演歌、歌謡曲のジャンルでは当代一のメロディーメーカー。しかし、1983年に大ヒットした都はるみとのデュエット曲「浪花恋しぐれ」で名声を得るまでは、辛酸をなめてきた。
67年、17歳で浪曲師、三代目広沢虎造の“カバン持ち”に。固定給はなく、用事があるときだけの小遣い制で、浪曲師のパンフレット販売の差額を生活の糧としていた。
月収は数千円。上京のきっかけを作ってくれた画廊オーナーの倉庫に住まいを構えたが、数十円の立ち食いそばすら手が出なかった。
岡山県の離島生まれ。兄と姉の3人兄弟は母の手ひとつで育てられた。中学2年生のとき、「音楽の才能がある」との担任教師の言葉に、母はピアノ教室に通わせた。「習ったのは約1年間。バイエルだけ。それが今の僕の原点になってるから、先生は本当に恩師」
高校進学を断念し、大阪のメッキ工場をへて、南紀白浜のリゾートホテルのレストランに就職。だが歌手になる夢はひそかに持ち続けていた。そんな時に意気投合したのが、客だった画廊オーナー。誘われるまま、上京を決意した。
その後、錦糸町のキャバレーに転職。ボーイ兼前座歌手だった。「暇な日は、大ヒット曲『赤いグラス』の作曲家、牧野昭一先生の家へレッスンに通ったんだ。作曲家を志したのは先生の助言だった」