幻の「拝聴録」につながる記述も

田島長官の「拝謁記」には、昭和史の最重要資料の1つとされながら行方がわかっていない、幻の「拝聴録」につながる記述もありました。

目次

回顧録 内容の公表を提案

昭和26年1月4日の拝謁では、昭和天皇が戦時中に内大臣を務めた木戸幸一の日記について「多少違ツタ所モアリスルシ(※原文ママ)私ノ知ラナカツタコトモアリ 必シモ全部イヽモノトハ思ハヌガ 参考トモナリ 又世間ノ人ニモ真相ノ一部ガ分リ 誤解ヲ解クコトニモナツテ イヽト思フ」と述べたと記されています。

そのうえで昭和23年、田島が宮内庁の前身の宮内府の長官に就任した際に、閲覧を許したみずからの回顧録について、「私ノメモアヲ 文章ナド直ス人ニ直サシテ出ストイフヤウナコトハドウデアロウ」と述べ、その内容を公表してはどうかと提案したことが記されています。

これに対して田島長官は「陛下ノメモアトイフモノガ出マシテ真相ノ明カニナルコトハ結構ナ一面モアリマスルカ 一面迷惑ヲスル人モアリ天皇トシテハ如何ト存ジマス 物ニハ一面イヽ点ガアリマスト共ニ 一面困ル点ガアリマス 此場合ニモ飽迄(あくまで)真相ニ徹シナケレバ 陛下ノ御思付(おんおもいつ)キノ点ハ達セラレマセヌト同時ニ 徹シマスレバ帝王トシテ如何カトイフコトニナリマスノデ餘程(よほど)ヨク考ヘナケレバナリマセヌ」と述べたと記されています。

みずからが知る真相を国民に伝えたいと希望し続ける

昭和天皇はその後も戦前や戦中の出来事に関する本が出版されたり、関係者の日記の内容が公表されたりするたびに、みずからが知る真相を国民に伝えたいと希望し続けました。

昭和27年5月28日の拝謁では、田島長官が昭和天皇に戦前や戦中の出来事についていろいろと尋ねる中で、「拝命の時拝見御許しを得ました 陛下の御手記の外に、もつと眞相を、外部へ発表でなく、御書留めおきになりまする事ハ結構かと存じます」と新たな「拝聴録」の作成を提案したことが記されていました。

これに対して昭和天皇は「人を得るのが六ケ(むつか)しいがそういふ事ハ出来れば結構だ/記憶といふものは当てにならぬもので私の、長官ニ見せたのにも或(あるい)ハ記憶違ひがあるかも知れないし、又思ひ違ひがないともいへぬ。然(しか)し何かきいて貰ハぬと話すといふ事も六ケ(むつか)しい」と述べたと記されています。

田島長官は「人と方法とハ又侍従長と相談致しまするが後世の歴史の為に是非願ひたいと存じます。公表ハ出来ませぬが東宮様が他日の御参考ニハ 大(おおい)ニなりますると存じます」と述べ、当時18歳、大学1年生の若き皇太子だった上皇さまのためにも回想を記録に残してほしいと頼んでいたことがわかりました。

この年(昭和27年)の10月24日の拝謁では、田島長官が「陛下御自身の御回想を残します事ハ 陛下百年の後 御真意が分る事かと存じます/本やいろ/\のものニ出てます事ニついて御伺して真想を記録する事であります 今直ぐ公表ハ到底出来ませぬが残す事ハ必要と存じます」と述べたところ、昭和天皇が「木戸日記ハ結論だけを突如として書いてあるだけでそれに至る経過来歴が書いてなくて物足らぬし 原田日記は又経過ばかり書いてあって其結末がどうついたか少しも分らぬ」と述べたことが記されています。

細川 護貞氏

さらに昭和28年1月27日の拝謁では、昭和天皇が当時出版された細川護煕元総理大臣の父で高松宮や近衛文麿の側近だった細川護貞の「情報天皇に達せず」という本の内容に苦言を呈したのに対して、田島長官が「たとひ何が書いてありましても、陛下があれは事実だ、事実でないなど対当に世間ニ仰せニなる必要ハないと存じます。それよりも後世の為ニ、原田日記でも木戸日記でも又この本でもの誤りや、実状を御指摘頂いた記録を宮中ニ保存する事は必要かと存じます。/次次ニ出ます記録類のものをとり上げて之ニ関する陛下の御記憶を書き記す事ハ必要かと存じます」と述べたと記されています。

5年前に公表された昭和天皇実録には、このあと実際に昭和28年5月から6月にかけて3回にわたって張作霖爆殺事件や、ロンドン海軍軍縮会議などについての回想が行われたことが記されていて、今回見つかった「拝謁記」にも、担当者の留守中に2回、田島長官が聞き取りを担当したことなどが記されていました。

「拝聴録」戦争の回想を側近に書き取らせる

昭和天皇は終戦後、戦争について、たびたび回想して側近に書き取らせていて、こうした記録は「拝聴録」と呼ばれています。

昭和天皇独自録

終戦の翌年の昭和21年に行われた拝聴の内容は、東京裁判対策の一環で作られ、平成に入ってから「昭和天皇独白録」として公開され大きな反響を呼びました。しかし、それ以外のものが公になったことはなく断片的な情報しか知られていません。

昭和天皇実録

5年前に宮内庁が公開した「昭和天皇実録」には、終戦直後だけでなく、晩年の昭和60年まで繰り返し拝聴が行われていたことが記され、側近の日記などからその時期やテーマなどの全体像が初めて明らかにされましたが、始まった経緯や語られた詳しい内容などはわかっていませんでした。

専門家「回想を行ったのは表に言えないことの反動」

「拝謁記」の分析に当たった日本近現代史が専門の日本大学の古川隆久教授は「昭和天皇が回想を行ったのは、表に言えないことの一種の反動と考えるのがいちばん素直だと思う。昭和天皇は仮に退位していたら、その後にいちばんやりたかったことはおそらく回顧録の作成だったのではないか。それだけ大事な場面に自分がいて、失敗してしまったことへの反省と回顧を記録に残すことは後々の人のためになると考えていたのだと思う」と話しました。

そのうえで、「田島長官に繰り返し語っていることは、昭和天皇にとってすごく大事なことなので、間違いなく『拝聴録』に盛り込まれている。『拝聴録』が作られた経緯だけでなく、その内容までかなり推測できる点が今回の拝謁記の貴重さの1つだ」と指摘しました。

そして、「『拝聴録』そのものは見つかっていないが、発見されるまでの間は、この拝謁記が『拝聴録』の代わりとして、昭和天皇の回顧談の内容を推測する重要な手がかりとなる」と話しました。

人間 昭和天皇ほか 一覧に戻る

TOPに戻る