【著者インタビュー】村松友視さん『アリと猪木のものがたり』

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 『私、プロレスの味方です』で作家デビューを果たし、その後、長い間プロレスについて沈黙を守ってきた村松友視さんが、35年ぶりにプロレスと正面から向かい合った『アリと猪木のものがたり』(河出書房新社)を刊行した。当時、「世紀の凡戦」と世間から 揶揄(やゆ) されたアントニオ猪木とモハメド・アリとの1戦を自身の記憶と映像の見直しで振り返り、試合後、アリが亡くなるまで続いた2人の絆を (つづ) っている。執筆に至った経緯や、試合に対する評価、そして今のプロレスに対する思いなどについて語ってもらった。

執筆の遠因となった北朝鮮でのアリの姿

アリと猪木のものがたり
アリと猪木のものがたり

――デビュー作となった『私、プロレスの味方です 金曜午後八時の論理』を出版されたのが、1980年(昭和55年)のこと。82年までにかけ、プロレス関連の本を数冊立て続けに刊行されて以来、ほぼ35年間、プロレスについて言及されることはありませんでした。

「島耕作」は自分史のよう…弘兼憲史さん

村松 2000年(平成12年)に『力道山がいた』を出していますが、これは評伝ですからね。プロレスに理屈づけするような文章を書いたのは、その当時以来です。

――なぜプロレスについて、沈黙を続けてこられたのでしょう?

村松 私が書いた一連のプロレスの本は、具体的なプロレスの現実や業界のことを知っていて書いたわけではなく、自分の感覚で書いているわけです。ですから、プロレスの関係者としてのコメントを求められても、期待に応えられないのでお断わりしていたというわけです。

 『私、プロレスの味方です』で本当に書きたかったことは、プロレスそのものではなくて、プロレスを通して、人間のものの見方などについて書きたかったのです。ところが、『アブサン物語』のように、飼い猫のことを書くと愛猫家だと思われ、プロレスのことを書くとプロレスファン、『時代屋の女房』を書くと骨董(こっとう)品に造詣が深い人と思われたりする。それはちょっと違いますよ、という気持ちはずっとありましたね。

――35年ぶりにプロレスについて書かれた本が、この『アリと猪木のものがたり』です。1976年(昭和51年)6月26日に東京・日本武道館で行われた、プロレスラー・アントニオ猪木と当時ボクシングヘビー級チャンピオンだったモハメド・アリとの異種格闘技戦を当時の映像でふり返るとともに、試合の前後の2人の交流を描かれています。執筆にいたったきっかけは何だったのでしょう?

プロレスラーのアントニオ猪木と「格闘技世界一決定戦」を戦う、モハメド・アリ(東京・日本武道館で、1976年6月26日撮影。2016年6月4日夕刊掲載)
プロレスラーのアントニオ猪木と「格闘技世界一決定戦」を戦う、モハメド・アリ(東京・日本武道館で、1976年6月26日撮影。2016年6月4日夕刊掲載)

村松 ご存じの通り、この試合は当時、「世紀の凡戦」と呼ばれるくらい、世間から厳しい批判にさらされました。この試合については、私も『私、プロレスの味方です』で触れてはいるのですが、表面を()でるようにしか書いていなくて、それがずっと心の中に、後ろめたさとして残っていました。

 要するに、その試合に対する世間の批判、嘲笑に対抗するための、”言葉の銃弾”が装填(そうてん)されていなかったのですね。もしくは、あの試合を批判しようとする世間的な部分が、もしかしたら私の中にもあって、批判に真っ向から対抗する感覚を持ちえていなかったのかもしれません。

 『私、プロレスの味方です』は、サラリーマンの時に書いたもので、サラリーマンとして書いたのなら、それでよかったのですが、プロの物書きとなって振り返ると、書き残したことが大いに気になる、やはり直視すべきだと思ったのです。

――著書の中で、この本を書く遠因となった出来事として、1995年(平成7年)に平壌で開催された、猪木さんによる「平和のための平壌国際スポーツ文化祭典」に村松さんが同行されたことを挙げていらっしゃいます。

村松 あの試合の1年後に、イノキはアリの結婚式に招待されているわけですね。そして、1990年(平成2年)の湾岸危機に際して、2人はともにイラクに赴き、人質解放に一役買っています。そして、平壌でのイベント。「世紀の凡戦」と両者が酷評された試合のあと、2人の絆がずっと結ばれたままでいるわけですよ。そうした2人の絆を平壌で目の当たりにできたことが、執筆動機の芽生えとしてあったのかもしれませんね。

 平壌のイベント当時でも、アリはパーキンソン病がかなり進行していて、体調は芳しくありませんでした。それでも、彼の人気の源というか、彼の持つ天性のセンスのようなものは、十分に感じることができました。私は元々、アリのファンでもあり、そうした姿を見て、彼のことを洗い直してみようと思いました。そして、2016年(平成28年)6月にアリが74歳で亡くなったことで、ようやく重い腰を上げたということです。

同じように消化不良だった力道山・木村戦

――著書の第1章は、「イノキ前史としての力道山時代」と題し、力道山と木村政彦との遺恨試合を取り上げていらっしゃいます。この試合も、猪木・アリ戦と同じように、その試合展開が不可解なことから、世間から厳しく批判された試合です。両方の試合を、生で観戦した人はそうはいないのでは?

村松 ま、力道山・木村戦を生で見た人は今日あまりいないでしょうね。そして、いずれも消化不良な試合ですよね。

村松友視さん(高梨義之撮影)
村松友視さん(高梨義之撮影)

 当時、私は中学1年生で、力道山ファンの大人たちが、試合に対する不安とか、中途半端なつぶやきなどを交わしながら、会場から出ていく渦の中にいて、自分の考えを頭の中にくっきりと思い浮かべることはできないでいました。

 当時、私が置かれていた家庭環境は一種特殊で、ふだんは祖母と静岡県の清水に住んでいて、夏休みとかに別の女性と暮らしている祖父のところに泊まりに行くわけですよ。実際は祖父母なのですが、戸籍上は父母なのです。そうした環境下にある子どもだから、物事の本質を聞きただすようなことをしないで、雰囲気に浸るということに慣れていました。

 ですから、力道山・木村戦を現場で観戦しても、自分の中で力道山ファンとして、試合内容をたどり直すことはあっても、周囲の人と話題にするようなことはありませんでした。

――力道山の晩年の時代の日本プロレスもそうでしたが、力道山が1963年(昭和38年)12月に暴漢に刺された傷が元で亡くなってから、日本のプロレスがさらに、村松さんの言う「プロレス内プロレス」に向かっていくことが、著書の中で指摘されています。

村松 要するに、「プロレスというのは、ああいうものだ」という、世間のものの見方が、ますます濃くなっていった時期ですよね。それがために、逆に、自分が接点を持ったプロレスというものを隠微に大事にしようという感覚が生まれたのかもしれません。

 当時は「婦人公論」の編集部にいて、職場ではプロレスの話ができる雰囲気ではありませんでした。その頃、伊丹十三さんと親しいつき合いをしていて、彼の家によく出入りしていたのですが、彼ほどプロレスの価値観と合わない人はいないわけですよ。

 それで、伊丹さんが話の途中でトイレに立っている間に、テレビをつけプロレス中継を流しておくんです。伊丹さんが帰ってきて話をするのを、うなずいているようなふりをして、斜めうしろにあるテレビをちらちら見たりしました。当時のプロレスそのものには以前ほど魅力を感じてはいなかったものの、なんだか押さえておきたいとう気持ちがあったのでしょうね。人ごとでなくて、物事の脇の方に置いておいても確認はしておきたい。

 だから、プロレスファンは、一度夢中になってから、ぱっと卒業する人が多いのですが、僕の場合はずっと卒業しないままできてしまったという感じです。

猪木登場で強まるプロレスへの隠微さ

――そうした時に、アントニオ猪木というプロレスラーが村松さんの目の前に現れます。最初、どのような印象を抱かれましたか?

村松 東京スポーツなどで紹介される姿形が、いままでのどの新人より、飛びぬけて頼もしいという感じでした。

 とはいえ、リトル・トーキョーというリングネームでアメリカで試合をしたり、凱旋帰国後、ジャイアント馬場とBI砲を組んで試合をしたりする姿を見てみると、やはり猪木さんなりの役割を果たさないといけないために、どうしても団体におけるイノキの「位」が見えてくるのですね。トップではないわけですよ。これが期待はずれで、そこに物足りないものを感じていました。

 それが、東京プロレスの旗揚げから日本プロレス復帰、会社乗っ取りを企てたとして日本プロレスを追放され、新日本プロレスを旗揚げするという一連の流れに応じて、イノキに対する期待感がどんどん濃くなっていくわけです。一方で、プロレスの話をしても通じない職場にいる。どんどん隠微さが強まって、楽しみも募ってくる。この楽しみを中心にプロレスを極秘裏に見てみようという気持ちが生まれてきましたね。

――新日本旗揚げ当時は、ルー・テーズ、カール・ゴッチのプロレスを手本としたストロングスタイルを標榜(ひょうぼう)する一方で、サーベルを振り回し、凶暴な顔つきで相手やファンを威嚇するタイガー・ジェット・シンをライバルに抜擢(ばってき)し、いわゆる「過激なプロレス」路線も打ち出してもいました。

村松 それがB級的に見えたりして、より味方のしがいがあるという気持ちが濃くなりましたね。当時は、明らかにジャイアント馬場の全日本プロレスが主流で、アントニオ猪木の新日は異端でしたよね。アメリカのメジャー団体とのパイプの太さがまったく違って、猪木さんは有力レスラーを招へいできませんでしたから。

プロボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリとプロレスラー・アントニオ猪木の「格闘技世界一決定戦」試合会場となった日本武道館(1976年6月26日撮影)
プロボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリとプロレスラー・アントニオ猪木の「格闘技世界一決定戦」試合会場となった日本武道館(1976年6月26日撮影)

――村松さんの言う「過激なプロレス」の最たるものが、猪木さんの打ち出した異種格闘技路線だと思います。その初戦として、1976年2月に元柔道五輪金メダリストのウィレム・ルスカをバックドロップ3連発で沈めたイノキは、当時ボクシングヘビー級チャンピオンだったモハメド・アリと対戦します。

 村松さんは、会場で試合を観戦してから40年後、アリが亡くなった後のテレビの追悼特別番組で、この試合の映像を初めて見直したわけですね。

村松 見直してみて、改めてすごい試合だなと思いました。当時はイノキのファンとして見ているわけですよ。ですから、イノキの立場になって、「危ない、うまくいっていない」と思いながら見ていました。ところが、年月をおいて第三者の立場で見直してみると、見逃していた箇所があまりに多くてびっくりしました。

一切プロレスラーになっていないイノキ

――この試合においては、あくまでエキシビションとしてリングに立とうとしたアリ側に対して、猪木さんはルールに(のっと)った格闘技として戦おうとしたため、うまく両者がかみ合わなかったという見方が定説となっています。

村松 特番では、3月に行われたニューヨークでの調印式から試合までの様子が伝えられていますが、一貫してイノキの佇まいはエキシビションでないですよね。プロレス的な要素は排除して、格闘技として戦う決意が見てとれます。

プロボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリとプロレスラー・アントニオ猪木の「格闘技世界一決定戦」で、猪木を挑発するアリ(日本武道館で、1976年6月26日撮影)
プロボクシング世界ヘビー級チャンピオンのモハメド・アリとプロレスラー・アントニオ猪木の「格闘技世界一決定戦」で、猪木を挑発するアリ(日本武道館で、1976年6月26日撮影)

 一方のアリは、プロレスラー的な振る舞いに終始しています。試合が始まっても、1~2ラウンドあたりまでは、一緒にプロレスをしようと誘いかけている気配があります。アリの頭の中にあるプロレスは、ものすごく古い時代のショーマンプロレスで、その延長戦上でプロレスラー・イノキを見ている。プロレスが好きだと言いながら、プロレスラーへの上から目線の蔑視が感じられます。一切プロレスラーになっていないイノキとの対比が、とてもおもしろかったですね。

――イノキに勝算はあったのでしょうか?

村松 試合の前に後楽園ホールで互いのスパーリングを披露し合ったのですが、その時にイノキは藤原(喜明)と木戸(修)を相手に、ものすごいキックを蹴りこみ、アリ側が立ったままでのキック禁止を言い出すきっかけになります。あの蹴りは、すごかったですね。

 イノキには、プロレスラーがボクサーより強いということを証明し、プロレスに対する蔑視を打ち破ってやろうという気持ちがずっとあったのだろうと思います。それがあのスパーリングの激しい蹴りになって表れたのではないでしょうか。

 イノキには、自分の瞬発力とか反発力に自信があるので、15ラウンドのどこかで、きっと捕まえられるという自信はあったと思います。アリはアリで、15ラウンドの中で1発もパンチが当たらないということは、あり得ないと思っている。お互いに、試合の前は倒せると思っていたと思います。

――試合のヤマ場は、6ラウンドに訪れます。アリがイノキの両足を抱え、バランスを崩して倒れた上にイノキが乗り、右肘をアリの(あご)に入れます。さらにもう一発を肘を入れようとしたものの思いとどまります。なぜイノキは思いとどまったのでしょう?

村松 肘を入れていれば、アリの反則勝ちで試合は終わっていたでしょう。私はプロレスファンなので、たとえ反則であっても、肘を入れて相手を倒してほしいと思いましたが、それで試合が終わった後、どうなるかということですよね。

 なぜイノキは肘を入れなかったのか、いまでも不思議な感じは消えないのですが、私が思うに、これは2人のバックグラウンドが消えてしまった戦いだったのではないでしょうか。それぞれプロレスラー、ボクサーといったバックグラウンドを背負い戦ったという言われ方がよくされますが、私は試合のある時点で、6ラウンドあたりで消えてしまったと思うのです。

 イノキはプロレスラーとして、相手の体を破壊しようとする気持ちが消えてしまった。アリにしても、不思議なんですよ。一度、肘打ちが入ったことを理由に、はげしく反則を主張して試合を止めてもよかったのに、アピールの度合いが弱いのです。そして、試合を続ける。のちにイノキは私との対談で、その時の気持ちについて、「2人にしかわからない感じ」と表現しましたが、そうした感じがのちの2人の絆を生むことになったのかもしれません。

プロレス以外の世界で「異端の光の登場に期待したい」

――3年前にこの試合のDVDが販売され、それまで断片的でしか見ることができなかった試合のすべてを見ることができるようになり、その内容が高く再評価されています。

村松友視さん(高梨義之撮影)
村松友視さん(高梨義之撮影)

村松 イノキの異種格闘技路線から、UWFをはじめリングスやPRIDEなど、様々なスタイルの格闘技の興行が行われました。ファンがそうした試合を見ることで、格闘技を見る目が肥えてきて、猪木・アリ戦が再評価されることはあり得るのではないかとは思っていました。

 実際、いま見直してみても、色あせるところがありません。あの試合で登場してくるレフェリーのマイク・ラベールも、アリのマネジャーのフレッド・ブラッシー、イノキのセコンドに付いたカール・ゴッチらはみんなプロレス的な役割を与えられていて、そのように目に映ります。

 ところが、アリはどんなにプロレス的に振る舞っても、その風格は変わりません。そしてイノキは、風格においてアリと見比べても、少しも見劣りしていません。瑞々(みずみず)しい、とても澄んだ表情をしている。格闘技をやっている人で、あのような表情をしている人は、あまり見たことがありません。ワインでいう、ビンテージのような試合だと思います。

――翻って、いまのプロレスはどう見ていらっしゃるのでしょうか?

村松 イノキが、不思議な表面張力の破り方をしたものですから、かえって一般の方の目に触れるようなプロレスに目がいかなくなってしまいましたね。突破力がないというか、一般紙で取り上げられることもなくなりました。

 猪木・アリ戦は一般紙でも取り上げられましたが、プロレスへの差別感を伴ったものでした。ただ、それはそれで、世間の常識の殻を破ったという意味で、意義があるわけですよ。いまは、そういう突出する試合は見当たりません。日本人レスラーのプロレスの本場アメリカでの活躍は多くなりましたが、これも業界内の話で、プロレス内プロレスの話題でしかありません。1970年代から延々と続く安定の時代において、異端の光はなかなか生まれないのでしょうね。それが生まれたら、すごいことになると思うのですが。

 ですから、プロレスについて、なにかよい切り口が見つかれば、また書くことがあるかもしれませんが、そうでないと書く予定はありません。大衆演劇での梅沢富美男さんや、アングラ演劇の唐十郎さん、スーパー歌舞伎の市川猿之助さん(現猿翁)のように、プロレス的な過激さ、前衛さを持った人が、プロレスの世界以外から今後突出してくるケースはあるかもしれない。そうした異端の光の登場に期待したいですね。

――ありがとうございました。

村松友視(むらまつ・ともみ)
 1940年、東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒。中央公論社入社後、文芸誌「海」の編集者を経て、80年『私、プロレスの味方です』で作家デビュー。82年『時代屋の女房』で直木賞、97年『鎌倉のおばさん』で泉鏡花文学賞をそれぞれ受賞。主な著書として、『アブサン物語』『淳之介流』『幸田文のマッチ箱』『帝国ホテルの不思議』『老人の極意』『大人の極意』『北の富士流』など多数。
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