“品格”と“勝負”のはざまで~横綱 白鵬が残したものとは

“品格”と“勝負”のはざまで~横綱 白鵬が残したものとは
史上最多45回の優勝を果たした横綱 白鵬が現役を引退しました。優勝や勝利に関わる数々の記録を塗り替えた史上最強の横綱は現役晩年、けがによる休場、取り口を含めた言動から、横綱としての品格を問う批判を受けました。モンゴルから15歳で来日し横綱に上り詰め、日本国籍を取得した白鵬は「大相撲とは何か」という根本を角界や多くの相撲ファンに問いかける存在だったのではないでしょうか。
(スポーツニュース部記者 鎌田崇央)

記録ずくめの横綱

今月1日の引退会見で「引退に迷いはなかった。全部出し切った」と心の内を明かしました。
20年間の相撲人生は、まさに記録ずくめでした。
優勝回数………45回

通算勝ち星1187勝

横綱在位………84場所

優勝や勝利数に関わる記録は、ほぼすべてが1位と言っても過言ではありません。
優勝回数の2位は、昭和の大横綱 大鵬の32回であることを踏まえても、いかにその成績がぬきんでているかがわかります。

挫折から始まった相撲人生

前人未到の多くの記録を成し遂げた白鵬は、入門当初から期待されていた力士ではありませんでした。
父親はモンゴル相撲の横綱で、オリンピックのレスリングでメダルを獲得したモンゴルの英雄、ムンフバトさん。
しかし、その英雄の息子の白鵬が15歳で来日した当時は体重60キロほどでした。
受け入れてくれる相撲部屋がなかなか見つからず、モンゴルに帰国する直前に宮城野部屋への入門が決まったいきさつは広く知られています。
引退会見で師匠の宮城野親方は「この子のためには稽古をさせず、とにかく食べさせて寝る。新弟子検査に受かるために体重を増やさせた」と振り返っています。
ようやく検査の基準となっている体重67キロを上まわる70キロ台にまで増やし、無事に合格しました。しかし、初めて番付にしこ名が載った序ノ口の最初の場所は負け越してしまったのです。

強さ身につけた努力

のちに関取に出世する力士の多くが勝ち越すことが当たり前の序ノ口での負け越し。
それでも諦めることはなかった白鵬の根底にあったのは「モンゴルの英雄の父親に恥をかかせる訳にはいかない」。さらに「自分を受け入れてくれた宮城野親方に褒められたい」との思いでした。
こうした強い決意で厳しい稽古を続けた白鵬が入門当時から引退まで、最も大事にしてきたのは、相撲の基本動作でした。
毎日の稽古では、土俵に入る前に「しこ」「すり足」「てっぽう」、3つの基本中の基本を汗が噴き出すまで1時間あまりかけて、入念に行いました。
食事管理と相撲の基本を大切にしながら白鵬が身につけて行ったのは「組んでよし、離れてよし」の万能な相撲。右手で差す、「右四つ左上手」の形を得意としながらも、突き放す相撲でも強さを発揮し、天性の体の柔らかさや足腰の強さで土俵際の粘り強さも持っていました。

入門から3年で新入幕、平成19年の夏場所後に第69代横綱に昇進しました。
白鵬は横綱に昇進後も「私は最初の序ノ口の場所で負け越してますからね」と笑いながら語る様子を何度も目にしました。多くの人に諦めずに努力する大切さを伝えたかったのかもしれません。

過去の大横綱に傾倒 相撲文化を学ぶ姿勢も

22歳で横綱に昇進した白鵬は、過去の大横綱に傾倒し、学ぶ姿勢も見せてきました。
優勝32回、昭和の大横綱 大鵬の納谷幸喜さんのもとをたびたび訪れ、横綱としての心構えを学びました。白鵬は、今でも納谷さんにかけられた言葉を忘れられないと話しています。
白鵬
「大鵬関が横綱に昇進したときに『引退することを考えた』と言った。その言葉を聞いた時に衝撃でしたね」
横綱は勝ち続けなければ、終わり。勝負に徹底してこだわってきた白鵬の姿勢は、納谷さんの言葉が影響していたのです。
また、不滅と言われる69連勝の大横綱 双葉山の書籍や映像を繰り返し見て、土俵入りの所作などを研究し自身のせり上がりにも取り入れてきました。
その双葉山の影響を最も強く受けて挑戦したのは、「後の先(ごのせん)」と言われる立ち合いでした。
「後の先」は、立ち合いで遅れて相手を受けて立つように見えながらも、実際には相手を制し先手を取ることを意味します。

押し相撲にも四つ相撲にも柔軟に対応できる究極の相撲とも言われています。
白鵬は双葉山の連勝記録に迫った平成22年頃からこの立ち合いの修得にこだわり始め、稽古場や本場所の取組でも繰り返し試す姿がありました。
当時のインタビューで白鵬は、次のように話しています。
白鵬
「まだ完全には『後の先』をわからないが、勝ち負けにこだわらず、15日間すべて後の先で行く。それが、自分のためでも、相撲ファンのためでも、今後の未来の大相撲の役に立つかも知れません」
数々の大記録を打ち立てていたころの白鵬には、勝ち負けを超えた究極の相撲を追い求める姿が確かにあったと言えます。

低迷期を一人横綱として支える

白鵬はみずからの相撲を究める一方で、角界の苦しい時代を一人横綱として支え続けました。
平成22年から23年にかけて野球賭博問題や八百長問題など日本相撲協会の根幹を揺るがす不祥事が相次ぎました。
さらに平成23年、白鵬自身の誕生日でもある3月11日に発生したのが東日本大震災でした。

角界の不祥事の中で、白鵬は平成22年の九州場所にかけて63連勝を記録しました(双葉山の69連勝に次ぐ史上2位の連勝記録)。
翌、平成23年には八百長問題を受けて無料で公開された5月の「技量審査場所」で、歴代1位に並ぶ7場所連続優勝を果たしました。
東日本大震災の被災地には当時、力士会の会長として10年間に渡って義援金を送ることを決定。被災地を何度も訪れて、毎年のように土俵入りをしたほか、被災地に土俵を贈る活動も続けてきました。
被災地とのつながりは今も続いています。
まさに看板力士の横綱として相撲協会を支え、さらには社会に貢献する責任を誰よりも感じていたのも白鵬でした。

晩年は批判ばかりが目立つ

14年間に渡り横綱の地位に座った白鵬。現役生活の晩年は称賛よりも批判を受けることが多くなりました。
特に目立ったのはその取り口や言動を巡って、横綱としての「品格」を問うものでした。
平成29年の九州場所後には、横綱審議委員会の当時の北村正任委員長が「張り手やかち上げが15日間のうちの10日以上もあるというような取り口は、横綱相撲とは到底いえない、美しくない」と相撲ファンからの多くの投書を引用する形で苦言を呈しました。
さらに優勝インタビューでの万歳三唱や手締めは、相撲道の伝統と秩序を損なうとして、相撲協会から「けん責」の懲戒処分も受けました。
そして、結果的に現役最後の場所となった7月の名古屋場所では、全勝優勝を果たしたにも関わらず、14日目の仕切りや千秋楽の張り手やかち上げについて、横綱審議委員会の矢野弘典委員長から「実に見苦しくどう見ても美しくない」と厳しく批判されました。
批判を受けることが多くなった時期は、白鵬のけがが増えて休場が目立ち、圧倒的な強さに陰りが見えて来た時期とも重なります。批判が目立つようになった背景には、勝つことで横綱の地位を守り責任を果たそうとする白鵬と、周囲が求める横綱像との隔たりがあったと感じます。

横綱像の隔たりとは

横綱像の隔たりとは何か。角界や古くからの相撲ファンが求める横綱像については、相撲協会が設置した有識者会議(山内昌之委員長)がまとめた提言に記されています。
大相撲で守るべき規範を検討するために設置された有識者会議がことし4月に公表した提言では、今後の大相撲について次のように結論づけました。
●「日本人が自然に受け入れてきた大相撲の神事に由来する古典的な伝統・精神・技法をこれからも守るべき原理原則と見なし、この方向で相撲道を継承発展させていくべきだ」

●「相手との呼吸を合わせようとしない立ち合い、土俵上におけるガッツポーズや行司軍配への土俵下での不満表明は、一部のスポーツで許されても大相撲にはなじまない」

●「番付最高位の横綱には、このたしなみが他の力士にもまして強く要望される」
勝ちさえすれば何をしてもよいという勝敗に固執する思想に共感できないファンが大勢いると指摘していました。
一方の白鵬は、取り口に対する批判に対して「横綱が8勝7敗でいいのなら良いんだけどね」と話すなど、勝つための手段という考えを示したこともありました。
また、引退会見では現役晩年に批判を受けたことに対する質問に次のように答えました。
白鵬
「横綱になりたての頃は、自分の理想の相撲を追い求めた時期もありました。最多優勝を更新してからはケガに泣き、そこからは自分の理想とする相撲ができなくなりました。横審の先生方のことばのとおりに(取り口を)直したという時期もありました。理想とする相撲ができなくなったことは反省しているし、自分自身も残念に思っています」
また「横綱とは?」という質問に対しては
白鵬
「土俵の上では手を抜くことなく、鬼になって勝ちに行くことこそが横綱相撲だと考えていました。その一方で、周りのみなさんや横綱審議委員会の先生などの横綱相撲を目指したこともありましたが、最終的にその期待に応えることができなかったかもしれません」
双葉山の“後の先”に学び、受けて立つ理想の横綱相撲に挑んだ全盛期。けがによる衰えと戦い、それでも横綱の責任を果たすために勝ちにこだわった晩年。
胸の内にあった葛藤と最後まで周囲の理解を得られなかった無念さを隠すように、手元に置いたメモを見ながら慎重に言葉を選んだ姿が印象的でした。

白鵬が残したものとは…

1500年近い歴史があるとされる大相撲は、「神事」「興行」、近代以降は「スポーツ」という3つの側面を時代に即して微妙にバランスを変えながら成り立ってきました。横綱 白鵬が残したものは圧倒的な成績に加えて、“大相撲とは何か”、そして“どうあるべきか”という、根本の問いかけだったと思います。
モンゴルから来日した1人の少年が頂点を極めた大相撲の世界。ルールの範囲内で競う『スポーツ』と、明文化されていない横綱としての品格が求められる日本の『伝統文化』とのはざまで、葛藤を抱えながら横綱を務めあげた白鵬。今後は親方として後進に伝え、大相撲の発展・継承に力を注いでほしいと思います。
スポーツニュース部記者
鎌田 崇央
平成14年入局
さいたま放送局を経て
スポーツニュース部に
プロ野球や水泳などの
担当を経て
大相撲担当は通算5年目