荒川静香 好奇心が新たな一歩をつくり出す

プロフィギュアスケーター・荒川静香さん。2006年のトリノオリンピックで金メダルを獲得し、代名詞の体を大きく反るレイバック・イナバウアーは世界に鮮烈な印象を残しました。快挙に至るまでには、大きな苦労と荒川さんらしい決意がありました。それから17年、2児の母となった今でもイナバウアーをアイスショーで披露し続けています。幼少期から高校時代まで過ごした宮城県利府町で、フィギュアスケートを続ける原動力やイナバウアーへの思いを仙台局・黒住駿アナウンサーが聞きました。
(聞き手:黒住駿アナウンサー)

荒川さんにお話を伺ったのは、宮城県利府町におととしオープンした町の文化交流センター「リフノス」。センター内の図書館には、ひときわ目立つドーム型の「おはなしのへや」があります。高校まで利府町で過ごした荒川さんの偉業をたたえ、部屋の壁にはイナバウアーやフィギュアスケートを始めた頃の荒川さんのイラストが描かれています。

好奇心が生んだ“イナバウアー”

(黒住)
代名詞のイナバウアーが今もイラストで地元の子どもたちや多くの人の目に入るというのは?
(荒川さん)
記憶に残るような演技を目指していたので、こうやって何年、何十年たっても気にかけてもらえることが生涯の中でできてうれしいです。インパクトの強い格好なので、「これなに?」って今の子どもたちは言うと思うんですけど、これをきっかけに知ってもらえることがあるので、すごく光栄なことですね。
5歳の息子に“イナバウアーってなに?”って言われましたね。
このイラストを指して「これ!」って教えました。笑

イナバウアーのイラスト前で話す荒川さん

(黒住)
今もアイスショーでイナバウアーを披露されていますが、どんな思いが大きいですか?
(荒川さん)
アイスショーを初めて見る方もたくさんいらっしゃるので、イナバウアーの人が“イナバウアーやらなかったね”という思い出よりも、‘’イナバウアー見られたよ‘’っていうほうがうれしいかなと。私のエゴですね。

(黒住)
イナバウアーとの出会いはいつでしたか?
(荒川さん)
イナバウアーという技は誰しもがやっている中、プログラムを作っている過程で私は腰と背中が柔らかかったので「イナバウアーを反らせてみたら?」と当時のコーチに言われて、体の反り方がどこまでいくのかなっていう“好奇心”であのスタイルになりました。実際に反ってみたら、「いいね、おもしろい、あまり人がやっていない形だね」ということになって、“好奇心”からあの形になりました。

(黒住)
荒川さんの中では、好奇心というのが大きなものになっている?
(荒川さん)
好奇心が技を生むってイナバウアーを通じても思いますし、体の反り方で自分のふくらはぎをさわれるときもあって、それはおもしろかったですね。今どんな格好しているのかなと思いましたし、向こう側の世界を反対側に見ながら景色が反対向きに動いていくのがおもしろさでしたね。その好奇心が始まりでした。

“難しい”からこそ続いたフィギュアスケート

子どものころの荒川さん

荒川さんは仙台で、5歳の時にフィギュアスケートに出会います。小学校から本格的に教室に通い始めると、小学3年生で3回転ジャンプを成功させるなど、頭角を現します。中学生の時には、全日本ジュニア選手権3連覇を達成し大きな注目を浴びるようになりました。

(黒住)
荒川さんがスケートにのめり込んだ理由が、フィギュアスケートが難しかったからと聞いたのですが?
(荒川さん)
当時の習い事の中で圧倒的に難しかったように感じて、やっても やっても極めた感じがしなかったです。水泳とかは自分の中で低いレベルで満足できたけれども、フィギュアスケートは満足するところがやってきませんでした。スケートは1回転できるようになっても、それが6種類あり、2回転、3回転もあります。できるようになったとしても100%できることがないので、それがおもしろかった。どうしても手中に収まった感じがしない。100%に近い自信があるのにジャンプがとべるか、とべないかっていうのが自分の中で賭けになったりして。満足したいからやるのに、満足できない感覚がおもしろかったです。

トリノオリンピック前 最大の試練に直面

2004年世界選手権で優勝 荒川さん(写真中央)

荒川さんは日本を代表するスケーターに成長します。22歳の時には2004年の世界選手権で優勝。世界一に輝きました。
一方で、この時期、スケート人生の中で大きな迷いが生まれます。

(黒住)
荒川さんは続けるのがつらいという思いになったときはありましたか?
(荒川さん)
一番つらかったのはうまくいかないときではなくて、目標を見失ったとき。私の場合は2004年に世界チャンピオンになったとき。その年は大学卒業の年でもあったので、引退すると思っていました。周りのスケーターも多くが社会人になって引退する時代だったので。しかし、トリノオリンピックが2年後の2006年にあるから続けたほうがいいって言われてとどまった。ただそれが、自分にとって続けるべきだったのか、世界チャンピオンとして引退して違った道へ進むべきなのか。自分の中で答えが出せなくなって…時間だけが進んでいってしまっていた。自分だけが考えがまとまらずに足踏みしているのに、時間は確実に進んでしまう感覚の時がつらかったですね。当然競技者としての結果も思わしくなくて、人生の中でも1つ大きな悩み、迷った時期でした。

2005年世界選手権は9位に終わる

(黒住)
その悩みを肯定的に捉えられたのは、なにかタイミングがありましたか?
(荒川さん)
今度は何を目標に何がゴールとして設定できればいいか考えたときに、1年ぐらいかかりましたけど、長く続けてきたスケートをしっかり「卒業する」と決めた。やめるのではなくて、自分の中でやりきって終えることが目標に変わったときに毎日を精いっぱい過ごそうと。きょうが最後になったとしても後悔のないスケート人生だったと思える過ごし方をしようって気持ちが決まったときからですね。

(黒住)
もがいたすえに、その思いにたどり着けた?
(荒川さん)
1年ぐらい目標がない状態で過ごしましたけど、さらに1年後にトリノオリンピックがあったので目指すことがようやく決められて自分の中で覚悟が。そこから変わっていきましたね。

トリノオリンピックに向けて練習する荒川さん

引退に揺れた気持ちを吹っ切り、トリノオリンピックを迎えます。「自分の演技をやりきる」という決意を胸に臨み、金メダルを獲得。美しいイナバウアーは世界を魅了し、荒川さんの代名詞となりました。

(黒住)
トリノ大会から17年たって今振り返ると、どう感じていますか?
(荒川さん)
自分自身の最高の状態をつくって、自分のすべてを出し切って戦うことが何よりも大事だと思ったので、それができたのはよかったですし、“記憶に残るような滑りをしたい”というもう1つの大きな目標をイナバウアーによって達成することができたと思うと、本当にこれは私にとって記録に並ぶくらい大きな結果だなと何年たっても思います。

育児とフィギュアスケートの両立

子育てとの両立について語る荒川さん

2児の母になった荒川さんですが、今も好奇心を持ってフィギュアスケートと向きあい、プロとしてアイスショーで演技を披露し続けています。次なる目標は「子育てとフィギュアの両立」です。

(黒住)
子育てと両立するうえで、難しいことはありますか?
(荒川さん)
毎日、てんてこまい。
自分が何者なのかと思いますね。人前にフルメークできれいな衣装を着て笑顔で手を振る自分と、子どもに鬼の形相でなんにも自分に構えもせずに必死に日常を回している自分と、どっちが私なのか分からない毎日を送っていますね。アイスショーにいくとすごく不思議な気持ちになります。

(黒住)
自身のお子さんにはフィギュアスケーター荒川静香として見いだしてきたものをどのように伝えていますか?
(荒川さん)
やるって決めたことを頑張ろうとしているのなら見守る。もっと手を貸すのではなくて 見守って自分の力でものごとと向きあうことからいろんなことを感じて経験して学んでほしいなと思います。私自身がフィギュアスケートを続けてきて、考え方とか乗り越えるための方法を学ぶチャンスでもあったことを思うと、続けることって大事だなと思います。今続けることが大事だよって子どもたちに言ってもあまりぴんとこないかもしれないので、「目の前のものごとに目を向けるのか背けるのかで将来的に大きく変わるよ」とは伝えます。続けることがなぜ大事なのかということはあまり言わないですね。自分で発見していくものだと思うので。

荒川さんの金メダル獲得までを描いた絵本「しーちゃんのツリー」

「おはなしのへや」で読み聞かせをする荒川さん

荒川さんの経験は、今、次世代の子どもたちにも伝えられています。おととし出版された絵本「しーちゃんのツリー」は、金メダル獲得までの実話が物語になったもの。絵本には「続ければ 見つかるものがきっとある」というメッセージが添えられ、今回インタビューを行った場所で、荒川さんは地元の子どもたちに向けて読み聞かせもしました。

(黒住)
絵本の中の「続けていれば何かがきっと見つかる」。そこにはどんな思いを込めましたか?
(荒川さん)
何かに向かっていく過程で、喜びとか達成感のほかに、困難にもぶつかると思うんですけれども、困難こそが自分を強くするきっかけにもなることがいちばん大事なところ。高い壁がそびえ立って圧倒されても、向きあっていきたいという“好奇心”が大事だと思いますね。

(黒住)
「困難にぶつかったときこそ、大事にしてほしい」と思っている?
(荒川さん)
成長のチャンスですよね。
これまで乗り越えられなかったことが、困難に挑戦することによって自分の強さも弱さも知る機会になると思うし、向きあっていかなければ知らずに終わってしまうので、それはもったいないなと思います。子どもたちには、ぜひたくさんのことに挑戦していってほしいです。

原動力の“好奇心”は これからも

アイスショーでイナバウアーを披露する荒川さん

子どもたちの話をして笑顔の荒川さん

(黒住)
荒川さんは今後スケーターとしてどこを目指しますか?
(荒川さん)
とにかくうまくなりたい。滑りも技のひとつひとつもきれいに自分の満足いくクオリティーに向かいたいです。女性のフィギュアスケーターでソロとして40歳をこえて滑っているスケーターが本当に少ないので、前例があまりない。次の世代のプロになるスケーターたちに示せることがあるといいと思いながらやっています。「荒川さんは41歳の時にやっていたよ」ってなると自分もできるのではないかという気持ちになると思うので、道の1つとして残せたらいいなと思います。

(黒住)
好奇心を持って取り組んだイナバウアーを今も披露している。そこはどう感じていますか?
(荒川さん)
「体をどこまで反らせるか」というところから「何歳までやるのか」に好奇心の方向は変わってきました。どこまでいくのかじゃなくて、いつまでイナバウアーをやるのか、みたいな。
ジャンプで考えても、以前とんでいたジャンプと同じジャンプをとぼうとしても、以前知っているとび方で今の体ではできないってなったら、違う方法からもう1回つくり上げていく。30代、40代では体は確実に変わっているので、今ある筋力、今ある体がどういう反応を示すのかを感じて、今の自分に合った方法でコントロールしていく。そのために週5日はリンクにのって練習していて、それくらい時間が必要になってくる。維持しているのではなくて常に今の自分でつくり上げていっている。それも“好奇心”の延長かなと。今の自分を知ることって新しいじゃないですか。

(黒住)
好奇心の見つけ方のコツはありますか?
(荒川さん)
うまくいかない自分とも向きあうことですね。ちょっと目をそらしたりとか、ふさいだりとか、うまくいかないときってあるけれども、うまくいかない自分もおもしろいと思う方向に持っていきますかね。そうすると「これがダメならこれどうだ」という好奇心にはつながるので、「これがダメならこれ」ってやってみることの連続だと思います。好奇心には大なり小なりありますけど、小さい好奇心でもいいと思うので、ささいな日常の中でもいろんな事に好奇心が持てる瞬間があったら一歩踏み出すチャンスかなと思います。