井上芳雄です。3月22日に最新アルバム『Greenville(グリーンヴィル)』をリリースします。2月13日には『天使も悪魔も』『The Only』の2曲の先行配信が始まりました。アルバムは約5年ぶり。これまではオリジナル曲がありつつも、ミュージカル曲やポップスのカバー曲を歌うことが多かったのですが、今回は初めての全曲オリジナル楽曲。人生における10の困難をテーマに曲を作っていただきました。

井上芳雄の全曲オリジナル楽曲による最新アルバム『Greenville(グリーンヴィル)』は3月22日にリリース。【初回限定盤】CD+写真集「Greenville」+封入ポスター【通常版】CD/日本コロムビア
井上芳雄の全曲オリジナル楽曲による最新アルバム『Greenville』は3月22日にリリース。【初回限定盤】CD+写真集「Greenville」+封入ポスター【通常版】CD/日本コロムビア

 もともと僕自身はカバー歌手というのかな、ミュージカル俳優はミュージカルの曲を歌うのが基本だし、コンサートなどでもJ-POPや洋楽のカバーを歌うことが多く、それが好きでもありました。一方で、テレビの歌番組で歌わせてもらうようになってからは、オリジナル曲がある強さも感じています。例えば『NHK紅白歌合戦』に出るとなったら、自分の曲を歌うわけだし、僕がMCの音楽番組『はやウタ』(NHK)にも歌手の方は新譜が出るということで来てくれます。歌手としてはオリジナルを出していくことが必要なのだろうなと。そこだけを目指しているわけじゃないけど、そういう思いは蓄積していました。そんなタイミングで、レコード会社のスタッフの方から「全曲オリジナルはどうでしょう」という話をいただいたので、チャレンジすることにしました。

 プロデュースはコトリンゴさんにお願いしました。ささやくように歌われる独自の世界を持った方です。ミュージカルとは正反対の世界観ではあると思うのですが、だからこそご一緒してみたいなと。僕が自分で聴く音楽は、優しい声の女性ボーカルが多いんです。大貫妙子さんや手嶌葵さんのように、声を張らずに繊細に歌われる方。コトリンゴさんもそう。自分がそんなふうに歌えるとは、考えたことがなかったのですが、やってみたいという気持ちもありましたね。

 コトリンゴさんと初めてお会いすると、同い年で、小鳥が好きという共通点もありました。口数が多い方ではないのですが、いろいろお話をして、引き受けていただけることになり、うれしかったですね。楽曲はそれぞれ違うアーティストの方に依頼して、全体をコトリンゴさんがプロデュースしてくださることに。僕のことは「歌がうまくて、いろんな歌い方ができるんですね」と言ってくれました。どうすればコトリンゴさんのように、優しく歌えるのか教えてもらいたかったのですが、「今の井上さんのままでいいですよ」みたいな答えでした。あがってきた楽曲は、音楽のジャンルが様々なので、「もっとこうかな」「こうですね」とやりとりしながら進めていったのですが、本当ににこやかに導いてくれる感じでした。

僕にとっての歌う意味を伝える10のテーマ

 曲を依頼するにあたっては、キーワードを10個挙げて、僕にとっての歌う意味をお伝えしました。歌の持つ重要な役割は、人生のいろいろな局面で、励ましたり、背中を押したりすることだと思っています。そこで、ピンチというか困難な場面に即した曲にしたらどうかと考えました。この世に生を受けて、育っていくなかで、比べられたり、使われたり、試されたり、晒(さら)されたり、追い越されたり、拒否されたり、抉(えぐ)られたり、奪われたりして、最後は天に召される。「何々される」というテーマを10個作ってみたところ、採用されて、それぞれのアーティストの方がイメージを広げて楽曲を作ってくださいました。

 暗かったりネガティブだったりするワードばかりなので、「井上さん、どうしちゃったんだろうと思った」と、コトリンゴさんが後でおっしゃっていました。僕としては、例えば「拒否される」ということを曲にしてほしいというよりは、そうなったときにどうしたらいいのか。解決策じゃないけど、一緒に寄り添ってくれる曲にしていただきたいとお伝えしました。曲を聴くと、どれもそういうものになっていて、やっぱりアーティストの人ってすごいなと思いましたね。

 アルバムタイトルの『Greenville』は、アメリカのノースカロライナ州にある小さな町の名前です。そこには、僕が中学2年生のとき、父親の仕事の都合により家族で引っ越して、1年間住んでいました。曲のテーマにした人生におけるいろいろな困難は、その1年間で僕が経験したことでもあります。つらい経験ではあったけど、得たものもたくさんあったし、今となってはその経験なしに自分は存在しません。誰もが知っている有名な町でもないから、僕がその町で経験したことは、きっと聴く人がそれぞれの町で経験することでもあるだろうと思って、アルバムのタイトルにしました。

 その町は、自分で行きたかったわけでもなく、人口5万人くらいなので日本人学校もありません。僕は英語をほとんどしゃべれず、思春期で自我が目覚めるときに、急に何もできないところに放り込まれました。毎朝学校に行くのが怖くて、朝食を食べられないくらいでした。でも、最後まで学校に通いはしたんです。それが自信になったし、今でも英語の歌を歌えるくらいにはしゃべれるようにもなりました。何よりも、日本に帰ってきてからは、もう何でもできる、と思ったのが大きかった。言葉が通じるので、怖くて聞けなかったことも、聞けばいいんだと思うと安心して、僕自身すごく変わりましたから。

 そんな苦しい毎日の1年間で、心の支えだったのが音楽やミュージカルでした。学校から帰宅してからの楽しみは、ミュージカルのCDを聴いて、一緒に歌ったり踊ったりすることだったし、親にはブロードウェイに連れて行ってもらったりもしました。そうやって救われていたので、音楽の力には特別なものがあります。舞台は劇場に来てもらわないと見てもらえないものですが、CDやストリーミングは生活の中で聴いてもらえるので、より身近な存在だし、寄り添ったり勇気づけたりする役割が大きいように思います。

アルバムに収録した10曲に込めた思い

 今回のアルバムに収録した10曲を曲順に沿って簡単に紹介しましょう。1曲目の『Prelude』は、Kitriさんというデュオの方が作ってくださいました。テーマは「生を受ける」。神聖な曲なので、「賛美歌のようだ」と思いながら歌いました。Kitriさんのコーラスと僕の歌声が、本当に天から降り注ぐような、とてもきれいな曲です。オリジナルでこんな曲を歌えるのがまずうれしかったし、アルバムの全体像もこういう曲のテイストを想像していました。

『Greenville』の楽曲提供アーティスト(上段左から)阿部海太郎、おおはた雄一、Kitri、清塚信也(中段左から)コトリンゴ、寺尾紗穂、堂島孝平、冨田恵一(下段左から)蓬莱竜太、mabanua、Michael Kaneko、モノンクル
『Greenville』の楽曲提供アーティスト(上段左から)阿部海太郎、おおはた雄一、Kitri、清塚信也(中段左から)コトリンゴ、寺尾紗穂、堂島孝平、冨田恵一(下段左から)蓬莱竜太、mabanua、Michael Kaneko、モノンクル

 2曲目の『The Only』もKitriさんの曲です。テーマは「比べられる」。だからこそのオンリーワンというか、比べられたときの自分を愛したり大事にしたりする歌。これもとても穏やかな優しい曲です。みんなそのままでいいんだよと、聴いてくれる人を励ませる曲じゃないかなと思います。

 3曲目の『タイムテーブル』はコトリンゴさんが作ってくださった曲です。冨田恵一さんにアレンジしていただきたくて、初めてお願いしたそうです。ほかの曲とは毛色が違っていて、富田さん流のポップなアレンジに仕上がっています。僕も初めて味わう世界です。冨田さんのスタジオまで行ってレコーディングさせていただきました。テーマは「使われる」。コトリンゴさんなりの解釈で、自分たちの時間を目いっぱい使おうという方向に持っていっていかれたのもすごく面白くて、好きな曲です。

 4曲目の『天使も悪魔も』は配信している曲です。歌番組ではこの曲を歌うことが多くなると思います。R&B的なノリで、ミュージカルではあまりないし、自分で歌うときも選ばないので、まったく歌ったことのないジャンルです。リズムの取り方も違うので、最初は戸惑いました。でも、歌ってみたら意外としっくりきたり、違うテンポ感で歌うのが面白かったりしました。今まで歌ってきた曲とイメージが違うという意味では、アルバムを代表する曲かもしれません。モノンクルさんというデュオの方が作ってくださいました。テーマは「試される」。詞がすごくよくて、やり直そうとしている気持ちを歌っています。天使にも悪魔にも試されているんだけど、もろともに生きていこうという光の見える歌で、大事な1曲になりました。

 5曲目は『Lost In The Night』。歌うのが難しかったですが、とてもかっこいい曲です。全部英語なのと、ダンスナンバーでリズム先行というか速いリズムなので、歌えるようになるまで苦労しました。テーマは「晒(さら)される」。Michael Kanekoさんの詞で、mabanuaさんが作曲とアレンジをしてくださいました。唯一2回レコーディングした曲です。最初の録音は自分で納得できず、次に自分の中では全然音量を出さずに歌ってみました。それこそささやくように。それで、ようやく「こういう感じかな」と自分なりに歌えることができました。

 6曲目の『Diary』は堂島孝平さんに作っていただきました。ポップで、本当にすごいメロディーメーカーの方です。「胸内には愛なり」という言葉で始まるのですが、普段は胸の内をキョウナイと言わないじゃないですか。そういう詞の響きも面白し、ポップスを歌ったという感じがしました。テーマは「追い越される」。僕がイメージしていたのは、例えば仕事で誰かに追い越されたりするようなリアルな状況だったのですが、この曲では車に追い越される情景だったり、昔の恋人に自分が追い越されることだったり、また違う意味あいになっているのが面白いです。

 7曲目が『ライフ』。コトリンゴさんが「ミュージカル的な曲を」と、最後に作ってくださいました。ミシェル・ルグランの明るいナンバーみたいな感じがあって、ジャズっぽいアレンジで、すごくかっこいい曲です。場面がどんどん変わっていったり、セリフみたいに歌うところが出てきたり。コトリンゴさんの中のミュージカルってこんな感じなんだ、ミュージカルを1本書いてもらったら面白そうだと思いました。テーマは「拒否される」。それを悲しんでいる歌ではなく、気にせずに乗り越えてやる、みたいな力強い歌です。

 8曲目が『無題の詩』。僕が昨年出演した演劇『首切り王子と愚かな女』の作・演出を手がけた蓬莱竜太さんに詞、同作の音楽を担当した阿部海太郎さんに曲を書いていただきました。劇中の曲がすごく印象的だったので、僕からリクエストしたお2人です。テーマは「抉(えぐ)られる」。蓬莱さんらしい詞です。舞台上でスポットライトを浴びつつという情景があったりとか、僕に当てて書いてくれた感じがとてもします。

 9曲目は『記憶の庭』で世界観が独特です。おおはた雄一さんが書いてくださいました。テーマは「奪われる」。すごくなじみのいいタイプの音楽というか、安心するようなフォークソングで、静かな悲しみを歌っている曲です。心にしんみりと染みます。

 最後の10曲目が『あなたに贈る海風』。ピアニストの清塚信也さんが曲、寺尾紗穂さんが詞を書いてくださいました。清塚さんはMCをやったりして、おしゃべりがお上手で、にぎやかなイメージですけど、すごくセンチメンタルというか繊細な曲を作るんです。そんな清塚さんらしさが出ています。テーマは「召される」。僕は『風のオリヴァストロ』という曲をずっと歌っているので、それと重なるテーマです。今は亡き大切な人への思いを込めて歌いました。そういう歌が存在することがとても大事だと思っています。

歌手として新たな局面を開いた手応え

 今回のアルバムは創作という感じがとても強かったですね。これまでに出したアルバムは歌い込んだ曲を収録するイメージだったのですが、今回のように1曲1曲をゼロから歌って、レコーディングで初めて形にするのはあまり経験してなかったこと。今までと違う曲調もどう受け取られるか分からなかったのですが、『天使も悪魔も』を初めて自分のラジオ番組で流したとき、「かっこいい」「いい曲だね」という反応を思ったより多くいただきました。それで感じたのが、音楽では意外と挑戦してこなかったのかなということ。演劇はいろんなジャンルがあるので、いやが上にも挑戦させられるところがあるし、最近はテレビのバラエティー番組のMCのような新しいことにもどんどん挑んでいます。

アルバムから『天使も悪魔も』『The Only』の2曲が先行配信中
アルバムから『天使も悪魔も』『The Only』の2曲が先行配信中

 逆に、音楽は自分が歌いたいものを歌っていいから、新しいことをやる機会がなかったのかもしれません。やっと今、それを自分でもやろうと思ったし、周りの人も面白いんじゃないかと言ってくれます。歌手として新たな局面が開いた手応えを感じています。

『夢をかける』 井上芳雄・著
 ミュージカルを中心に様々な舞台で活躍する一方、歌手やドラマなど多岐にわたるジャンルで活動する井上芳雄のデビュー20周年記念出版。NIKKEI STYLEエンタメ! チャンネルで連載された「井上芳雄 エンタメ通信」を初めて単行本化。2017年7月から20年11月まで約3年半のコラムを「ショー・マスト・ゴー・オン」「ミュージカル」「ストレートプレイ」「歌手」「新ジャンル」「レジェンド」というテーマ別に再構成して、書き下ろしを加えました。特に20年は、コロナ禍で演劇界は大きな打撃を受けました。その逆境のなかでデビュー20周年イヤーを迎えた井上が、何を思い、どんな日々を送り、未来に何を残そうとしているのか。明日への希望や勇気が詰まった1冊です。
2020年12月21日発売/発行:日経BP/発売:日経BPマーケティング/定価2970円(税込み)
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「井上芳雄 エンタメ通信」は毎月第1、第3金曜に掲載。第130回は3月3日(金)の予定です。

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