1980年代に栄華を極めた日本の半導体産業は、1990年代以降、急速に国際競争力を失った。一つの要因とされるのが、日米政府が1986年に締結した「日米半導体協定」である。1996年、日本の半導体業界を代表してこの協定の終結交渉に臨んだのが、牧本次生氏だ。日立製作所で半導体事業を率い、後にソニー専務などを務めた“ミスター半導体”の異名を取る人物である。協定を終結に導くまでの秘話を同氏が明らかにする。
連載
日米半導体協定の終結交渉
※本記事は、2011年の『日経エレクトロニクス』に掲載された連載記事を再構成・転載したものです。記事中の社名や肩書き、情報は掲載当時のものです。
半導体産業人協会 代表理事の牧本次生氏
出典:日経エレクトロニクス、2011年 「日米半導体協定の終結交渉」より改題。
記事は執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合があります。
目次
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日米半導体協定の終結交渉、絶体絶命の危機からいかにして妥結に持っていったか
最終回 時計を止めよう
交渉の最終期限を2日後に控えた1996年7月29日、日米交渉団は最後の議論のテーブルに着いた。交渉は最終日の7月31日にようやく前進し始めるが、最終合意に達することなく夜は更けていった。日付が変わる前に結論を出せなければ、これまでの交渉はすべて水の泡となりかねない─。牧本ら日本側交渉団は、絶体絶命…
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期限迫る日米半導体協定の終結交渉、険悪な空気が場を支配し始める
第3回 100社の命運を背負った二人
病に倒れた大賀典雄に代わり、日本側交渉団のリーダーを務めることになった牧本。だが、1996年7月20日に始まった大詰めの交渉は、双方が主張を譲らず平行線をたどる。交渉の最終期限である同年7月31日までに残された時間はあとわずか。次第に険悪な空気が場を支配し始める。
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熾烈を極める日米半導体協定の終結交渉、重鎮同士が互いに相譲らず
第2回 昨日の友は今日の敵
1986年7月に締結された日米半導体協定は、1996年に有効期限の最終年を迎えた。これを受けて、協定失効後の枠組みを定めるための交渉が同年2月にスタート。牧本次生は、日本側交渉団の一員として議論のテーブルに着いた。互いの利害をかけた議論が平行線をたどったまま、交渉終了のタイムリミットが迫った7月。…
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日米半導体協定の終結交渉の舞台裏、「まさに戦争だった」
第1回 失われた10年
1980年代に栄華を極めた日本の半導体産業は、1990年代以降、急速に国際競争力を失った。一つの要因とされるのが、日米政府が1986年に締結した「日米半導体協定」である。1996年、日本の半導体業界を代表してこの協定の終結交渉に臨んだのが、牧本次生氏だ。日立製作所で半導体事業を率い、後にソニー専務…