星野仙一さんが被災地で伝えたことば (前編)

星野仙一さんが被災地で伝えたことば (前編)
「耐えよう 耐えようなぁ」

東日本大震災から5年となった2016年。

楽天の監督を退任した星野仙一さんが被災地で出会った人たちにかけたことばです。

あのとき、なぜ星野さんはそのことばを選んだのか。

私の心にいつまでも残っていました。

本人に直接聞きたくても、もう聞くことはできません。

私はその答えを探すため、6年ぶりに被災地を訪れ、星野さんと出会った人たちに話を聞くことにしました。

(ネットワーク報道部 松本裕樹)

“闘将”への直談判

星野仙一さん。

楽天の監督として、チーム初のリーグ優勝と日本一を成し遂げ、東日本大震災に襲われた被災地を勇気づけた姿は今も多くの人の記憶に鮮やかです。
2016年1月25日。

東京のとあるホテル。

星野さん本人を前にした私は、これまで10年の記者生活でいちばん緊張していました。

当時、仙台局で楽天を担当して1年がたったころ。

これまで星野さんを取材するときには、いつもベテランの番記者が囲んでいて、私のようなひよっこの記者が、おいそれと質問なんてできるような空気ではなかったのです。

星野さんに何とか大震災から5年となる被災地を見てほしい。

そしてその同行取材を許してほしい。

そのために私は仙台から東京のホテルまで取材申し込みにやってきたのでした。

無我夢中で、もう何をどう説明したのか覚えていません。

10分も一方的に話し続けたでしょうか。

星野さんは不意に私を見て、ひと言だけ言いました。

「おうわかった。細かいことは広報とやれ」

えっ?これはOKということなのか?

背中にべっとりと汗をかいて、混乱した私を尻目に、星野さんはゆっくりとコーヒーを飲んでいました。
この時の取材について星野さんを担当していた楽天の職員はこう振り返ります。
楽天球団 松原健太郎さん

「受けるんだ」というのが正直な感想でした。

星野さんは楽天の監督を退任したあと、ロケどころかロングインタビューにもほとんど応じていませんでした。

そんな星野さんが二つ返事で受けたというのは、震災5年のタイミングで被災地を訪れて目に焼き付けておきたいというのがあったのではないかなと。

きっと被災地に行くことに“意義がある”と感じたのだと思います。

闘将が見せた涙

「えっ!! 泣いている!?」 

突然のことに取材陣は面くらいました。

星野さんが涙を流し、ことばを詰まらせました。

震災の語り部の話を聞いていた最中のことでした。

星野さんが訪れたのは宮城県の沿岸部の閖上地区。
ここで、津波のことについて語ってくれたのが丹野祐子さんです。

丹野さんは大スターが来たからといって緊張した様子もなく、津波の被害や今の復興状況を説明しました。

そんな説明を星野さんは淡々と聞いている様子でした。

ところが、丹野さんが途中であるひとことを口にします。

「私の子どもも生きていたら、ドラフトで入団するオコエ選手と同い年なんです」

「え?息子をなくしているの?」

星野さんの表情が一変しました。

「そうなんです、津波で流されてしまって…」

「なんで、そんなに明るく話せるんだ」
ことばにつまり、星野さんは不意にカメラに背を向けました。

泣いていました。

「おれ、こういうのだめなんだ…」

“闘将”が見せた涙は、今でも私の脳裏に焼き付いています。

しばらくたち、ようやく落ち着いた星野さんに、丹野さんはこう言って説明を締めくくりました。

「息子が亡くなって私たちが生き残っていいのか本当に悩みましたけど、それでもこの土地で起きたことを話し続けなければならないんです」。

奇跡は起きる だから耐えよう

次に星野さんは、震災後に使われなくなった旧閖上小学校で野球の練習をしていた子どもたちを訪ねました。

子どもたちには事前に訪問することは伝えられていませんでした。

突然の訪問に戸惑う子どもたちに星野さんが伝えたことばがあります。
「楽天の日本一なんてだれも予想しなかったことが起こったんだ。必死にやっていれば、懸命にやっていれば奇跡は起きる。だから今は『耐えよう』『耐えようなぁ』」

子どもたちは真剣な表情で星野さんのことばを聞いていました。

色紙に書いた「夢」の一文字

ロケの合間、食事に訪ねたのが、当時仮設商店街にあった寿司店でした。

この寿司店は沿岸部にあった店舗が流されてしまい、ここで営業を再開していました。

閖上名物の赤貝を味わってもらおうと、大将に頼み込んだのでした。

ところがロケ当日になって、楽天の専属広報から「星野さんは貝が苦手かもしれない」と聞かされました。

記者としてこの時ほど自分の取材力不足を嘆いたことはありませんでした。

それでもふたを開けたら、星野さんは赤貝がたっぷり乗ったどんぶりを「うまい!」と完食。

本当に胸をなで下ろしました。

星野さんは食べ終わると、カウンター越しに大将の比佐幸悦さんと話を交わしました。
「(お店を)辞めたくならなかった?」。

「はっきり言って辞めようと思いました」。

「また元の場所に戻ってやろうという気持ちは?」。

「ありますね」。
寡黙な大将がとつとつと話す再建への思い。

星野さんはそのことばの一つ一つをかみしめるように聞いていました。

そして、お礼に「夢」と、ひと文字書かれた色紙を渡しました。

星野さんはいつも色紙にサインを書くとき「夢」の一文字だけを大きく書くことにしていました。

胸に残った問い

一連の取材はニュースの特集として無事に放送され、星野さんにも喜んでもらえました。

また取材できる機会はないかと思っていましたが、それからわずか2年後に、星野さんは足早に旅だってしまいました。

この取材を終えたあと、私の心にある問いが残りました。

それは、星野さんがたびたび被災者に語りかけていた「耐えよう」ということばの真意です。

繰り返しこう話していました。
「被災した当事者じゃないと絶対に本当の気持ちは分からない。子どもを亡くした親とか当事者じゃないとつらさは分からない。だから俺は頑張れとは言えない」
でも、と私は思いました。

「耐えよう」というのは、つらい状況をひたすら我慢し続けるということではないかと。

ネガティブな、ややもすれば後ろ向きなことばを、なぜ被災地の人たちにかけたのだろう。

「頑張れ」とは言えなくても、「前を向こう」でも「顔を上げよう」でも「明るい未来を信じよう」でもいい、何かもっとポジティブな物言いはなかったのだろうか…。
どうしても真意を確かめたくて、私は星野さんが亡くなる直前まで、専属広報として近くに仕えた松原健太郎さんに聞いてみることにしました。

松原さんの答えは意外なものでした。
楽天球団 松原健太郎さん
あのとき、星野さんの目には被災した人たちが、相撲で言えばまさに『徳俵に足がかかった』状態に映っていたのではないでしょうか。
震災から5年。

進まない復興と被災地に対する関心の希薄化。

その中でも、大切な人や思い出をなくした喪失感を抱えて生きなければならない哀しみ。

あのときの被災者はまさに土俵際ぎりぎりで耐え忍んでいる状態ではなかったか。
松原さん
だから、今は何とか耐えて、少しでも苦しい状況を変えて、前に進めるような態勢を整えてほしい。星野さんのそうした思いが『耐えよう』ということばになったのでしょう。
松原さんのことばで、私はこれまで抱えてきた疑問の答えが見えてきた気がしました。
あのとき、星野さんが出会った人たちは、みなそれぞれに大きな悲しみや逆境に「耐えて」いました。

そんな人たちに確かに寄り添っていたのだと。

あれから6年がたちました。

あの日、星野さんのメッセージを受け取った人たちは、今どんな思いでいるのだろう。

私は現地を訪ねてみることにしました。