追悼 2023年に亡くなった方々

追悼 2023年に亡くなった方々
「死ぬために生まれてくる命などはない」
「一緒に生きていることを楽しめばいい」
「光る石、輝く石は、必ずみんな持っている」

多くの人の心に響くメッセージ。

今年亡くなった故人がかつて番組などで語った、人生のエッセンスとも言える一言です。

2023年も社会や時代にさまざまな影響を与えた人たちが多く亡くなりました。

その功績や人柄、時流や世相などを振り返ります。
●それぞれの方の写真をタップすると記事に進みます。記事の中に再生マークがある場合は、過去のNHKの番組でお伝えした動画をご覧になれます。

(写真と小見出しは敬称略)

ジェフ・ベック(78)世界的なギタリスト

グラミー賞を8度受賞するなど、世界的なギタリストとして知られるジェフ・ベックさんは1944年にイギリスで生まれ、1965年にエリック・クラプトンさんが脱退したロックバンド、ヤードバーズに参加し頭角を現しました。

ベックさんの演奏はアメリカの伝説的なギタリスト、ジミ・ヘンドリックスさんにも影響を与えたとされ、スティービー・ワンダーさんやミック・ジャガーさんなど多くの著名アーティストと共演し、グラミー賞を8回、受賞しています。

2022年もイギリス各地でツアーを行うなど、50年以上にわたって精力的に活動を続けてきました。

公式ホームページによりますと、ベックさんは細菌性髄膜炎に感染し、1月10日に亡くなったということです。

ベックさんの家族は「ジェフ・ベックの死去の知らせを伝えることはとても悲しいことです。彼は安らかに息を引き取りました」とコメントしています。

(2023年1月10日死去)

鈴木邦男(79)独自の言論活動

鈴木邦男(すずき・くにお)さんは福島県出身で、大学在学中から民族主義運動に参加し、昭和47年に「一水会」を立ち上げ、「対米自立」などを主張して「新右翼」と呼ばれました。

また、幅広い人脈を生かしてイデオロギーの枠を越えて多くの討論番組で活躍したほか、作家としても数多くの作品を残して独自の言論活動を続けてきました。

「一水会」によりますと鈴木さんは4年ほど前から体調を崩して療養を続けてきましたが、1月11日、誤えん性肺炎のため東京都内の病院で亡くなりました。79歳でした。

(2023年1月11日死去)

高橋幸宏(70)「ライディーン」を作曲

高橋幸宏(たかはし・ゆきひろ)さんは東京出身で、1978年に、ミュージシャンの細野晴臣さんや坂本龍一さんとともに、音楽グループの「イエロー・マジック・オーケストラ」=「YMO」を結成しました。

YMOは、コンピューターやシンセサイザーといった当時最新の電子楽器を使った斬新な音楽性で“テクノポップ”という新しい音楽のジャンルを築き、高橋さんはドラマーとして活躍して、大ヒット曲の「ライディーン」の作曲も手がけました。

YMOは1983年に解散するまで海外でもコンサートを重ねて人気を集め、高橋さんのドラムは、正確なリズムとシンプル、かつ多彩な表現で演奏の土台を担いました。

また、YMOがコンサートなどで着用し、グループの象徴的なファッションとなった赤い人民服は、高橋さんがデザインしたもので、音楽家としての顔を持つ一方、ファッション・デザイナーとしても長く活動し、みずからブランドを立ち上げるなど、幅広い活動を続けてきました。

高橋さんは、2020年8月には、脳腫瘍の手術を受けたことを公表し、「できるだけ早い時期に皆さんの前に立てるよう努めていきたい」とコメントしていました。

所属事務所によりますと、誤えん性肺炎のため、自宅で亡くなったということです。

(2023年1月11日死去)

門田博光(74)豪快な一本足打法 HR567本

門田博光(かどた・ひろみつ)さんは山口県出身で、奈良の天理高校から社会人野球のクラレ岡山を経て昭和45年(1970年)にドラフト2位で南海に入団しました。

現役時代は、右足をあげてタイミングをとる豪快な一本足打法で、球界を代表するホームランバッターとして活躍しました。

昭和54年(1979年)にアキレス腱断裂の大けがを負いましたが、その後、復活を果たし、ホームラン王3回、打点王2回のタイトルを獲得しました。

中でも昭和63年(1988年)には40歳で44本のホームランを打ち、ホームラン王と打点王の2冠に輝いたほか、MVP=最優秀選手を獲得し、「不惑のホームランバッター」と呼ばれました。

その後、オリックスとダイエーでもプレー。身長1メートル70センチと野球選手としては小柄な体格ながら、プロ23年間でホームラン通算567本と通算1678打点は、いずれも王貞治さん、野村克也さんに続く歴代3位の記録です。

また通算2566安打も、張本勲さん、野村さん、王さんに続く歴代4位と、大けがを乗り越えて長くプロの第一線で活躍を続けた強打者でした。

平成18年(2006年)には競技者表彰で野球殿堂入りを果たしました。

門田さんは兵庫県内で療養していましたが、関係者によりますと、亡くなったということです。74歳でした。

(2023年1月24日死去)

永井路子(97)歴史の中の女性に光

永井路子(ながい・みちこ)さんは、1925年、東京で生まれ、東京女子大学を卒業したあと、雑誌の編集者をしながら小説を書き始め、1965年に鎌倉時代を舞台にした歴史小説「炎環」で、直木賞を受賞しました。

永井さんは、戦後、日本人の歴史観が大きく変わる中でこれまでの歴史観にとらわれず、資料を綿密に分析して独自の視点で歴史小説を書き続けました。
中でも「北条政子」や「乱紋」、それに「山霧 毛利元就の妻」など、歴史の中の女性の役割に光を当てた作品を多く発表し、注目されました。

また、NHKの「堂々日本史」など、テレビ番組で歴史上の事件や人物についての新たな見方を分かりやすく解説するなど幅広く活躍しました。

永井さんの小説は、NHKの大河ドラマ「草燃える」や「毛利元就」の原作にもなり、1997年には放送文化賞を受賞しています。

また、永井さんは3歳から20年余りを茨城県古河市で過ごし、名誉市民も務めていました。

永井さんは老衰のため、東京都内の病院で亡くなったということです。

(2023年1月27日死去)

横路孝弘(82)社会党のプリンス

横路孝弘(よこみち・たかひろ)氏は札幌市の出身で、大学を卒業後、弁護士として活動しました。

そして、昭和44年の衆議院選挙に当時の社会党から旧北海道1区に立候補して初当選し、連続5期、衆議院議員を務めました。

「社会党のプリンス」とも呼ばれ、昭和47年の沖縄返還にあたり、本来、アメリカ側が負担する費用を日本が肩代わりする「密約」が交わされたことをうかがわせる文書をめぐって政府を追及しました。

昭和58年から北海道知事を3期務めたあと、国政に復帰し、衆議院議員を通算で12期、務めました。

この間、横路氏は、平成14年の当時の民主党の代表選挙に立候補するなど、党内で影響力を持ち続け、平成17年には、衆議院副議長に就任しました。

そして、平成21年には民主党政権の発足に伴って、民主党出身の議員として初めての衆議院議長に就任し、3年間にわたって務めました。

平成29年の衆議院選挙には立候補せず、政界を引退していました。

横路氏は、病気で療養を続けていましたが、2月2日、亡くなりました。82歳でした。

(2023年2月2日死去)

貴家堂子(87)タラちゃん

貴家堂子(さすが・たかこ)さんは東京都出身で、民放の放送劇団に入って声優の道に進み、多くのテレビアニメなどに出演しました。

このうち人気アニメ「サザエさん」では、放送が開始された1969年から50年以上にわたって、「タラちゃん」こと「フグ田タラオ」の声を担当し、語尾に「です」をつける独特の言い回しで人気を集めました。
また、「天才バカボン」のハジメ役や「ハクション大魔王」のアクビ役などでも親しまれました。

所属事務所によりますと、貴家さんは、亡くなる3日前の2月2日まで仕事を続けていたということです。

【サザエさんの共演者がコメントを発表】

加藤みどりさん(サザエさん役)
「初回放送から50年以上、ずっと一緒に家族として歩んできた貴家ちゃん。“貴家ちゃんがいるうちは私も頑張らなきゃ”と思っていたので貴家ちゃんがいなくなって本当に寂しく、悲しい気持ちです。心よりご冥福をお祈りいたします」

田中秀幸さん(マスオさん役)
「大切な宝物を失った悲しみで一杯です。貴家さん。穏やかな語り口、優しいお言葉、素敵な笑顔・・・しっかりと胸に刻んでおきます。長い間、本当にお疲れ様でした。どうぞ安らかにお眠りください。ありがとう、タラちゃん」

(2023年2月5日死去)

松本零士(85)宇宙を舞台にした冒険活劇

松本零士(まつもと・れいじ)さんは福岡県出身で、15歳のときに雑誌に投稿した漫画が掲載されてデビューし、その後、上京して本格的に漫画家の活動を始めました。

1971年に雑誌に連載した「男おいどん」が人気を博すと、1974年にテレビアニメとして放送された「宇宙戦艦ヤマト」の制作に関わり、映画化されるなど若者を中心に、爆発的な人気を集めました。

また、少年が列車に乗って宇宙を旅する「銀河鉄道999」や、「宇宙海賊キャプテンハーロック」などもテレビアニメとして放送され、松本アニメのブームを巻き起こしました。

宇宙を舞台にしたロマンあふれる冒険活劇を独特の幻想的な絵柄で描く一方で、豊富な科学の知識と取材にもとづいた宇宙船などの緻密な描写でも知られ、コックピットに整然と並ぶ計器類は「零士メーター」と呼ばれるなど、その後のSF作品に大きな影響を与えました。

その功績から、2001年に紫綬褒章を受章したほか、2010年には旭日小綬章を受章しています。

また、海外でも高く評価され、2012年にはフランス芸術文化勲章を受章しています。

松本さんは、2019年11月に、イタリアを訪れていた際に体調を崩して病院に搬送され、一時、集中治療室で治療を受けましたが、その後回復して日本に帰国していました。

急性心不全のため、東京都内の病院で亡くなったということです。

【平和への思い 戦争漫画を】
松本さんは、「戦場漫画」と呼ばれるシリーズも半世紀にわたって書き続けました。
2019年には、旧陸軍の大刀洗飛行場の跡地の近くにある平和記念館で講演を行っています。
松本さんの父親は、旧陸軍の大刀洗飛行場でパイロットとして勤務し、教育隊長として若者を特攻に送り出したといいます。
そして、終戦の2年後に出征先から帰国した父親が、戦争へ深い後悔の念を抱いていたことを間近で見てきたという松本さん。講演を行った際、松本さんは父親が語ったという直筆のメッセージを寄贈しました。

そのメッセージは、「人は死ぬために生まれて来るのではない。生きるために生まれて来るのだ」というものでした。

そこには、漫画を通じて若い世代に「戦争の愚かさ」「命の尊さ」を訴える松本さんの原点の1つがありました。

【“鉄郎”が松本さんを追悼】
アニメ「銀河鉄道999」で主人公・星野鉄郎の声を演じた声優の野沢雅子さんがコメントを発表しています。

「松本先生とは銀河鉄道999の全国縦断イベントで本当にいろいろなところにご一緒させて頂きました。劇場版を録る時にはスタジオにいらして下さって、いいですね~と仰って下さるので、私たちもとても演りやすくて・・優しい方でした。またご一緒出来るのを楽しみにしていたのですが、叶わなくなってしまい寂しい気持ちでいっぱいです。既に車掌さんが999号で待ってると思いますので、どうか一緒に楽しい旅を続けてください」

(2023年2月13日死去)

豊田章一郎(97)トヨタ自動車名誉会長

2月14日に心不全のため亡くなった豊田章一郎(とよだ・しょういちろう)氏。トヨタ自動車を世界有数の自動車メーカーに成長させました。

トヨタ自動車の創業者、豊田喜一郎氏の長男で、昭和27年に会社に入り、昭和56年に当時の「トヨタ自動車販売」の社長に就任しました。

翌年には、戦後、経営危機により分離されていた製造部門と販売部門のいわゆる「工販合併」を実現しました。

その後は、合併により誕生した「トヨタ自動車」の社長として、トヨタ単独では初めてとなるアメリカのケンタッキー州に工場建設を決めたほか、カナダやイギリスなどでも現地生産を進め、世界有数の自動車メーカーへと発展させました。

平成4年にトヨタの会長に就任して以降は財界活動にも力を注ぎ、平成6年から4年間、経団連の会長を務めました。
平成11年にはトヨタの名誉会長に就任し、経営の一線から退きましたが、平成21年にトヨタの社長に就任した長男の章男氏を支えました。

平成17年に愛知県で開かれた「愛・地球博」の運営にあたる博覧会協会の会長を務め、平成19年の秋の叙勲では桐花大綬章を受章しました。

また、人材育成や教育にも力を入れ、トヨタやJR東海など企業が設立にかかわった全寮制の中高一貫校「海陽学園」では、初代の理事長を務めました。

【トヨタのグローバル化に尽力】
豊田章一郎氏がトヨタ自動車を率いた時代は、日米の貿易摩擦が激しさを増していた時期でした。

1970年代以降、日本からアメリカへの自動車の輸出が急増。「ジャパン・バッシング」と呼ばれる日本への厳しい批判が巻き起こり、日本車などをたたき壊すパフォーマンスも行われました。

こうした中、社長時代の1984年(昭和59年)には、雇用の拡大で沈静化を図ろうと、アメリカ・カリフォルニア州にGM=ゼネラルモーターズと合弁工場を設立しました。

この工場では北米向けに小型車やピックアップトラックを生産し、アメリカ各地に生産拠点を持つトヨタにとって、アメリカ進出の足がかりとなりました。
さらにアメリカのケンタッキー州にトヨタ単独では初めてとなる工場建設を決めたほか、カナダやイギリスでの現地生産も進めました。

豊田氏が推し進めたグローバル化は、トヨタを世界有数の自動車メーカーへと発展させただけでなく、日本の自動車産業にとっても日米の貿易摩擦の緩和につながる結果になりました。

【豊田章一郎氏の語録】
「ものづくりには日々の改善や研究の積み重ねが必要で、主力を海外だけに向けると、日本国内の技術が遅れることになる。そうならないよう『二兎を追っても二兎を取る』という考えでやっていきたい」

円高による国内産業の空洞化が懸念されていた1986年のNHKのインタビューで、豊田氏は、このように述べ、日本のものづくりの国際競争力を維持するためには、海外だけでなく国内に拠点を残すべきだと話していました。

また、日本の自動車メーカーが燃費の向上で競争力を高め、販売を拡大していることについては「客に満足してもらうのは当然だが、長期的に見てエネルギーを使わない、燃料消費の少ない安全で経済的な車を目指す技術開発がこれからの日本の自動車産業に重要だ」と述べ、当時から環境に配慮したクルマの開発の重要性を強調していました。

経済界や政界からは追悼の声が相次ぎました。

トヨタ自動車 張富士夫元社長
「僕はちゃんとやったでしょうか」
「ずっと努力を積み重ねていろいろなことをやってこられた大きな方だ。私は仕事でもご指導をいただいた。ここまでずっとついてきた大先輩、おやじだ。おやじは大きな人生を全うしたと思うし、どうやって生きるか大きな道しるべをもらったような気がする。困ったらいろいろ相談した。さみしさがあるが、いま聞きたいのは僕はちゃんとやったでしょうか、ということ。指導を受けながらずっとやってきたので、よかったですかねと聞きたい」

経団連 十倉会長
「深い悲しみと大きな喪失感に包まれている」
「法人税率の引き下げをはじめとする税制改革や規制制度改革などさまざまな構造改革に次々と取り組み、成果をあげられた。また、経団連会長に在任した4年間でアメリカや中国をはじめ35か国を訪問するなど、精力的に民間外交を展開した姿は多くの方々の記憶に刻まれている。常に現場を大事にし、現地の方々に思いを寄せるリーダーで、アフリカの難民キャンプにも足を運んで現地の状況を直接把握し、国際貢献のあり方を探られた。政策重視、行動第一という豊田さんの基本姿勢は経団連の行動規範にも継承されている。『魅力ある日本』に至るまで課題は山積しているが、経団連の総力を挙げ一丸となって挑戦を続ける。ご冥福を心よりお祈り申し上げます」

経済同友会 櫻田代表幹事
「日本独自の強さを発揮して海外に展開していくいわゆるグローバル経済を日本の産業の中で実践し、成功した最初の経営者の1人ではないかと思う。日本が世界第2位の経済規模に成長するまでの一人一人の指針となるリーダーで、傑出した経営者だった。いろんな人に会っているにもかかわらずきめ細かに人となりを観察していて記憶力に驚嘆した記憶がある。非常に心温まるウィットに富んだユーモラスなコメントもあり、単なる偉大な経営者ではないという印象も持っていた」

日本商工会議所 小林会頭
「豊田氏は今のトヨタ自動車を『世界のトヨタ』と呼ばれるまでの世界的企業に発展させ、戦後の高度経済成長期から日本の経済発展を自動車産業の立場から力強くけん引した。日本が先進工業国として世界的な地位を確立するに至ったのも豊田氏の実績によるところが大きい。経団連会長をはじめ財界活動にも精力的に取り組み、2005年には愛知万博を成功させるなど日本の経済社会の発展のために幅広く尽力した。経営者としての卓越した手腕だけでなく経済界のリーダーとしても日本の国内外で果たした役割と貢献度は極めて大きい。多大なる功績をしのび、謹んでご冥福をお祈りいたします」

スズキ 鈴木修相談役
「現在、トヨタさんと提携関係にあるのも、豊田章一郎名誉会長にご相談したのが始まりでした」「会社の危機を救っていただいた経営の父のような存在であり、感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。突然の悲報を悼み、心よりご冥福をお祈り申し上げます」

岸田首相
「トヨタを世界一の自動車メーカーに育て上げ、日本の自動車産業をリードされた。あわせて経団連会長として日本経済をけん引するなど、大きな努力をされた。心からご冥福をお祈り申し上げたい」

愛知県 大村知事
「愛知県の名誉県民である豊田章一郎さまの訃報に接し、誠に痛恨の極みです。戦後一貫してトヨタ自動車、トヨタグループの総帥としてご活躍し、世界一の自動車メーカーに育てられた。日本経済界のために経団連会長もおつとめになり、地域のために愛知万博の会長としても成功に導いていただいた。また、私の初当選から一貫して政治活動などでご指導ご鞭撻いただき、思いがつきない。謹んで哀悼の意を表すとともに心よりご冥福をお祈り申し上げます」

経団連元会長 「キヤノン」 御手洗冨士夫会長兼社長
「経団連会長にご就任後は、『大胆な構想と着実な実行』を掲げられ、『税制改革』『規制改革』『人材育成』などにご尽力されるとともに、日本型経営の在り方の基礎を固められました。日本の経済界にとってかけがえのない方であり、また、経済界の大先輩として尊敬する方の訃報に接し、謹んで哀悼の意を表するとともに、心からご冥福をお祈り申し上げます」

(2023年2月14日死去)

笑福亭笑瓶(66)落語家・タレント

笑福亭笑瓶(しょうふくてい・しょうへい)さんは大阪市出身で、1980年に大阪芸術大学を卒業したあと、落語家の笑福亭鶴瓶さんのもとに入門し、修業を始めました。

関西を中心にテレビやラジオに出演するようになると、明るい人柄がお茶の間に親しまれ、1987年からは東京に拠点を移して、テレビのバラエティー番組などで活躍し、トレードマークの黄色いめがねやものまね芸などで人気を集めました。

また、NHKの連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」にも出演するなど幅広く活躍していました。

所属事務所によりますと、笑福亭笑瓶さんは、東京都内の自宅で倒れ、急性大動脈解離のため亡くなったということです。

(2023年2月22日死去)

西山太吉(91)元毎日新聞政治部記者

西山太吉(にしやま・たきち)さんは山口県下関市の出身で、慶応大学を卒業後、昭和31年に毎日新聞社に入社し、政治部の記者として活躍しました。

昭和47年の沖縄返還をめぐって本来アメリカ側が負担する軍用地を田畑などに戻す費用を日本が肩代わりする「密約」が交わされたことをうかがわせる外務省の機密文書を手に入れ、日米間で大詰めの交渉が行われていたさなかに報道しました。

政府は、密約を否定する一方で、文書が漏洩したことを問題視し、西山さんは機密文書を外務省の女性職員から違法に入手したとして逮捕・起訴され、有罪が確定しました。

その後、アメリカで密約があったことをうかがわせる外交文書が公開され、西山さんは大学教授らと国に対して密約に関する外交文書を公開するよう求める裁判を起こしました。

裁判のなかでは、沖縄返還交渉当時の外務省のアメリカ局長が証人として出廷し、密約があったことを認めたものの、平成26年に最高裁判所が西山さんらの訴えを退けていました。

親族によりますと、西山さんはことし2月24日、心不全のため亡くなりました。91歳でした。

(2023年2月24日死去)

大川隆法(66)宗教法人総裁

「幸福の科学」のホームページなどによりますと、大川隆法(おおかわ・りゅうほう)氏は徳島県出身で、東京大学法学部を卒業後、大手商社での勤務を経て、1986年に「幸福の科学」を設立しました。

宗教法人のほか、出版や映画、教育などの各分野で関連する団体や法人を設立していて、「幸福の科学」グループの創始者兼総裁とされていました。

関係者によりますと、大川氏は、3月2日に亡くなったということです。66歳でした。

(2023年3月2日死去)

大江健三郎(88)ノーベル文学賞受賞

大江健三郎(おおえ・けんざぶろう)さんは現在の愛媛県内子町で生まれ、東京大学在学中の1957年に大学新聞に掲載された作品、「奇妙な仕事」が文芸評論家の目にとまり、注目されました。
その後、「死者の奢り」や「飼育」を発表し、「飼育」では1958年に23歳の若さで芥川賞を受賞。
その後も数々の文学賞を受賞し、新しい世代の作家として戦後の日本文学界をリードしました。

大江さんは、自身の人生や経験を投影した作品を生み出してきました。出身地の内子町の山あいにある小さな集落の風景は、何度も、大江さんの小説の舞台のモデルとなってきました。

さらに大江さんの文学に大きな影響を与えたのが、生まれつき障害がある長男の光さんでした。
光さんが生まれたよくとしに発表した小説「個人的な体験」では、障害児の父親としての心の葛藤を描き、その後も、障害をモチーフにした作品を書いてきました。

また、安保闘争で挫折した男や障害児を出産した女など、日本の戦後世代を克明に描いた「万延元年のフットボール」や、イギリスの詩人、ウィリアム・ブレイクの詩を交えながら障害児の成長を描いた「新しい人よ眼ざめよ」など、魂の救済や障害者との共生をテーマにした作品を次々と発表してきました。

大江さんの文学は日本だけでなく、世界的にも高く評価され、1994年、川端康成に続いて日本人としては2人目となるノーベル文学賞を受賞しました。

受賞理由は「詩的な言語を使って現実と神話の入り交じる世界を創造し、窮地にある現代人の姿を見る者を当惑させるような絵図に描いた」というものです。

ノーベル賞受賞の記念講演では、川端の講演のタイトル「美しい日本の私」をもじった「あいまいな日本の私」と題して日本や文学への思いを語り、話題となりました。

その後も、新興宗教をテーマにした「宙返り」や、親交のあった映画監督の伊丹十三さんの死をきっかけに執筆した「取り替え子」など、次々と話題作を発表し、長年にわたって第一線で活躍してきました。

また、大江さんは文学者の立場から核兵器や平和の問題に向き合ってきたことでも知られています。
広島で取材した被爆者や医師の姿を描いた「ヒロシマ・ノート」はベストセラーになりました。

2004年には憲法改正に反対する「九条の会」を井上ひさしさんらと立ち上げたほか、東日本大震災後には脱原発を訴えるデモを呼びかけるなど、社会的な発言も積極的に行っていました。

大江さんは老衰のため亡くなったということです。

【母校に「大江健三郎文庫」開設】
9月には自筆原稿など1万8000枚以上をデジタル化した研究拠点「大江健三郎文庫」が母校の東京大学に設立されました。

大江さんは、亡くなる前から、大学に自筆原稿などを寄託してきたということです。研究施設には、専用のパソコンがあり、1957年のデビュー以降、発表してきた小説や評論など131作品の自筆原稿などが閲覧できます。

大学によりますと、現代作家のデジタルアーカイブとしては国内屈指の規模だということで、今後も大江文学の研究が進むことが期待されます。

(2023年3月3日死去)

大岩孝平(90)被爆体験を国内外に発信

広島市出身の大岩孝平(おおいわ・こうへい)さんは、13歳の時に爆心地からおよそ2キロ離れた自宅で被爆しました。

原爆で亡くなった人たちが近くの学校で火葬されていく光景などを目の当たりにした大岩さんは、その後、移り住んだ東京で被爆者運動に参加し、自身の体験を国内外で発信してきました。

また、都内で暮らす被爆者の団体「東友会」の代表理事や、全国の被爆者団体で作る日本被団協=日本原水爆被害者団体協議会の役員などを務め、被爆者の先頭に立って核兵器廃絶を訴え続けました。

東友会によりますと、大岩さんは3月7日、都内の病院で肝硬変のため亡くなったということです。90歳でした。

(2023年3月7日死去)

扇千景(89)元参議院議長

扇千景(おおぎ・ちかげ)氏は神戸市出身で、俳優として宝塚歌劇団で活躍したあと、昭和52年の参議院選挙の旧全国区に自民党から立候補して初当選し、繰り上げ当選も含め、5回当選しました。

この間、自民党のほか、新進党や自由党などにも所属し、自民党と連立政権を組んだ保守党では党首を務めました。

そして、平成12年の第2次森内閣で、建設大臣と国土庁長官を兼務して初入閣し、省庁再編に伴い、初代の国土交通大臣を務めました。
小泉内閣でも再任され、道路公団の民営化問題などに取り組み、所属していた保守新党が解党して自民党に合併したことに伴い、自民党に復党しました。

平成16年には女性で初めて参議院議長に就任し、中国の国会にあたる全人代・全国人民代表大会との議員交流などに取り組みました。

平成19年の参議院選挙に立候補せず、政界を引退しました。

夫は、3年前(2020年11月)に亡くなった歌舞伎俳優の坂田藤十郎さんです。

扇氏は、がんのため3月9日、東京都内の病院で亡くなりました。89歳でした。

扇氏の長男は、歌舞伎俳優の四代目中村鴈治郎さんで、葬儀では、「女優、政治家、母として走り抜けた人生だった。3年前に亡くなった父のそばで喜んでいることと思います」とあいさつしました。

(2023年3月9日死去)

伊藤雅俊(98)イトーヨーカ堂創業者

大手スーパー「イトーヨーカ堂」の創業者で、総合スーパーやコンビニエンスストアなどを傘下に持つ「セブン&アイ・ホールディングス」の礎を築いた、伊藤雅俊(いとう・まさとし)名誉会長がことし3月に亡くなりました。

伊藤氏は、昭和33年に家業の洋品店をもとに、イトーヨーカ堂の前身となる衣料品店「ヨーカ堂」を東京足立区に設立し、社長に就任しました。
その後、アメリカのスーパーマーケットを参考に、品ぞろえを食品や生活用品にも広げて総合スーパー事業に乗り出し、社名を「イトーヨーカ堂」に改めました。
また、ファミリーレストランの「デニーズ」やコンビニエンスストアの「セブン‐イレブン」といった幅広い事業展開にも着手し、イトーヨーカ堂が国内有数の流通グループである「セブン&アイ・ホールディングス」となる礎を築きました。

伊藤氏は平成4年、社員による総会屋への利益供与事件の責任をとって社長を辞任しました。平成17年にはセブン&アイ・ホールディングスの名誉会長になり、経営の一線から退いていました。

【巨大流通グループの礎として】
今や国内有数の流通グループとなったセブン&アイ・ホールディングス。その礎を築いたのが伊藤氏です。

伊藤氏は、1958年に今のイトーヨーカ堂の前身となる「ヨーカ堂」を設立しました。
その発祥は、伊藤氏の叔父が1920年に開業した洋服を扱う洋品店です。

その後、事業を引き継いだ伊藤氏は、アメリカのスーパーマーケットを参考に総合スーパーの運営に乗り出します。

1961年からはチェーン展開を進め、品ぞろえを食品や生活用品にも広げます。1970年に社名を現在の「イトーヨーカ堂」に改めて出店を拡大。最も多い時には182店舗を展開しました。

商売の道は「最悪を考え、信用を第1に」

戦後を代表する小売業界の経営者として一時代を築いた伊藤氏は、商売人として「信用」を何より大切にしてきたといいます。

40年以上にわたり伊藤氏と親交があり、イトーヨーカ堂の社長も務めた亀井淳氏(78)は、訃報の一報を受けたあと、取材に対し、伊藤氏の経営哲学について次のように語りました。

「『お客様は来てくださらないもの。銀行は貸してくださらないもの。取引先は商品を売ってくださらないもの。常に最悪の事態を頭に入れて、だからこそ信用が第一で誠実に行動するように』と教わりました」

長年、グループの店舗開発を担い、時に数百億円という大きな投資を手がけることもありましたが、伊藤氏からは責任の大きさを十分理解するよう諭されたといいます。

「『君たちは未来のための大事な投資をしているが、われわれは豆腐1丁、パンツ1枚という小さい商売の積み重ねで稼いだお金を使っていることを忘れないでほしい』と伊藤さんから指摘されました。『俺たちにできない店作りを君が進めてくれていることには感謝している』と励ましてもいただきました」

【スーパーからコンビニ 外食 総合流通グループへ】

伊藤氏は、グループとして新たなビジネスモデルも推し進めました。コンビニエンスストア事業の展開です。

この時期、コンビニ事業を率いた部下の鈴木敏文現セブン&アイ・ホールディングス名誉顧問(90)のもと、アメリカで生まれたコンビニを日本に持ち込み、1974年から全国展開を開始。
その後「セブン‐イレブン」は国内で2万店を超え、グループの中核事業に成長しました。

【現場重視を貫き 変化を】

消費者の変化に対応し、成長を模索し続けてきた伊藤氏。そこには、世代の垣根を越えて人の心をつかみ、ニーズをくみ取る人柄も大きく関わっていたといいます。

スーパーの業界団体のあるベテラン職員は「自分が新人職員だった時に『頑張ってるか?』と声をかけてくれました。当時でも日本で1、2を争うスーパーの経営者にもかかわらず、若い職員に気さくに接してくれるんだと感じてうれしくなりました」と振り返っていました。

前出の亀井氏も「社員とのコミュニケーションを大切にし、しょっちゅう聞き取りをしてはメモを取り、時代の変化を見ていたようです」と振り返ります。

名誉会長となり経営の一線を退いたあとも、90代になるまでグループ内外の店を視察し、最新トレンドを吸収しようとするなど、どん欲な姿勢は健在だったと言います。

かつて日本の小売業の隆盛を築いたイトーヨーカ堂ですが、設立から半世紀余りを経て、いま、大きな転機を迎えています。
伊藤氏が亡くなる前日には、イトーヨーカ堂をめぐり大幅な店舗の削減や、アパレル事業からの完全撤退など、合理化を一段と進める方針が示されました。

伊藤氏は、みずからの著書「商いの道」の中で、「会社が大きくなると、経営者も、そこで働く社員も、冒険者たる魂を忘れ、リスクを怖れます。これでは会社に生気がなくなってしまいます。(中略)怖くても冒険心を持とうーそう私は考えるのです」と記しています。次の世代に残されたメッセージに映ります。

(2023年3月10日死去)

陳建一(67)マーボー豆腐の第一人者

陳建一(ちん・けんいち)さんは、初めて日本に四川料理を広めたとされる料理人、陳建民さんの長男として生まれ、父の経営する中国料理店で修行を積みました。

強い辛さが特徴の四川料理を日本人が受け入れやすいよう、香辛料の使い方などを試行錯誤しながら工夫し、中国本国ともひと味違う独自の料理を確立しました。

中でもマーボー豆腐の調理では第一人者として知られ、「現代の名工」に選ばれたほか、黄綬褒章を受章しています。

また、民放の料理バラエティー番組で、高い調理技術と愛きょうのある人柄で人気を集めたほか、NHK「きょうの料理」では、日本の家庭向けにアレンジしたレシピを紹介して四川料理の普及に大きな役割を果たしました。

陳さんがオーナーシェフを務める店の運営会社によりますと、陳さんは数年前にがんが見つかり、治療を受けながら店に立つなど精力的に活動していたということですが、間質性肺炎のため、都内の病院で亡くなったということです。

(2023年3月11日死去)

団時朗(74)「帰ってきたウルトラマン」

団時朗(だん・じろう)さんは、京都府出身で、1968年に化粧品メーカーのテレビコマーシャルでデビューしたあと、1971年に特撮番組「帰ってきたウルトラマン」でウルトラマンに変身して怪獣と戦う、主人公の郷秀樹役を演じて人気を博しました。

1984年に舞台「ハムレット」に出演してからは舞台俳優としても活躍し、杉村春子さんや森光子さん、森繁久彌さんらと共演するなど数々の舞台に出演してきました。

その後もシリアスな役からコミカルな役までこなす確かな演技力で、多くのテレビドラマや映画に出演し、NHKでは大河ドラマ「軍師官兵衛」や、連続テレビ小説「カーネーション」などのほか、BSプレミアムで放送されたドラマ「京都人の密かな愉しみ」にも出演しました。

所属事務所によりますと、団さんは6年前に肺がんと診断され、治療を受けながら仕事を続けていたということです。

(2023年3月22日死去)

奈良岡朋子(93)大河や朝ドラでナレーション

奈良岡朋子(ならおか・ともこ)さんは東京の出身で、洋画家の父、奈良岡正夫の影響で今の女子美術大学で絵画を学びながら、1948年に現在の劇団民藝に入り、舞台での活動を始めます。

その後は、同期生だった大滝秀治さんらとともに劇団の代表的な存在となり、「かもめ」や「奇蹟の人」など、数々の舞台で高い評価を得てきました。

テレビドラマや映画でも名脇役を演じたほか、NHKの大河ドラマ「春日局」や「篤姫」、それに連続テレビ小説「おしん」など多くのナレーションでは、落ち着いた語り口で親しまれました。

1992年には紫綬褒章、2000年には勲四等旭日小綬章を受章しています。

また、2013年からは、原爆の悲惨さを描いた「黒い雨」のひとり語りの舞台がライフワークとなり、全国各地で上演するなど、平和を訴える活動を続けていました。

劇団民藝によりますと、奈良岡さんは、去年も舞台に立つなど、活動を続けていましたが体調を崩し、肺炎のため亡くなったということです。

【生前にコメントを残していた奈良岡さん】
奈良岡さんが生前に残していたコメントを劇団民藝が発表しました。
自身を奈良岡さんの愛称「デコ」と呼んでいるほか、親交のあった宇野重吉さんや、杉村春子さんなどと、天国で舞台を演じることを楽しみにする思いなどがつづられていました。

「新たな旅が始まりました。旅好きの私のことです、未知の世界への旅立ちは何やら心が弾みます。向こうへ着いたらすぐに宇野さんを訪ねます。もう一度あの厳しい演出を受けたいと長い間願ってきました。でもね、宇野さん、私はあなたよりずっと長く生きて経験を積んできましたからね、昔のデコじゃないですよ。『デコ、お前ちっとましになったな』と言われたくてこれまで頑張ってきたんですから。腕が鳴ります。杉村先生ともう一度同じ舞台を踏みたかった。どんな役でもいいからご一緒したい。ワクワクします。両親に挨拶するのは二、三本舞台をやって少し落ち着いてからにします。それからは裕ちゃんや和枝さんと思いっきり遊びます。これが別れではないですよ。いつかはまたお会いできますからね。それでは一足お先に失礼します。皆さまはどうぞごゆっくり・・・」

(※宇野さん=宇野重吉さん、デコ=奈良岡さんの愛称、杉村先生=杉村春子さん、裕ちゃん=石原裕次郎さん、和枝さん=美空ひばりさん)

(2023年3月23日死去)

坂本龍一(71)新たな音楽ジャンルを開拓

坂本龍一(さかもと・りゅういち)さんは東京都出身で幼稚園のころにピアノを始め、小学生で本格的に作曲を学び始めるとフランスの作曲家、ドビュッシーに大きな影響を受けるなど、クラシック音楽にのめり込みました。

そして、東京芸術大学に進学すると、在学中からミュージシャンのレコーディングやツアーに参加するとともに、コンピューターを使った電子音楽にも傾倒するようになります。

そして、大学院を卒業後の1978年に電子楽器を使った曲を収録したアルバム「千のナイフ」でデビューし、同じ年に、細野晴臣さんと高橋幸宏さんとともに「イエロー・マジック・オーケストラ」=「YMO」を結成しました。

YMOは、当時の最新の電子楽器だったシンセサイザーやコンピューターを駆使した斬新な音楽性によって、「テクノポップ」という新たな音楽のジャンルを開拓し、「ライディーン」や「テクノポリス」などのヒット曲を次々に発表しました。

また、YMOは海外でもコンサートを重ねて世界的な人気を博し、坂本さんが作曲した「ビハインド・ザ・マスク」はマイケル・ジャクソンやエリック・クラプトンといった海外アーティストもカバーしました。

YMOは1983年に解散しますが、坂本さんは作曲家としての活動にも力を注ぎます。

1983年に公開された大島渚監督の映画「戦場のメリークリスマス」では、自身も俳優として出演するとともに音楽を担当し、映画のテーマ曲は坂本さんの代表曲の1つとなりました。

さらに、1988年には、イタリアのベルナルド・ベルトルッチ監督の映画「ラストエンペラー」でも劇中の音楽を担当し、アカデミー賞作曲賞を日本人で初めて受賞したほか、グラミー賞など数々の賞を獲得して、国際的な評価を高めました。

1990年にはニューヨークに拠点を移した坂本さんは、幼少のころから学んだクラシック音楽を根幹に持ちつつも、世界各地の民族音楽や前衛的な現代音楽の要素など幅広い音楽性を取り入れて作品を発表し続けます。

坂本さんは、大学で音楽を学んだことなどから「教授」の愛称で親しまれつつ、国内外の音楽に影響を与え続けました。

坂本さんは2014年に中咽頭がんと診断され、その治療後に活動を再開しましたが、その後、別のがんが見つかって治療を続けていました。
ことし1月にはアルバムを発表するなど病と闘いながら活動を続けていました。

【社会問題に関心 震災被災者の支援も】
坂本さんは、社会問題にも強い関心を持ち続け、脱原発と核兵器の廃絶を訴える活動も行ってきました。

東日本大震災と原発事故が起きた2011年以降は、脱原発に向けた活動に特に注力しました。そして震災に関しては、被災地の子どもたちで作る「東北ユースオーケストラ」の音楽監督を務めるなど、音楽を通じて被災者支援の活動にも力を入れていました。

(2023年3月28日死去)

畑正憲(87)ムツゴロウさん

畑正憲(はた・まさのり)さんは、福岡市生まれで、東京大学大学院を経て、学習研究社で動物記録映画の制作に携わり、退社後、本格的に作家活動を始めました。

1971年に北海道の無人島に熊や馬を連れて移住し、よくとし、北海道の浜中町に、人と動物がともに暮らす「動物王国」を作りました。

「ムツゴロウ」の愛称で親しまれ、「ムツゴロウの青春記」、「ムツゴロウの動物交際術」など、人と動物とのふれあいを描いた数々の著作を発表し、1977年には菊池寛賞を受賞するなど、動物文学の第一人者として知られました。

文筆活動の傍ら、テレビ番組にも出演し、世界各国を旅してさまざまな動物とふれ合う姿が人気を博しました。

1986年には親とはぐれた子猫が旅をしながら成長していく姿を描いた映画「子猫物語」の監督も務めました。

関係者によりますと、畑さんは、自宅で倒れ、北海道内の病院で心筋梗塞のため亡くなったということです。

【さかなクンは追悼のイラスト】
東京海洋大学名誉博士の「さかなクン」は、追悼のイラストとメッセージを寄せました。イラストは笑顔の畑さんを愛称にちなんだ、魚の「ムツゴロウ」や、象や犬、猫などの動物が囲んでいます。そしてメッセージも記されました。

「ムツゴロウ畑正憲先生からたくさんたくさんいただきました感動は宝物です!ずっとずーっとたいせつに致します。ゆっくりお休みになられてください。私たちをあたたかく見守ってください。ありがとう“ギョ”ざいます」

(2023年4月5日死去)

澄川喜一(91)「東京スカイツリー」を監修

澄川喜一(すみかわ・きいち)さんは島根県出身で、東京藝術大学で彫刻を学んだのち、彫刻家として本格的に活動を始め、木材を曲線の形に削り出して組み合わせた、「そりのあるかたち」という一連の作品で高い評価を受けました。

その後も石や金属などを使った抽象彫刻などで数々の賞を受賞して活躍するかたわら、東京藝術大学で後進の指導にあたり、1995年から2001年までは学長も務めました。

また、大型の施設や記念碑などのデザインでも多くの業績を残し、東京湾アクアラインの川崎人工島「風の塔」や、国立科学博物館のモニュメントなどを手がけたほか、「東京スカイツリー」のデザインも監修しました。

こうした功績から、1998年に紫綬褒章、2020年には文化勲章を受章しています。

(2023年4月9日死去)

竹山洋(76)「秀吉」「利家とまつ」

竹山洋(たけやま・よう)さんは、埼玉県の出身で、大学在学中から演劇を学び、ジャズバンドのベーシストやテレビ番組の構成作家などを経て、30歳のころから本格的に脚本を書き始めました。

人間への鋭い洞察力と骨太の脚本で注目され、NHKの大河ドラマでは竹中直人さん演じる豊臣秀吉が話題となった「秀吉」や、夫婦愛や家族愛の視点で戦乱の世を描いた「利家とまつ」を手がけました。

2001年にはNHKのドラマ「菜の花の沖」で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞したほか、2007年には紫綬褒章を、2017年には旭日小綬章を受章しました。

竹山さんは、舞台や映画などの脚本の執筆も進めていましたが、体調を崩して都内の病院に入院し、敗血症性ショックのため亡くなったということです。

(2023年4月12日死去)

米倉健司(88)5人の世界チャンピオン育てる

ボクシングの米倉健司(よねくら・けんじ)さんは福岡県出身。アマチュア時代には昭和31年(1956年)のメルボルンオリンピックにフライ級で出場し、プロに転向した後はフライ級で日本チャンピオンに、バンタム級で東洋チャンピオンにそれぞれ輝きました。

現役引退後は「ヨネクラジム」を立ち上げて後進の指導にあたり、WBC=世界ボクシング評議会のライト級チャンピオンとなり、5回連続の防衛を果たしたガッツ石松さんや、大橋秀行さんなど5人の世界チャンピオンを育てました。

米倉さんは4月20日に亡くなったということです。88歳でした。

(2023年4月20日死去)

横田忠義(75)強烈なクロススパイク

バレーボールの横田忠義(よこた・ただよし)さんは、香川県三豊市出身で身長1メートル93センチの長身から繰り出す強烈なクロススパイクを持ち味に大学生で日本代表に選出されました。

同期の大古誠司さん、森田淳悟さんとともに身長1メートル90センチを超える3人は「ビッグスリー」と呼ばれて、日本代表をけん引し、オリンピックでは、昭和43年(1968年)のメキシコ大会で銀メダルを獲得し、昭和47年(1972年)のミュンヘン大会では金メダルを獲得しました。

ミュンヘン大会では痛めていた腰にゴムチューブをきつく巻きつけて痛みをこらえながらプレーして日本代表の金メダル獲得に貢献したという逸話がいまも語りぐさになっています。

日本バレーボール協会に(にほん)よりますと、引退後は女子の日本代表や実業団チームの監督を歴任し、最近は、北海道の自宅で闘病していたということですが、5月9日に75歳で亡くなったということです。

(2023年5月9日死去)

中西太(90)西鉄黄金期の主力

中西太(なかにし・ふとし)さんは香川県出身、高校時代には強打のサードとして甲子園をわかせ、「怪童」と呼ばれました。

昭和27年(1952年)に当時の西鉄に入団し、1年目で新人王に輝きました。
2年目には打率3割1分4厘、ホームラン36本、盗塁36個をマークして史上最年少の20歳でいわゆる「トリプルスリー」を達成しました。

昭和31年(1956年)から3年連続で巨人を破って日本一になるなど、名将・三原脩監督が率いる西鉄黄金期の主力として活躍しました。

がっちりした体格を生かしたスイングと打球の速さはけた外れで、ホームラン王に5回、首位打者に2回、打点王に3回、輝き、1シーズンに2つのタイトルを獲得するも再三、わずかの差で三冠王を逃しました。

昭和37年(1962年)には29歳の若さで選手兼任監督となって翌年、リーグ優勝を果たすなど引退するまで8年間指揮をとりました。

特に、バッティングの指導には定評があり、このうち近鉄やヤクルトなど多くのチームでコーチを務めて数々の選手を育てあげたほか、阪神など5球団で監督や監督代行を務め、平成11年(1999年)に野球殿堂入りしました。

中西さんは病気で療養していて5月11日、都内の自宅で亡くなりました。90歳でした。

【中西さんが栗山監督につないだノート】
中西さんはバッティングの指導に定評があり、多くの選手を育てるとともに後進の指導者にも大きな影響を与えました。

ことし3月に行われた野球のWBC=ワールド・ベースボール・クラシックで日本を優勝に導いた栗山英樹監督も、その1人です。

栗山監督は中西さんがヤクルトのコーチを務めていた昭和59年(1984年)に入団しました。

「選手のことを考えて熱心に指導してもらった」という栗山監督は、現役を引退しスポーツキャスターとして活動していた20年ほど前、バッティングの理論や指導法を学ぶために中西さんの自宅を訪れました。

そこで中西さんは打撃の極意を身ぶり手ぶり伝えた後、義理の父親で、西鉄の黄金時代を監督として率い、監督通算歴代2位の1687勝を挙げた名将、三原脩さんが書き残したノートを栗山監督に見せました。

常識を覆すさい配は「三原マジック」と呼ばれた名将が記した監督としての理論や勝負の極意など野球のすべてが詰まった貴重なノート。
栗山さんは「これは神様からのプレゼントだ」と胸が高鳴り中西さんになんとかコピーを取らせて欲しいとお願いしたといいます。

それ以来、栗山監督はそのノートを繰り返し読み込み、三原さんの考えを落とし込みました。三原さんのノートをバイブルに栗山監督は日本ハムをリーグ優勝2回と日本一1回に導き、大谷翔平選手を投打の二刀流の選手として育て上げました。

中西さんがノートを託してからおよそ20年。日本代表の監督として3大会ぶりの優勝を目指しWBCに臨む栗山監督について、ことし1月、中西さんは「栗山君が思い切りやってくれるように期待しています」などと思いを語っていました。

大会直前の合宿でも中西さんから受け継いだノートを熟読していた栗山監督はWBC日本代表を頂点に導きました。

三原さんが培ってきた野球理論が中西さんを通じて、栗山監督に継承され、世界一という形で実を結んだ瞬間でもありました。

(2023年5月11日死去)

上岡龍太郎(81)切れ味のよい話しぶり

上岡龍太郎(かみおか・りゅうたろう)さんは1942年に京都市で生まれ、1960年に故・横山ノックさんらとともにトリオ漫才の「漫画トリオ」を結成すると、ノックさんの明るく強烈な「ボケ」に突っ込みを入れるスタイルで一躍、人気を得ました。

1968年に「漫画トリオ」の活動を休止してからは、タレントとして、数多くのテレビのバラエティー番組で司会などとして活躍し、辛口のコメントを交えた切れ味のよい流ちょうな話しぶりで親しまれました。

特に、1988年から放送が始まった民放のバラエティー番組、「探偵!ナイトスクープ」では、初代局長として鋭いツッコミや時に見せる厳しい意見で、番組の顔として人気を不動のものにしました。

ほかにもトーク番組などで関西を中心に幅広く活躍していましたが、デビューから40周年を迎えた2000年に芸能界を引退してからは、ほとんど公の場に姿を見せることはありませんでした。

上岡龍太郎さんは、肺がんと間質性肺炎のため、大阪府内の病院で亡くなったということです。

【2代目・3代目の局長が追悼のコメント】
民放の人気バラエティー番組、「探偵!ナイトスクープ」の歴代局長も追悼のコメントなどを発表しました。

2代目局長 俳優の西田敏行さん
「上岡龍太郎さんが逝きました。同時にあのエスプリの効いたおしゃれな大人の会話も昇華しました。あの知的で少し照れ屋のはにかんだ眼鏡のお顔を見ることができないのか~嗚呼」

3代目局長 ダウンタウンの松本人志さん
「初代局長上岡龍太郎さんのご冥福をお祈りいたします。3代目局長松本人志」

(2023年5月19日死去)

ティナ・ターナー(83)ロックンロールの女王

アメリカの歌手、ティナ・ターナーさんは1939年、アメリカ南部テネシー州で生まれ、ロックンロールのれい明期の1950年代にデビューしました。

1960年代、当時の夫のアイク・ターナーさんとのデュオとして活躍し、「ア・フール・イン・ラブ」など次々とヒット曲を生み出しました。

しかしその後、夫の暴力に苦しんだターナーさんはソロの歌手として活動を始め、再び絶大な人気を獲得、「愛の魔力」や「ザ・ベスト」、「プライベート・ダンサー」など数々のヒット曲を生み出し、グラミー賞を8回受賞しました。

ターナーさんの人生を描いた映画やミュージカルも制作され、デュオとしてもソロとしても「ロックの殿堂」入りを果たしました。

世界で1億8000万枚以上のアルバムを販売し、「ロックンロールの女王」と称されました。

ターナーさんの代理人は5月24日、「音楽界のレジェンドであり、ロールモデルであった彼女を世界は失った」とする声明を発表し、ターナーさんが長い闘病生活の末、スイスにある自宅で亡くなったことを明らかにしました。83歳でした。

(2023年5月24日死去)

平岩弓枝(91)「御宿かわせみ」シリーズ

平岩弓枝(ひらいわ・ゆみえ)さんは東京出身で、大学を卒業後、作家の戸川幸夫さんや長谷川伸さんのもとで小説を学び、1959年に「鏨師」で直木賞を受賞して注目されました。

学生時代から親しんできた日本舞踊や能、狂言など、伝統文化についての知識をもとにさまざまな作品を発表し、代表作の時代小説「御宿かわせみ」シリーズは、ベストセラーとなり、テレビドラマにもなりました。

また、随筆や戯曲、テレビドラマの脚本なども手がけ、NHKで1967年からよくとしにかけて放送された連続テレビ小説「旅路」の脚本を担当するなど数々のヒット作を生み出しました。

こうした功績が評価され、1997年に紫綬褒章、2016年には文化勲章を受章しています。

平岩さんは、ことしに入って体調を崩していたということで、間質性肺炎のため、都内の病院で亡くなりました。

(2023年6月9日死去)

青木幹雄(89)参議院のドン

青木幹雄(あおき・みきお)氏は、島根県出身で、竹下登元総理大臣の秘書や島根県議会議員などを経て、昭和61年の参議院選挙で初当選して以降、参議院議員を4期務めました。

1999年には、自民党の参議院幹事長から官房長官として初入閣し、小渕内閣を支えました。

翌年、小渕総理大臣が緊急入院したあと総理大臣臨時代理に就任して内閣総辞職から森内閣発足までの対応にあたりました。

小渕氏の後継を決める際には、青木氏や、当時自民党幹事長だった森氏ら5人の会談が行われましたが、臨時代理就任の経緯が不透明だという批判も出されました。

再び、党の参議院幹事長に就任した青木氏は、2003年の党総裁選挙では、所属する橋本派の候補ではなく、当時の小泉総理大臣の再選を支持しました。

その後、参議院議員会長を務め、とりわけ参議院では、野党側にも幅広い人脈があり、大きな影響力を持っていたことから「参議院のドン」とも呼ばれましたが、2007年の参議院選挙で自民党が大敗した責任をとって議員会長を辞任しました。

2010年の参議院選挙ではいったんは立候補を表明しましたが、体調不良を理由に取りやめ、長男の一彦氏があとを継ぎました。

引退後も岸田総理大臣が党総裁選挙の立候補のあいさつに訪れるなど、政局の節目では影響力を持ち続けました。

政治家どうしの関係について青木氏は、「公の役職がない時の人間関係ほど強いものはない」と周囲に話していて、早稲田大学の学生時代から縁のあった森元総理大臣との関係の深さはよく知られていました。

また政権の安定度を見る際に、みずからの経験から、各種の世論調査の内閣支持率と、与党第一党の政党支持率を足した数字が50を下回ると、政権運営は厳しくなるとの見方を示していたことでも知られています。

最近では、去年8月と11月に森氏も交えて、食事をともにしていましたが、青木氏は、ことし6月11日、老衰のため亡くなりました。89歳でした。

(2023年6月11日死去)

杉下茂(97)フォークボールの神様

杉下茂(すぎした・しげる)さんは東京都出身。昭和24年(1949年)に中日に入団し、昭和29年(1954年)にはリーグ最多の32勝をあげてチームを初めてのリーグ優勝に導き、日本シリーズでも5試合に登板して3勝をあげ最高殊勲選手に選ばれました。

当時は珍しかったフォークボールを決め球に巨人の川上哲治選手などの強打者を抑え、「フォークボールの神様」と呼ばれました。

通算では215勝をあげて最多勝に2回、最優秀防御率に1回、沢村賞に3回輝き昭和30年(1955年)にはノーヒットノーランを達成しています。

また、中日と阪神で監督を務めたほか、さまざまなチームの臨時コーチとして精力的に指導にあたり、昭和60年(1985年)に野球殿堂入りしています。

杉下さんは間質性肺炎のため6月12日に東京都内の病院で亡くなりました。97歳でした。

【長嶋茂雄さん「打席で恐怖を覚えたことを思い出す」】
巨人の長嶋茂雄 終身名誉監督は「現役時代、杉下さんとの対戦ではこれは打てないなと諦めさせるようなフォークボールが印象的でした。ストレートも速く、いつフォークボールが来るんだと打席で恐怖を覚えたことを思い出します」と現役時代の思い出を振り返りました。

そして「昭和51年には巨人の投手コーチとして若い選手中心の投手陣を鍛え上げて、立て直してくれました。監督とコーチの立場ではありましたが、信頼し合って一緒に優勝の喜びを分かち合うことができたのも心に刻まれています。偉大な先輩の訃報を聞き、大変残念でなりません。心よりご冥福をお祈りいたします」とコメントしています。

【王貞治さん「杉下さんなしでは日本の野球界を語ることはできない」】
ソフトバンクの王貞治 球団会長は「フォークボールの神様と呼ばれるほど杉下さんなしでは日本の野球界を語ることはできない方でした。川上哲治さんや対戦した人たちの談話では、ねらっていても打てないという話でしたし、それだけ頭脳的なピッチャーだったと聞いていました。杉下さんと対戦できなかったことは本当に残念です」とコメントしています。

(2023年6月12日死去)

シルビオ・ベルルスコーニ(86)イタリア元首相

イタリア北部のミラノで生まれたシルビオ・ベルルスコーニ氏は実業家として成功し、主要なテレビ局を次々に傘下におさめて「メディア王」と呼ばれたほか、サッカーのイタリア1部リーグの名門ACミランを買収してオーナーを長く務めました。

その後、政界に進出して中道右派勢力を結集させて議会選挙に勝利し、1994年に初めて首相に就任しましたが、実業家時代の不正疑惑が浮上して8か月で政権は倒れました。

その後も汚職などのスキャンダルがあとをたちませんでしたが、豊富な資金力とメディアを使った巧みな選挙戦略によってあわせて9年あまり首相を務め、在任期間は第2次世界大戦後のイタリアで最も長くなりました。

2013年には脱税事件で有罪判決が確定し、議員資格をはく奪されましたが、5年前の議会選挙では「中道右派連合」を率いたほか、去年9月の議会選挙で第1党になったメローニ首相が率いる「イタリアの同胞」と連立を組むなど、政治活動を続けていました。

ロシアのプーチン大統領と親しいことでも知られ、2015年にはプーチン大統領の案内でロシアが一方的に併合したウクライナのクリミアを訪問しました。地元メディアなどによりますと、ベルルスコーニ氏は6月9日からミラノの病院に入院していましたが、6月12日に亡くなりました。86歳でした。

(2023年6月12日死去)

牛尾治朗(92)政界と経済界とのパイプ役

経済同友会の代表幹事を務め、長年にわたって政界と経済界とのパイプ役を果たしてきた牛尾治朗(うしお・じろう)氏。

兵庫県姫路市出身で、昭和28年に当時の東京銀行に入ったあと、昭和39年にウシオ電機を設立し、3年前に会長を退任するまで50年以上にわたって社長や会長として経営を担いました。

また、平成7年から4年間、経済同友会の代表幹事を務めて、官主導から民間が主導する経済への転換を訴えるなど、政府の経済政策に対して積極的に発言してきました。

平成13年には中央省庁の再編に伴って設置された経済財政諮問会議の民間議員を務め、当時の小泉政権のもとで郵政民営化や道路公団改革の必要性を訴えて、構造改革を推進する役割を果たしました。

4年前に亡くなった中曽根康弘・元総理大臣をはじめ政界にも幅広い人脈を持ち、長年にわたって政界と経済界とのパイプ役を果たしてきたことでも知られています。

このほか、KDDIの会長を務めたほか、郵政民営化に伴って発足した日本郵政の取締役なども務め、経済界を代表する財界人として幅広い分野で活動を続けてきました。

牛尾氏は、3年前にウシオ電機の会長を退任し、名誉相談役に就任していましたが、6月13日に肺炎のため亡くなりました。

【経済同友会 新浪代表幹事「輝かしい1つの時代築かれた」】

牛尾治朗氏が亡くなったことについて、経済同友会の新浪代表幹事がコメントを発表しています。

この中で、「牛尾元代表幹事は国内でバブル経済が崩壊し、日本固有の経済システムが大変革を迫られていた時代に危機感と改革への強い決意を持って『世界への参画』と『市場の再設計』を軸に日本経済の再生を唱えられた。また、民間活力を引き出すための当時の橋本政権の構造改革を積極的に支持し、強力に後押しされた」としています。

また、「牛尾元代表幹事が示した『相互依存体質から脱却し、みずからの意志と責任で創造的な経営を行うべき』といった市場主義は、経済同友会にとって新しい歴史の始まりを象徴したコンセプトで、経済同友会の歴史に輝かしい1つの時代を築かれた。人との出会いやご縁を大切にされることの重要性を説かれ、人間的魅力あふれるからこそ、経済界や政界を超え、世代を超えて、多くの方々に慕われ愛されていたのだと思う。心からのご冥福をお祈り申し上げる」としています。

(2023年6月13日死去)

北別府学(65)カープ一筋19年 通算213勝

北別府学(きたべっぷ・まなぶ)さんは鹿児島県出身。宮崎県の都城農業から昭和51年(1976年)にドラフト1位でプロ野球、広島に入団しました。

抜群のコントロールから「精密機械」と呼ばれ、3年目から11年連続で2桁勝利をあげて5回のリーグ優勝に貢献するなど、エースとしてカープの黄金時代を支え、カープ一筋19年で球団最多の通算213勝をあげました。

平成6年(1994年)に現役を引退したあとはカープの投手コーチや野球解説者を務めていました。

また平成24年(2012年)には、野球界の発展に大きな功績を残した人をたたえる野球殿堂入りを果たしました。

令和2年(2020年)1月に、血液のがんの一種、「成人T細胞白血病」と診断されたことを公表し、治療を続けていました。

病気を公表した際には自身のブログで「解説者として、カープの日本一を見届けるために必ずや復活します」とコメントしていました。

関係者によりますと、北別府さんは6月16日、広島市の病院で亡くなりました。65歳でした。

【妻が闘病の様子をブログで】
北別府さんのオフィシャルブログでは妻の広美(ひろみ)さんが北別府さんの闘病の様子を更新していました。

この中でことし2月に更新された時には「はっきりと目を開けて普通に会話をしてくれました。口に流し込むという感じですがスープやお粥などを少しだけ食べてくれるまでに」とつづった上で「まだまだ頑張りますのでよろしくお願い致しますと主人が申しております」と書かれ、ベットに横たわる北別府さんと広美さんが2人で写っている写真が載せられています。

亡くなる前、最後にブログが更新されたのは6月12日で「もうすぐ父の日だよ、がんばれ!!」というタイトルでした。

この中では、北別府さんのために子どもたちが座り心地のいいイスに買い替えた様子が書かれています。

そして、「父親をここに座らせてあげたいという思いの詰まった椅子この椅子に座れなくとももう一度帰宅させてあげたいという思いで毎日、拭いています」と北別府さんの回復を願う家族の優しい思いが買い替えたイスの写真とともに載せられていました。

(2023年6月16日死去)

夏まゆみ(61)“芸術と娯楽のごった煮なダンス”

夏まゆみさんは、ダンサーとしての実績を積みながら、20代の頃から振付師として活動を始め、1998年に開かれた長野オリンピックの閉会式で、公式テーマソングの振り付けを担当しました。

また、人気アイドルグループの振り付けを手がけ、ダンスの未経験者が多かった「モーニング娘。」や「AKB48」を担当した際、ダンスを通じてメンバーたちを一流のアイドルに育て上げる手腕が高く評価され、「育ての親」と称されました。

ダイナミックな振り付けは、海外でも経験を積んだ高度で多様なダンスの技術がベースになっていて、特に、1999年に発表された「モーニング娘。」の「LOVEマシーン」は、サビの部分のダンスが歌とともに話題となり、不況に覆われた日本列島を元気づけました。年代を問わず誰もが楽しめるとして、宴会やカラオケの定番の曲の1つにもなっています。

そして、「AKB48」の振り付けでは「会いたかった」が知られています。

夏さんが振り付けを担当したのは、アイドルなど300組以上にのぼり、NHKの紅白歌合戦の演出などにも20年以上にわたって携わってきました。

そして、がんで亡くなるおよそ3か月前のことし3月には、ダンスを通じて自分の考えをまとめた本を発表していました。

【お別れ会では教え子が追悼】
8月に開かれたお別れの会では、教え子たちが恩師に語りかけました。

「モーニング娘。」元メンバー 飯田圭織さん
「ダンスも歌も知らず北海道から出てきた私を一からご指導していただき、ありがとうございました。音楽と向き合えない時があっても、ちゃんと愛情を込めて『そんな気持ちではだめだ』とお叱りくださったこともありました。大変な私たちをいつも愛情を込めてご指導いただき、たくさんの作品をつくりだし、たくさんの皆さんに感激していただけたこと、私たちで作り上げたあの時間を一生忘れません」

「モーニング娘。」元メンバー 保田圭さん
「デビュー当時の私は精神的にも強い子ではなく、めげてしまうことも多く、毎日泣いてばかりいましたが、 愛をもって厳しく指導していただくことで、とても強く前を向いて諦めずに頑張れるようになったと思っています。夏先生からいただいた、たくさんの愛情やことばをこれからも大切に後輩たちと一緒につないでいきたいと思います」

【信念は「誰もが輝くことができる」】
夏さんが最後に残した著書には、「モーニング娘。」や「AKB48」のメンバーたちを指導した経験や、そこから得た自身の考えが記されています。30年以上にわたる指導の現場から選び出したことばは72にのぼりました。

この中で、夏さんは、自分の能力や魅力を発揮する場所を見つけ、努力することができれば誰もが輝くことができるという自身の信念を、「エースはeverybody」と表現していました。

夏さんは、多くの人にダンスの文化を広げたいという熱い思いを、生前、NHKの番組で語っていました。

「私がよくかっこつけて自分の夢として言うのは、芸術と娯楽のごった煮なダンス文化です。その確立が私の夢なんです」

(2023年6月21日死去)

ryuchell(27)ジェンダーレスな社会語る

ryuchell(りゅうちぇる)さんは、沖縄県出身で、高校卒業後に上京し、原宿でショップ店員として働きながら、読者モデルとして活躍しました。

自由奔放な明るいキャラクターと、個性的な「カワイイ」ファッションで男女問わず、多くの人から支持され、NHKの高校講座やバラエティ番組などテレビにも出演して人気を集めました。

また、2016年に結婚し、子どもが誕生したことや家族、そして自分の生き方などについて、自身のSNSでも発信していました。

メディアに出演するなどした際には、「男らしさとは何か」と悩んだ幼少期の経験を踏まえて、性別にとらわれず自分らしい生き方が選べるジェンダーレスな社会のあり方について語ってきました。

一方、去年は、夫として生きることにつらさを感じるようになり、夫と妻としての関係を解消することを選んだという内容のメッセージをSNSで発信していました。

(2023年7月12日死去)

ジェーン・バーキン(76)エルメス「バーキン」の由来に

フランスを拠点に活動し、高級ブランドのバッグの名前の由来にもなった歌手で俳優のジェーン・バーキンさん。

フランスメディアによりますと、バーキンさんは1946年にイギリスで生まれ、1960年代後半にフランスに移住しました。

そして、1969年には、恋人で映画監督のセルジュ・ゲンズブールさんとのデュエット曲、「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」を発表し、ささやくような歌い方で世界的に注目を浴びました。

また、高級ブランドのエルメスのバッグ「バーキン」は彼女の名前に由来しています。

フランスのマクロン大統領はみずからのSNSに「ジェーン・バーキンはフランスの象徴だった」と投稿し、その死を悼みました。

日本との関係では、東日本大震災の直後の2011年4月に、海外のアーティストとしていち早く日本を訪れてチャリティーコンサートを開くなど、被災地の支援に取り組んだことでも知られています。

バーキンさんは、東日本大震災から10年となった2021年、パリでNHKのインタビューに応じ「いまも想像を絶するつらい暮らしを強いられている人々を思い続けている」と述べ、被災地の人たちに思いを寄せていました。

フランスメディアによりますとバーキンさんは7月16日、パリの自宅で亡くなったということです。76歳でした。

(2023年7月16日死去)

横田慎太郎(28)奇跡のバックホーム

横田慎太郎(よこた・しんたろう)さんは鹿児島県出身で、鹿児島実業高校から平成25年(2013年)のドラフト2位で阪神に入団しました。

プロ3年目には開幕戦にセンターで先発出場を果たすなど、将来の中軸候補として期待されていました。

しかし、プロ4年目の春のキャンプ中に頭痛を訴えて脳腫瘍と診断され、闘病生活を送りながら実戦復帰を目指したもののかなわず、令和元年(2019年)に24歳で現役を引退しました。

病気の影響で、ボールが二重に見えることもあった状態で引退試合に臨み、センターからの好返球でランナーをアウトにしたプレーは「奇跡のバックホーム」とも呼ばれ、書籍などで紹介されました。

引退後は地元の鹿児島に戻って、通院しながら自身の経験を伝える公演活動などを続けていましたが、阪神によりますと7月18日、脳腫瘍のため亡くなりました。28歳でした。

【日本一の阪神 胴上げに“横田さんのユニフォーム”】
ことし11月、38年ぶりの日本一を決めた阪神の選手たちは、岡田彰布監督を5回胴上げして、球場に集まったファンと日本一の喜びを分かち合いました。続いて、最後にマウンドに上がった抑えの岩崎優投手を胴上げしました。

岩崎投手は胴上げの最中、阪神に同期で入団した横田さんの現役時代の背番号「24」のユニフォームを両手で掲げていました。

(2023年7月18日死去)

森村誠一(90)「高層の死角」「人間の証明」

森村誠一(もりむら・せいいち)さんは1933年に埼玉県で生まれ、大学卒業後、東京や大阪のホテルに勤務しながら執筆活動を始めました。

1969年にホテル勤めの経験を生かしたミステリー作品、「高層の死角」が江戸川乱歩賞を受賞して人気作家となり、1973年には原子力をめぐる研究者や企業による利権争いを題材にした「腐蝕の構造」で日本推理作家協会賞を受賞しました。

敗戦後の混乱に端を発した殺人事件を通じて人間の本性を描いた作品「人間の証明」や、自衛隊を題材にした意欲作、「野性の証明」は、映画にもなって大ヒットしました。

また、ノンフィクション作品「悪魔の飽食」では、細菌兵器の開発にあたった旧日本軍の「731部隊」について描きました。

出版社の「KADOKAWA」によりますと、森村さんは、肺炎のため都内の病院で亡くなったということです。

(2023年7月24日死去)

土肥孝治(90)イトマン事件の捜査など指揮

土肥孝治(どひ・たかはる)さんは、昭和33年に検事になり、大阪地検の検事正を務めた際には、商社から巨額の資金が引き出されたイトマン事件の捜査などを指揮しました。

その後、平成8年から2年あまりの間は、検察トップの検事総長として、住専=住宅金融専門会社をめぐる事件や、薬害エイズ事件、それに当時の大蔵省や日銀の接待汚職事件などの捜査を指揮しました。

土肥さんはことし8月1日、心不全のため亡くなりました。90歳でした。

(2023年8月1日死去)

テリー・ファンク(79)「テリーマン」のモデル

テリー・ファンクさんは兄のドリー・ファンク・ジュニアさんとタッグを組んで昭和45年(1970年)に初来日したのち、ジャイアント馬場さんとアントニオ猪木さんのBI砲と名勝負を繰り広げました。

日本ではその甘いマスクからアイドルのような人気を博し、ヒール役のザ・シークとアブドーラ・ザ・ブッチャーのコンビとの対戦は注目の的になりました。

また日本の人気漫画「キン肉マン」で、キン肉マンの盟友、テリーマンのモデルとなったことでも知られ、同じスピニング・トーホールドを得意技としています。

キン肉マンの作者・ゆでたまごの嶋田隆司さんはSNSに「テリー・ファンクがいなかったらテリーマンの存在はなかったでしょう。冥福をお祈りいたします」と投稿しました。

(2023年8月死去)

市川猿翁(83)「スーパー歌舞伎」

市川猿翁(いちかわ・えんおう)さんは、1939年に三代目市川段四郎の長男として生まれ、7歳のときに市川團子を名乗って初舞台を踏みました。

1963年、23歳で三代目市川猿之助を襲名しますが、直後に、祖父と父を相次いで亡くしたことから徐々に歌舞伎の舞台の出番が少なくなり、「劇界の孤児」となります。

その後は、企画から演出、主演まで1人でこなし、伝統にとらわれない歌舞伎を模索する独自の活動を始めました。

その中で、江戸時代には盛んに行われていた「宙乗り」の演出や、別の役に一瞬で変わる「早替り」などの芸を復活させて人気を集めたほか、古典歌舞伎の新演出などに意欲的に取り組みました。

さらに日本の古代神話などを題材にわかりやすいせりふや、音楽を用いて、スピード感がある華やかな演出で、現代風にした「スーパー歌舞伎」と呼ばれる新しいジャンルを作り上げるなど伝統的な世界に新風を吹き込み、“歌舞伎界の革命児”と称されました。

このうち、哲学者の梅原猛さんが猿翁さんのために書いた作品で、昭和61年に初演されたスーパー歌舞伎の代表作「ヤマトタケル」は、若き英雄の壮大な物語を現代語のせりふや華麗な衣装、宙乗りなどを駆使してドラマチックに描き、大当たりした作品で、「天翔(あまが)ける心、それが私だ」という名ぜりふと宙乗りするラストシーンの感動的な演技は長く語り継がれています。

こうした長年の歌舞伎への功績が認められ、2010年には、文化功労者に選ばれています。

猿翁さんは、2003年に脳こうそくをわずらってから晩年は長い闘病生活を送り、一門の演出や監修に専念してきましたが、2012年には猿之助の名跡をおいにゆずると同時に長男で俳優の香川照之さんが市川中車の名跡を襲名、本人は二代目市川猿翁として襲名披露の舞台にも立ちました。

(2023年9月13日死去)

遠山一(93)「ゾウさん」

遠山一(とおやま・はじめ)さんは東京生まれで、1951年に大学の仲間と結成した4人組の男声コーラスグループ、「ダークダックス」で低音のバスを担当し、「ゾウさん」の愛称で親しまれました。

1956年にロシア民謡の「ともしび」で注目されると、幅広いレパートリーと美しいハーモニーが支持を集め、その後も「銀色の道」などのヒット曲で、男声コーラスグループの草分けとして活躍しました。
NHKの紅白歌合戦に15回出場したほか、1993年にはグループとして紫綬褒章を受章しています。

所属事務所によりますと、遠山さんはことし4月まで、イベントなどで歌っていたということですが、ことし7月に体調を崩し、慢性心不全と老衰のため、都内の病院で亡くなったということです。

(2023年9月22日死去)

谷村新司(74)長く歌い継がれる名曲

谷村新司(たにむら・しんじ)さんは大阪府出身で、1972年に、バンド「アリス」でデビューしました。

堀内孝雄さんらとともに、力強いボーカルで「チャンピオン」や「冬の稲妻」など、ヒット曲を次々と発表しました。

またシンガーソングライターとして、「昴」など、長く歌い継がれる名曲を生み出したほか、「いい日旅立ち」を山口百恵さんに提供するなど、長年、日本の歌謡界を牽引してきました。

また、谷村さんは、中国・上海にある音楽学院で教授を務めたこともあり、中国で人気の日本人歌手として知られていて、2017年には上海で日中国交正常化45年を記念したコンサートを開いています。新型肺炎の「SARS」が流行したときには、支援を呼びかけて寄付を行いました。

代表曲の「昴」は中国語でもカバーされるなど、広く親しまれているということです。

2015年には、日本だけでなく広くアジアに受け入れられる作品を数多く生み出し、芸術文化の発展に貢献したことが評価され、紫綬褒章を受章しています。

谷村さんは、ことし3月に腸炎のため手術を受け、予定されていたアリスの全国ツアーを延期して、療養していたということです。

【福島で復興支援ソングも】
谷村さんは、東日本大震災からの復興や原発事故による風評の払拭を目指す福島の姿を伝える歌の作詞・作曲を手がけるなど、歌を通して福島の復興支援にも携わってきました。

福島県の依頼で谷村さんが作詞・作曲した「雲のかなた」は、2017年に公開されました。
歌詞のベースになったのは「ふくしまへの想い」をテーマに県が全国から募集した作文で、谷村さんは、800を超える作文に目を通し、創作のイメージを高めたと語っていました。

歌の完成直後、谷村さんはインタビューで「前を向いてみんなが『ようし、頑張ろう』と10年後の自分をイメージできる歌にしたかった。福島の今や過去を歌で伝える役割を担う、そんな歌でありたいと思ってできあがった歌です」と話していました。

(2023年10月8日死去)

財津一郎(89)「キビシーッ」

財津一郎(ざいつ・いちろう)さんは熊本県出身で、高校卒業後に上京したあと、劇団などでの活動を経て、1964年、大阪の吉本新喜劇に入り、笑いの世界で頭角を現します。

そして、1966年には藤田まことさんが主演のコメディー番組「てなもんや三度笠」に出演し、甲高い声で「キビシーッ」と叫ぶ独特のギャグで人気を集めました。

その後は、演技の幅を広げ、映画やドラマ、ミュージカルなどで俳優として活躍するようになりました。

1995年には脳内出血で倒れますが、翌年に放送されたNHKの大河ドラマ「秀吉」で復帰し、竹中直人さん演じる秀吉の義父とされる役で話題を呼んだほか、2004年の連続テレビ小説「天花」ではヒロインを見守る祖父を演じました。

また、歌も得意としていて、「ピアノ売ってちょーだい」と財津さんがコミカルに歌うテレビコマーシャルは20年以上にわたり放送されました。

財津さんの事務所などによりますと、この10年ほどは新たな仕事はほとんど断っていたと言うことですが、ことし7月までは、友人とゴルフに行くなど元気に過ごしていたということです。

しかし、9月から体調を崩していて、慢性心不全のため、東京の自宅で亡くなったということです。

【財津さんのコマーシャル秘話】
20年以上にわたって、財津さんをテレビコマーシャルに起用していた大阪・堺市に本社がある「タケモトピアノ」の竹本功一会長がその秘話を語りました。

竹本さんは、「てなもんや三度笠」で財津さんのファンになり、「~してちょーだい!」という決めぜりふが、そのままCMで使えるのではないかと考えて、出演を打診したということです。

その後、コマーシャルの変更を検討したこともあったということですが、そのたびに視聴者から「変えて欲しくない」という意見が会社に寄せられたことから、「これで最後までいこう」と放送を続けていたということです。
このコマーシャルは、民放の番組で赤ちゃんが泣きやむ不思議なコマーシャルとして紹介されて話題にもなりました。

(2023年10月14日死去)

もんたよしのり(72)「ダンシング・オールナイト」

もんたよしのりさんは神戸市出身で、1971年にソロ歌手としてデビューした後、1980年に結成したバンド「もんた&ブラザーズ」で発表した「ダンシング・オールナイト」が若者たちから熱狂的な支持を集めて爆発的なヒットとなり、この年の紅白歌合戦にも出場しました。

また1983年には、もんたさんが作詞作曲を手がけた西城秀樹さんの「ギャランドゥ」がヒットしたほか、映画や舞台にも出演するなど、幅広く活躍しました。

亡くなる約1か月前の9月26日にはNHKの音楽番組「うたコン」に生出演し、衰えることのないハスキーボイスで「ダンシング・オールナイト」を披露していました。

所属事務所の発表によりますと、もんたさんは、大動脈解離のため亡くなったということです。

(2023年10月18日死去)

櫻井敦司(57)ビジュアル系のボーカリスト

櫻井敦司(さくらい・あつし)さんは群馬県藤岡市の出身で、日本を代表するロックバンドの1つ「BUCK-TICK」のボーカリストとして活動してきました。

「BUCK-TICK」は、いずれも、群馬県出身の5人組のバンドで、1987年にデビューし、ビジュアル系と呼ばれる髪の毛を逆立て化粧をした奇抜なヘアスタイルや、インパクトの強いファッションなどでも注目され、ほかのバンドやアーティストにも大きな影響を与えたといわれています。

このうち、ヒット曲「JUST ONE MORE KISS」や、「悪の華」は、櫻井さんが作詞を手がけました。

バンドデビュー35周年を迎えた「BUCK-TICK」は、精力的に活動を行っていて、ことし9月には、ふるさとの群馬で35周年を締めくくるコンサートを開いていました。

その後、10月19日に横浜市で行われたコンサートの際、櫻井さんは体調不良で病院に救急搬送され、その日の夜、脳幹出血のため亡くなったということです。

(2023年10月19日死去)

李克強(68)中国 前首相

李克強(り・こっきょう)前首相は共産党のエリートコースである青年組織、共青団=共産主義青年団の出身で1999年に当時、省長としては最年少で河南省の省長になり、2002年にトップの書記に就任。

その後、遼寧省トップの書記を務めるなど地方でキャリアを積み、2007年の党大会で、現在の国家主席の習近平氏とともに異例の2階級特進で最高指導部の政治局常務委員に抜てきされました。

2013年から2期にわたり首相を務め、経済政策全般を担いました。

中国の経済成長が減速する中で構造改革を前面に打ち出す政策を掲げ、李氏の名前にちなんで、「リコノミクス」といわれましたが習主席の権力が強まる一方でその存在感は低下していきました。

李氏はことし3月に憲法上の規定により任期が切れるのにあわせて、首相を退任しました。

国営の中国中央テレビは李氏が10月26日に心臓発作を起こし、応急措置が行われたものの日本時間の27日午前1時10分に上海で死去したと伝えました。68歳でした。

(2023年10月27日死去)

朝潮(67)「大ちゃん」

元大関・朝潮(あさしお)の長岡末弘(ながおか・すえひろ)さんは高知県室戸市出身。昭和53年(1978年)の春場所で幕下付け出しで初土俵を踏み、強烈な突き押し相撲を持ち味にこの年の九州場所では幕内に昇進する異例のスピード出世を果たしました。

そして、昭和58年(1983年)の春場所後に大関に昇進して昭和60年(1985年)の春場所で初優勝を果たし、平成元年(1989年)の春場所で引退するまで大関を36場所務めました。

また、恵まれた体格と陽気なキャラクターから「大ちゃん」の愛称でファンから親しまれました。

引退後は若松部屋を率いたあと平成14年(2002年)に高砂部屋を継承して師匠として弟子の指導にあたり、元横綱・朝青龍のほか、大関経験者の朝乃山を育てました。

65歳の定年後は再雇用制度で錦島親方(にしきじま)として協会に残りましたが、おととし新型コロナウイルスのガイドラインに違反したとして協会を退職していました。

日本相撲協会の関係者によりますと、長岡さんは体調を崩していたということで、亡くなったということです。67歳でした。

(2023年11月2日死去)

大橋純子(73)「シルエット・ロマンス」

大橋純子(おおはし・じゅんこ)さんは北海道出身で、1974年にデビューし、伸びやかな歌声で人気となり、1978年、民放ドラマの主題歌になった「たそがれマイ・ラブ」がヒットしました。

そして、1982年には「シルエット・ロマンス」でこの年の日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞しました。

大橋さんは2018年に食道がんを公表して休養し、よくとしには活動を再開していましたが、ことし3月にがんの再発が判明し、活動を休止することを表明していました。

ホームページの投稿には「私としても、やっと世の中も緩和の兆しが見えてきていよいよこれから!と張り切ってリハーサルを始めた矢先の出来事にとても残念な気持ちでいっぱいなのと、楽しみにして下さっている方々に申し訳ない気持ちでいっぱいです。また是非!皆さまの前で歌えるよう暫くお休みを頂戴致します」とつづられていました。

(2023年11月9日死去)

細田博之(79)前衆議院議長

細田博之(ほそだ・ひろゆき)氏は衆議院島根1区選出で当選11回でした。

旧通産省で勤務したあと、平成2年の衆議院選挙で初当選し、これまでに官房長官や自民党の幹事長、総務会長などを歴任しました。

また、自民党安倍派の前身の細田派で会長も務めました。

そしておととし11月、前回の衆議院選挙を受けた特別国会で衆議院議長に就任しました。

細田氏は10月13日に記者会見を開き、7月に脳梗塞の症状が出て別の病気も含め治療を受けていることを説明した上で「国会運営が停滞することは避けなければならない」と述べ、議長を辞任する意向を明らかにしました。
そして10月19日、海江田副議長に辞任願を提出し20日に辞任しました。

一方で、衆議院議員は続けるとして、次の衆議院選挙の立候補に意欲を見せていました。

細田氏は旧統一教会との関係をめぐり、関連団体の会合に出席していたことなどを認めていて、野党側は説明が不十分だと指摘していました。

細田氏は11月10日東京都内の病院で亡くなりました。79歳でした。

(2023年11月10日死去)

池田大作(95)創価学会名誉会長

池田大作(いけだ・だいさく)氏は今の東京・大田区出身で、昭和22年、19歳の時に創価学会に入りました。

教義を学ぶかたわら、布教活動と組織の拡大に努め頭角を現し、昭和35年に32歳の若さで第3代会長に就任しました。

翌年、公明党の前身となる政治団体「公明政治連盟」を結成。昭和39年に公明党が結党されて以降、池田さんは中央の政界にも存在感を示すようになり、独自の地位を築くまでになりました。

平和運動や国際交流にも積極的に取り組んできた池田さんは世界54の国や地域を訪れて指導者や文化人と対談を重ねるなどし、国連平和賞も受賞しました。

中でも中国との交流に力を注ぎ、国交正常化後の昭和49年には北京を訪問し当時の周恩来首相や※トウ小平副首相と会談。平成19年には、来日した当時の温家宝首相と会談するなど、長年にわたって中国の最高指導部とのパイプを維持しました。

池田さんは昭和54年に会長を辞任したあとも、名誉会長としてカリスマ的な影響力を持ち続けていましたが、近年は、高齢などを理由に表舞台に姿を現す機会が減り、小説の執筆活動などにあたっていました。創価学会によりますと、池田さんは11月15日、東京・新宿区の居宅で老衰のため亡くなりました。95歳でした。

※「トウ」は「登」に「おおざと」。

【平和への思い】
池田大作さんは、「万人の幸福」と「世界平和」の実現を根本的な目標とし、布教活動と組織の拡大に取り組んできました。

池田さんが長年、平和運動に取り組んだ原点には、少年時代に空襲で住まいを奪われ兄を失った戦争への怒りがありました。

昭和39年には、太平洋戦争中に激しい地上戦が行われた沖縄で、小説「人間革命」の執筆を始め、冒頭で「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」とつづりました。

平成15年に創価学園の入学式であいさつに立った際には、「私が皆さん方と同じ年代のとき、日本は残酷な戦争に入りました。4人の兄を兵隊に奪われて一番上の兄は戦死し、母の悲しみはあまりにも深かった。疎開して建てた家も空襲で焼けてしまった。だから戦争は反対です、断固として私は」と述べていました。

池田さんは核兵器の廃絶も目指し、昭和50年には、国連本部を訪問して当時の事務総長に核廃絶を願う1000万人分の署名を提出しました。

また、おととし1月に発表した提言では、核兵器禁止条約の発効を受けて、「唯一の戦争被爆国である日本は、他の核依存国に先駆けて締約国会合への参加を表明し、議論に積極的に関与する意思を明確にした上で、早期の批准を目指していくべきではないでしょうか」と記していました。

(2023年11月15日死去)

太田純(65)三井住友フィナンシャルグループ社長

三井住友フィナンシャルグループの太田純(おおた・じゅん)社長が、すい臓がんのため亡くなりました。65歳でした。

太田氏は1982年に当時の住友銀行に入り、海外のインフラ事業などに融資するプロジェクトファイナンスの業務を担当して銀行の収益源として成長させました。

2019年に持ち株会社の三井住友フィナンシャルグループの社長に就任してからはデジタル展開に力を入れたほか、人事制度を改革して若手を積極的に登用しました。

ネットバンキングやクレジットカード、証券などの機能を一体化したスマホ上のアプリサービスをことし3月に開始するなど、新しい金融サービスにも取り組みました。

他社との連携も進め、ネット金融大手のSBIグループと資本業務提携を結んだほか、カルチュア・コンビニエンス・クラブのTポイントとグループのVポイントの事業を統合して新しいポイントサービスを展開する方針を打ち出しました。

太田氏はすい臓がんを患って治療を受けながら業務を続けていましたが、11月中旬に療養に入り、25日に亡くなったということです。

【経団連 十倉会長「本当に驚いているし 非常に残念」】
経団連の副会長も務めていた太田純氏が亡くなったことについて、経団連の十倉会長は「同じ住友グループなので、交流し、懇意にさせてもらっていた。今回の急転直下の訃報には本当に驚いていますし、非常に残念です。心よりお悔やみ申し上げます」と述べました。

また、最後に本人と会ったのが10月下旬だと明らかにしたうえで「太田さんは副会長の4年目で来年5月末にはご退任だが、そこまでちゃんと務めるという力強いことばもあった。まだまだご活躍いただき、経団連の活動を支えていただきたかった方だけに誠に残念でなりません」と述べました。

(2023年11月25日死去)

山田太一(89)「男たちの旅路」

山田太一(やまだ・たいち)さんは東京・浅草生まれで、早稲田大学を卒業後に松竹大船撮影所に入り、木下恵介監督の助監督として映画作りに携わったあと、1965年には脚本家として独立し、テレビドラマの脚本を手がけるようになります。

1976年からNHKで放送された「男たちの旅路」は、鶴田浩二さん演じる元特攻隊の警備員と戦後生まれの若者が世代間のギャップから激しくぶつかり合い、さまざまな社会問題を浮き彫りにした作品で、大きな反響を呼びました。

また、学歴や容姿に劣等感を抱く若者たちを描いた「ふぞろいの林檎たち」をはじめ、「岸辺のアルバム」、「早春スケッチブック」など数多くの名作ドラマを手がけました。

山田さんはオリジナルの作品にこだわり、同時代の倉本聰さんや向田邦子さんとともにそれまで地位が低かったシナリオライターの社会的地位を高めました。

一方、映画化もされた小説「異人たちとの夏」では山本周五郎賞を受賞するなど小説やエッセイでも高い評価を受けています。

近年、山田さんは、東日本大震災をテーマにしたドラマも手がけ、2014年に放送した「時は立ち止まらない」では震災に翻弄された2つの家族の姿を描き、放送文化基金賞の最優秀賞など数々の賞を受賞しました。

【「車輪の一歩」に思い入れ】
数ある山田作品の中でも本人が特に思い入れがあり、「男たちの旅路」シリーズの中でも名作中の名作と言われたのが、1979年に放送された「車輪の一歩」です。

車いすの障害者が直面する厳しい現実を正面から描いた作品で、バリアフリーが進んでいなかった当時の社会に大きな反響を巻き起こしました。

山田さんは3年にわたり、障害者を取材したうえで脚本を書き、鶴田浩二さん演じる主人公の名ぜりふ「人に迷惑をかけることをおそれるな」を生み出しました。

【未発表のドラマ台本見つかる】
山田さんは、6年前に脳出血で倒れて以来、執筆活動はやめていましたが、最近では「男たちの旅路」や「ふぞろいの林檎たち」などのドラマで、映像化されなかった未発表のシナリオが見つかり、本として刊行されたことが話題となりました。

このうち「男たちの旅路」の未発表作「オートバイ」は1978年頃に書かれた作品で、出演していた水谷豊さんがほかの民放のドラマの主演が決まり、お蔵入りとなった経緯があります。

また、「ふぞろいの林檎たち」の続編では、当初は、大学生だった登場人物の40代となった姿が描かれています。

さらに、山田さんが30年以上前に発表した小説「異人たちとの夏」が現代のロンドンを舞台にして海外でも映画化され、来年春には、日本で公開されることも話題を集めています。

(2023年11月29日死去)

KAN(61)「愛は勝つ」

KAN(かん)さんは福岡県出身で、都内の大学を卒業後、1987年にアルバム「テレビの中に」でデビューしました。

自身が作詞作曲を手がけ、1990年にアルバムの収録曲として発表した「愛は勝つ」は、躍動感あるメロディーと、どんな困難に直面しても信じることを呼びかけ、最後に愛は勝つと励ます歌詞が大きな共感を呼び、大ヒットとなりました。

音楽ソフトの売れ行きを調査しているオリコンによりますと、「愛は勝つ」の売り上げはこれまでにCDやレコードなどで※201万枚余りとなっています。(※オリコン調べ 2023/11/20現在)

また、「愛は勝つ」は東日本大震災で被災した人たちを応援しようと開かれたイベントで合唱されるなど、災害からの復興を願う応援ソングとしても親しまれています。

KANさんは、公式ホームページで、ことし2月に「メッケル憩室がん」と診断されたことを公表し、演奏活動を休止して療養生活を送っていると発表していました。

また、10月28日には自身のSNSに、「治療専念のため、お休みをいただきます」と投稿していました。

所属事務所によりますとKANさんは、入退院を繰り返しながら、活動再開を目指していたということです。

(2023年11月死去)

伊集院静(73)「大人の流儀」

伊集院静(いじゅういん・しずか)さんは、1950年に山口県に生まれ、都内の大学を卒業後、広告代理店の勤務などを経て、1981年に作家デビューしました。

地元・山口県などを舞台にした自伝的長編小説「海峡」3部作や、瀬戸内海の島の小学校を舞台に教師と子どもたちの交流を描いた「機関車先生」など、人生の機微を端正な筆致で描く小説を数多く発表し、1992年に短編集「受け月」で直木賞を受賞しました。

その後も自身の人生観や仕事観をつづるエッセー集、「大人の流儀」シリーズがベストセラーとなるなど精力的に活動を続けてきました。
また、作詞家としても活躍し、近藤真彦さんの「ギンギラギンにさりげなく」や「愚か者」などのヒット曲を手がけています。

プライベートでは、1985年に当時の妻だった俳優の夏目雅子さんを白血病で亡くし、その後、俳優の篠ひろ子さんと結婚していました。

伊集院さんは、2020年にくも膜下出血で倒れましたが、その後復帰し、週刊誌での連載や新作の発表を続けていました。

しかし、10月初旬、肝内胆管がんの診断を受け、当面、執筆を休止して、治療することを発表していました。

伊集院さんの死去を公表したのは妻の篠さんでした。

篠さんは、「自由気ままに生きた人生でした。人が好きで、きっと皆様に会いたかったはずですが、強がりを言って誰にも会わずに逝ってしまった主人のわがままをどうかお許しください。最期まで自分の生き方を貫き通した人生でした。ありがとうございました」などとコメントしていました。

(2023年11月死去)

ヘンリー・キッシンジャー(100)アメリカ 元国務長官

アメリカのニクソン政権とフォード政権で国務長官などを務め、アメリカと中国の国交正常化に大きな役割を果たしたキッシンジャー氏。

1923年にドイツでユダヤ人の家庭に生まれ、ナチスの迫害を逃れるため、1938年に家族とともにアメリカに渡りました。

アメリカ国籍を得て、第2次世界大戦では、アメリカ軍でドイツ語の通訳を務め、戦後は、ハーバード大学で国際関係学の博士号を取得。
そして国務省や国家安全保障会議を経て、ニクソン大統領の安全保障担当の補佐官となり、1973年に国務長官に就任しました。
ニクソン大統領がいわゆるウォーターゲート事件で辞任し、フォード政権にかわった後も国務長官を務めました。

キッシンジャ-氏はソビエトとのデタント、緊張緩和路線を推し進めたほか、1971年、当時国交がなかった中国と秘密交渉にあたり、翌年にニクソン大統領が電撃的に中国を訪問する調整を成し遂げ、アメリカと中国の国交正常化に大きな役割を果たしました。

また、ベトナム戦争のパリ和平協定をまとめ、アメリカ軍のベトナムからの完全撤退を実現したとして、1973年にノーベル平和賞を受賞。

キッシンジャー氏は最近まで精力的に活動し、ことし7月には米中の対立が続く中、北京を訪問して習近平国家主席と会談し、11月15日に行われた米中首脳会談に向けた環境整備を進めるねらいがあったと受け止められていました。

キッシンジャー氏が設立したコンサルタント会社によりますと、氏は11月29日、アメリカ東部コネティカット州の自宅で死去しました。100歳でした。

(2023年11月死去)

錣山親方[寺尾](60)細身から繰り出す激しい突っ張り

元関脇・寺尾(てらお)の錣山親方(しころやま)は鹿児島県出身。

元十両の鶴嶺山、元関脇・逆鉾、先々代の井筒親方とともに「井筒3兄弟」と呼ばれた3人兄弟の三男で、昭和54年(1979年)の名古屋場所で初土俵を踏みました。

力士としては細身の体から繰り出す激しい突っ張りを持ち味にファンの人気を集め、平成元年(1989年)の春場所には関脇に昇進して兄の逆鉾ととともに大相撲史上初の兄弟同時三役となりました。

通算の出場記録は歴代4位の1795回、幕内の連続出場記録の1063回も歴代4位で、幕内在位の記録は歴代6位の93場所と、23年余りの土俵人生で数々の記録を残しました。

引退後は年寄の「錣山」を襲名し、師匠として元小結・豊真将の立田川親方や2022年の九州場所で初優勝した小結の阿炎などを育てました。

関係者によりますと、錣山親方は12月17日夜、都内の病院で亡くなったということです。60歳でした。

【小結 阿炎「父親のような広い心で守ってくれた」】
錣山親方の弟子で小結の阿炎は、12月17日、巡業先の大阪から駆けつけて、最期をみとったということで「鉄人の師匠なら戻ってくるだろうと願ったがかなわなかった。泣くと怒られるので我慢したが、耐えきれなくて朝までぐずぐず泣いてしまった。本当にゆっくり休んでほしい」と話しました。

その上で「親みたいに接してくれてたくさんの愛を頂いた。迷惑ばかりかけたが、それでも父親のような広い心で僕を守ってくれた。本音を言うともう少し見ていて欲しかった」と尊敬する師匠の死を悼みました。

「阿炎」というしこ名は錣山親方が幼少の頃に呼ばれていた愛称が由来で、「師匠を超えたいと言っているが、いまだに背中すら見えない。もっともっと大きくならないと。阿炎というしこ名が届くように、頑張っていきたい」と決意を話しました。

(2023年12月17日死去)

犬塚弘(94)クレージーキャッツ

犬塚弘(いぬづか・ひろし)さんは1929年に東京で生まれ、貿易関係の仕事をしていた父親の影響で、幼いころから海外の音楽などに親しみました。

兄が組んでいたバンドでベーシストとして活動する中、1955年にハナ肇さんに誘われてともにバンドを結成しました。

その後、「クレージーキャッツ」としてハナさんをはじめ、植木等さんや谷啓さんら、ほかのメンバーとともに、本格的な活動が始まり、1961年にはサラリーマンの悲哀を歌った「スーダラ節」のヒットなどでたちまち人気を集めました。

その後、犬塚さんは音楽以外にも活動の場を広げ、コメディアンとしてテレビや映画などへの出演を重ねました。

俳優としても、植木さん主演のコメディー映画「無責任シリーズ」や、山田洋次監督の「男はつらいよ」シリーズなどでは、コミカルで味のある脇役として親しまれました。

クレージーキャッツのほかのメンバーは、全員が亡くなっていて、犬塚さんはただ1人のメンバーとなっていました。

高見のっぽ(88)「できるかな」

【2022年9月死去/2023年5月に公表】

高見のっぽ(たかみ・のっぽ)さんは京都市出身で、俳優で芸人だった父親の元で修行を積み、1966年からNHK教育テレビで放送された子ども向け番組「なにしてあそぼう」と、1970年に始まった「できるかな」に「ノッポさん」という役であわせて20年以上にわたり出演しました。

ひと言もしゃべらず、ジェスチャーを交えて鮮やかに工作を作り出す姿が子どもたちの人気を集め、「できるかな」では、相棒のキャラクター「ゴン太くん」とのコンビも話題となりました。

また、2005年、71歳の時には、NHKの「みんなのうた」で放送された「グラスホッパー物語」でみずから作詞と歌を担当しました。

バッタのおじいさんにふんして歌いながら踊る姿が反響を呼び、10か月間にわたる異例のロングラン放送となったほか、その後、本人が出演するミュージカルとして、舞台化もされました。

高見さんは、このほかにも児童書などの執筆や民放の子ども番組の放送作家としても活躍するなど、子どもたちに関連する仕事を数多く手がけてきました。こうした功績が認められ、2007年にはNHKの放送文化賞を受賞しています。

関係者によりますと、高見さんは、去年9月、心不全のため亡くなったということですが、周囲を騒がせたくないという本人の希望もあり、ことし5月まで公表されていませんでした。

【“小さい人”は本当はいろいろなことがわかっている】
のっぽさんの事務所の古家貴代美さんに、素顔の高見のっぽさんについて聞きました。

子ども向けの番組に長年出演したのっぽさんは、日頃から子どものことを、敬意を込めて「小さい人」と呼んでいました。

「『子“ども”なんてひとからげにはできない。大人だって大人“ども”なんて言われたら嫌でしょ』と言うんです。そして、出会った子どもには、『僕はのっぽと言いますが、君のお名前を教えていただけませんでしょうか』と丁寧に話しかけていました。言われた子は、顔を真っ赤にしながらも必死に自分の名前を言うんです」

のっぽさん自身も、著書の中で次のように記しています。

「子どもだからといって、“経験も浅い、物事をよくわかっていない存在”とは、これっぽっちも思っていないからですよ/小さい人たちというのは、実にいろいろなことが分かっているのです。大人が思うよりも、いやおそらく大人よりも、ずっとずっと賢いんですから」(「ノッポさんの『小さい人』となかよくできるかな?」より)

のっぽさんが「小さい人」に寄せた思いはどこまでも優しいものでした。

(2022年9月死去/2023年5月に公表)