴図襖」) [応挙]

その三 「遊虎図襖」と「遊鶴図襖」

遊寅図襖.jpg

応挙筆「遊虎図襖」(襖・壁貼付二十四面)の内七面(金刀比羅宮表書院「虎の間」)
各一八二・五×一三九・五cm

 「こんぴらさん」で知られる讃岐(香川)の金刀比羅宮は、海上交通の守り神として古くから信仰を集めていた。奥社まで一三六八段に及ぶ石段の、ほぼ中間に位置するところに「金刀比羅宮表書院」がある。
 その表書院の四室(鶴の間・虎の間・七賢の間・山水の間)にわたって展開する応挙の障壁画は、出入りの京都の仏師の斡旋により豪商三井家の経済的援助を得て、天明七年(一七八七)と寛政六年(一七九四)の二期に分かれて(その間に天明八年=一七八八の大火があり中断)、その障壁画を完成したという。
 その内の第一期の「遊虎図襖」と「遊鶴図襖」とは、天明七年(一七八七)の作とされている。上記の右側は「虎の間」東側襖四面の内の三面で、左側は「虎の間」北側八面の内の四面である。
 この右側の二頭の虎も、左側の二頭の虎も、鏡像関係のように対置するポーズで、右側の虎は「水呑みの虎」、そして、左側の虎が「八方睨みの虎」とのネーミングがあり、他に「白虎」など四頭の虎が描かれている。
 応挙は、これらが障壁画を現地の金刀比羅宮で制作したのではなく、京都のアトリエとして利用していた大雲院で制作したという。そして、これらの障壁画が見事にはめ込まれるその金刀比羅宮には応挙は訪れていないのである。
 また、応挙は実物の虎を一度も見たこともなく、これらの障壁画の虎を描いたということなのである。そして、古代中国以来の天地の守護神としての勇猛さの象徴としての虎は、名のある画人なら誰しもが挑戦した格好なる画題であって、その画人達の虎の傑作画というものも、数多く目にしていることであろうが、上記の応挙の虎は、例えば、狩野派の勇猛さを誇る「名古屋城御本間」に描かれている虎の図ではない。
 実物を基本に据えての写生画を信条とする応挙にとって、実物が存在しない「龍」を描くことよりも、実物が存している、しかし、見たこともない「虎」を、実物を見たように描くということは、それこそ至難のことであったろう。
 そして、応挙は、虎の毛皮を入手し、猫をモデルにして、上記の「虎」図などを制作していたことが、次の「虎皮写生図」などで明らかになってくる。

虎皮写生図.jpg

応挙筆「虎皮写生図」 二曲一双 紙本着色 本間美術館蔵
一五〇・五×一七八・二cm (貼り切れない後脚と尾は裏側に貼ってある)

 かくして、応挙は虎の名手として名を馳せることになるが、その応挙の虎の勇猛さを継承したのは「岸駒(宝暦六=一七五六又は寛延二年=一七四九~天保九年=一八三九)」、そして、日本最大の愛玩的虎を描いた芦雪(宝暦四年=一七五四~寛政十一年=一七九九)へと連なって行く。
 それらのルーツは偏に、上記の「遊虎図襖」で応挙が試行した虎のポーズの可能性の追求と結びついているのであろう。
 ちなみに、応挙に連なる岸駒は、虎の頭蓋骨を手に入れ、それに虎の頭の皮を被せ、その姿を様々な角度から精密に写生したという。さらに各部分の寸法を計測し、牙と歯の本数や形状まで記述している。また、少し後に虎の四肢も入手し、やはり詳細な観察記録が残っているという(富山市佐藤記念美術館蔵)。
 岸駒は、芦雪のように応挙のスタッフとして仕えたことはないであろうが、応挙の解剖学的な写生技法を継承したという面においては、やはり応挙の円山派の画人で、その円山派の一角を形成する岸派の創始者ということになろう。

遊鶴図襖.jpg

応挙筆「遊鶴図襖」(襖・壁貼付十六面)の内四面(金刀比羅宮表書院「鶴の間」)
各一八二・五×一三九・五cm

 応挙は享保十八年(一七三三)、丹波国穴太村(現京都府亀岡市)の農家の出身である。延享四年(一七四七)、十五歳の頃、京都の呉服商に奉公し、後に、玩具商尾張屋(中島勘兵衛)の世話になり、そこで眼鏡絵を描く作業に携わる。同時に、尾張屋の援助で狩野派の石田幽汀門に入り絵の修業を積むことになる。
 そして、宝暦九年(一七五九)、二十七歳の頃、「主水(もんど)」の署名を用いて、この署名によるタンチョウとマナヅルを描いた「群鶴図」(円山主水落款・個人蔵)を制作している。また、明和二年(一七六五)、三十歳の頃から、「仙嶺(せんれい)」の署名を使用し、同じくタンチョウの「双鶴図」(仙嶺落款・八雲本陣記念財団蔵)を制作している。
 これらのことに関して、応挙が師事した石田幽汀の代表作品として「群鶴図屏風」(六曲一双・静岡県立美術館蔵)などがあり、若き日の応挙は、この石田幽汀門で、幽汀流のこれらの鶴の絵の技法なども習熟して行ったのであろう。
 この石田幽汀の「群鶴図屏風」は、タンチョウの他に、ナベヅル・マナヅル・ソデグロツル・アネハヅルなどが描かれており、おそらく、応挙は、虎に関すること以上に、鶴の博物学的な情報を得ていたことであろう。
 事実、上記の「遊鶴図襖」の四面のものは、「鶴の間」西側襖四面(「虎の間」東側襖四面の裏側)のものでタンチョウと芦との取り合わせのものであるが、この「鶴の間」の床の間に描かれている「稚松(わかまつ)双鶴図」は、ナベヅルと地面に小さく顔を出している若松との取り合わせのものなのである。
 もとより、鶴は目出度い瑞鳥として恰好な画題の一つであるが、なかでも、応挙に連なる円山四条派の画人たちは、好んで描いた伝統的なテーマでもある。
 例えば、天明六年(一七八六)芦雪が三十三歳の時、応挙の名代として、応挙の作品を携えて南紀の無量寺に赴き、そこで、芦雪一代の「龍図襖」と「虎図襖」などを仕上げた時の、応挙の作品は、「波上群仙図襖」(四面)と床の間貼付の『山水図』と違い棚上の戸袋貼付の「群鶴図」である。
 そして、芦雪自身、その無量寺で「群鶴図襖」(六面)を描き、その二面には、応挙の飛翔の「群鶴図」から示唆を受けたのか飛翔の鶴図があり、この飛翔の鶴図が、後年(寛政六年=一七九四)に描かれる「富士越鶴図」(グライダーのような、アニメーションのような飛翔鶴図)の原型のようなのである(これらについて、下記の補記二に記したい)。
 なお、この金刀比羅宮の「鶴の間」に関して、「優美な静寂宇宙のよう」(鳥居ユキ)の記事を次(補記一)に記し、障壁画(室内の床貼付(はりつけ)、壁貼付、襖、杉戸、衝立、天井などに描かれた絵の総称)の「空間マジック」「空間トリック」の妙の参考に供したい。

補記一 「優美な静寂宇宙のよう」(ファション・デザイナー 鳥居ユキ)

http://www.shikoku-np.co.jp/feature/kotohira/17/

私が初めて金刀比羅宮を訪れ、この「円山応挙鶴の間」の鶴の襖絵(ふすまえ)に出会ったのは一昨年の七月です。
 京都と琴平にしかない蹴鞠(けまり)の見学に誘われて、「一生に一度はこんぴらさん参り」のつもりで、波が穏やかな瀬戸内海を渡りました。琴平の第一印象は、緑があふれる自然環境がすばらしいこと。長い歴史の中で大切に守ってきた人々の心もまた、あたたかいのだろうと、予感したのを覚えています。

円山応挙鶴の間
 御本宮をお参りした後、表書院へ。神職の方に案内されて、静かに引き戸を引くとそこが「鶴の間」で、目の前のほの暗い空間に鶴の襖絵がありました。座って拝見すると、身を寄せ合った二羽の鶴。親子? それとも夫婦かしら。別の襖には、羽を広げて空を飛ぶ一羽が生き生きと描かれています。
 この絵は、決して美術館などの明るい所で観るものではない。二百年あまり昔、応挙が豊かな自然に恵まれた京都で腕をふるって命を吹き込んだ鶴たちが、空を飛んで、ここにやってきたのですから。それをほぼ同じ状態で、今も間近に観ることができる。「はるばる来てよかった」と、つぶやいていました。
 私は幼い時から鶴が大好きです。静かで上品で、しかも華やかなイメージがある。晴れ着の柄や千代紙の折り鶴、「夕鶴」の物語。日本人の遺伝子のせいでしょうか。

鳥居さんデザインの新しい制服
 そしてまた絵画は、観るのも描くのも大好きなのです。時々、名画集をながめながら、ふと鶴の絵に心をひかれ、鶴が描けたらと思いますがいつもあきらめてしまいます。
 そんな体験を思い出しながらの、応挙の鶴の絵。この部屋は全国から来た諸家の方の控えの間と伺いましたが、優美な静けさと宇宙のような広がりに、客の心も落ち着いたことでしょう。部屋の目的に合わせて鶴を選び、襖を飾った応挙のアートディレクターとしての技量に感心するばかりでした。
 こんぴらさんのリニューアル「平成の大遷座祭」について、琴陵容世宮司の話を伺ったのも、この時でした。翌日、念願の蹴鞠を見学し、初の試みとして、これまで男性だけで奉納していた場を、女性にも与えたと聞き、大変興味を持ちました。改革に同感した私は、宮の女子職員の新しい制服のデザインを引き受けました。緑色と鬱金(うこん)の黄色は、あの美しい自然の森と御守りにも使われている、元気の出る色をイメージした結果です。
 「一生に一度」のつもりが実は、今年の四月にも再訪しました。低くておだやかな丸い山々、一度には見切れないほどたくさんの貴重な美術品の数々、伝統を守る歌舞伎の芝居小屋。とくに応挙の鶴の襖絵は、時を超えて人の心を落ち着かせる魅力が忘れがたいものになりました。四季折々、自然のエネルギーをもらいたい。また、鶴たちに会いたいと思うのです。(2003年7月27日掲載)

補記二 無量寺の応挙と芦雪の「鶴」など

http://www.muryoji.jp/museum/index/index.html

鶴・無量寺.jpg

応挙筆「群鶴図」(無量寺「違い棚の戸袋四面図の内の三面)

鶴・無量寺.jpg

芦雪筆「群鶴図」(無量寺「群鶴図襖六面の内の一部)

その八 富士越鶴図

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-09-15

芦雪・富士鶴図2.jpg

『江戸の絵を愉しむ(榊原悟著)』では、これまでの「垂直方向」(縦長)と「水平方向」(横長)の二次元の世界の他に、「動きを表す=反復効果」という、新たなる「鑑賞視点」を提示している。

「富士山の向こうからこちらへ、鶴が飛んで来る。一羽、二羽、三羽・・・と、隊列を組んでいるようだ。(略) このグライダーような『かたち』のくり返しが、一羽の鶴が飛んでくる航跡を表しているようにも見える。同形の反復とは、これである。まるでアニメーションだ。」

 ここに、応挙が「大瀑布図」で試みた、「垂直方向(壁面=滝の落下部分)」と「水平方向」(床面=滝壺の部分)が、一つの「掛幅画」(「縦」に「ひらく」=垂直画)に、異次元の「絵巻・屏風画・襖画」(「横」に「ひらく」=水平画)だけではなく、「動きを表す=反復の効果」をも、この「富士越鶴図」で、試行したということになる。
 しかし、この「動きを表す=反復の効果」は、「富士山の向こうからこちらへ、鶴が飛んで来る」という、いわゆる「遠近法」の「向こうからこちらへ」の「奥行」と一体となって、この「視覚的トリック」が実現されることになる。
 ところが、この「富士越鶴図」では、「遠くのものは小さく、近くのものは大きく」という「遠近法」は、手前の「鶴」、中間の「富士山」、遠方の奥の「旭日」の関係で為され、「鶴の群れ」は、その遠近法に因らず、「同形の反復」という意表を突いた手法を併用したところに、芦雪の、この「富士越鶴図」で試行された「空間マジック」「「造形の魔術」「視覚トリック」が存在するということになろう。
 そして、ここでは、「縦」と「横」との二次元だけでの世界ではなく、「奥行」を伴っての三次元の造形的な世界と、さらに、スローモーションビデオを見るよう「時間制」などをも有している、多種多様な趣向の上に成り立っている世界と言えよう。



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