駆け出しの頃は担当したい歌手は簡単に見つからない。人脈があるわけではないし。実績があれば、事務所や関係各所からオファーもあるだろうが、駆け出しもいいところの人間に、そんなものがあるわけない。
会社から先輩が担当した歌手をあてがわれる。「やってみな」と言われると「わかりました」しかない。経験豊かな先輩社員がうまくいかないものを、なんで自分が…という疑問も少々あったが、従うしかなかった。
そんな流れで、大塚博堂を担当することに。音楽大学出身で、歌唱力は折り紙つきだった。1972年に「自由に生きてほしい」でデビュー。翌年はフジテレビのドラマ主題歌というファクター付きの第2弾も出したが不発に終わった。
クラブ回りなどで細々と活動していたが、藤公之助の詩集にめぐり合い、「それに曲をつけたから聞いてほしい」と言ってきたのだ。
夜な夜な飲みながらの議論が続き、76年「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」で再デビューにこぎつけた。タイトルは、映画「卒業」をイメージしたものだった。
彼のメロディーは歌謡フォーク調でヨーロッパの匂いを感じさせた。全国でライブを続けるうちに「愛の吟遊詩人」と言われるようになった。僕は「ジョルジュ・ムスタキの日本版だ」と声高に吠えた。ムスタキは「異国の人」や「私の孤独」で知られる仏シンガー・ソングライターだ。