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「毎日ずっと同じゲーム」の苦悩越え、パリへと歩む…東京オリンピック逃した銅メダリスト・荒井広宙

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 2016年リオデジャネイロオリンピックの男子50キロ競歩銅メダリスト・荒井広宙(ひろおき)(富士通)が、21年4月11日の日本選手権50キロ競歩で優勝を逃し、東京五輪出場の望みを絶たれた。それでも、32歳のベテランは日本選手権後、3年後のパリ五輪挑戦を迷わず宣言。失いかけた競技意欲を取り戻すまで、苦しい道のりを歩んできただけに、まだまだ立ち止まらない。(運動部・西口大地)

東京オリンピックの出場権を逃した日本選手権直後に肩を落とす競歩・荒井広宙(左。2021年4月11日・石川県輪島市で)、銅メダルに輝いたリオデジャネイロ五輪男子50キロ競歩でゴールする荒井(右。16年8月19日)
東京オリンピックの出場権を逃した日本選手権直後に肩を落とす競歩・荒井広宙(左。2021年4月11日・石川県輪島市で)、銅メダルに輝いたリオデジャネイロ五輪男子50キロ競歩でゴールする荒井(右。16年8月19日)

日本選手権で絶たれた東京への道、覚悟していた?

 日本選手権の前日、東京オリンピック男子50キロ代表最後の1枠を争う有力選手たちが集まった記者会見。「目指す結果を残すために、一番重要なポイントは?」という記者の問いかけに、荒井はこう答えた。「やはり、準備というのが一番大事。もう明日どう歩こうが、すでに結果は決まっていると思う」

 荒井が常々口にしてきた信条ではある。だが、表情と口調には、どこか悲壮なものが感じられた。言葉をそのまま受け取るならば、その時点で翌日の結末を、ある程度覚悟していたのかもしれない。

 レース序盤の12キロ過ぎ、藤沢勇(ALSOK)が一気にペースを上げた段階で、荒井は先頭集団から遅れた。「1キロ4分20秒くらいを上限にレースを進め、後半動くようになってきたら上げていきたい」というプランだったが、力をつけたライバルたちは1キロ4分一けたのラップを何度も刻む高速レースを展開した。差はみるみる広がった。

 終わってみれば、優勝した丸尾知司(愛知製鋼)から11分29秒遅れの7位。所属チームの垣根を越えて合宿などで練習を共にし、背中で導いてきた後輩たちが上位に入った。厳しいレース結果になってしまった。

21年の日本選手権で懸命に進む荒井(中央のゼッケン4)
21年の日本選手権で懸命に進む荒井(中央のゼッケン4)

世界陸上で銀、世界チーム選手権で金…そして「燃え尽き」

 荒井には若手時代、2012年ロンドン五輪の代表入りを逃した経験がある。気負いから練習過多に陥って迎えた代表選考会で、不完全燃焼に終わった。雪辱を果たしたい一心で4年間を全力で過ごし、念願かなって初出場したオリンピックがリオだった。銅メダル獲得の快挙を「自分が想像もしていないような夢がかなった」と振り返る。

 「良くも悪くも、そこで気持ちに一区切りついてしまった」

 歓喜のメダル獲得から約11か月後の2017年7月。世界選手権ロンドン大会に向けた日本代表の合宿中、荒井はふと心中の変化を明かした。「メダリストに限らず、長い間プロスポーツの世界で活躍される方が、どうやってモチベーションや技術的なものを維持しているのか、すごく興味が出てきていますね。イチロー選手とか、あの年齢まで、どうして第一線で戦えるんだろう」。当時、本人が明確に認めることはなかったものの、リオ後から徐々に「燃え尽き症候群」に近い思いが膨らんでいるように感じられた。

 海外のライバルたちに目を向ければ、リオ五輪の金、銀メダリストは、いったん競技と距離を置いて充電期間を設けていた。その選択肢は、荒井の頭にもよぎったという。だが、躍進著しい日本競歩界のエースという立場が、立ち止まることを許さなかった。17年世界選手権に出場すると、日本競歩勢で過去最高の銀メダルを獲得。18年の世界競歩チーム選手権では個人、団体の両方で、日本に初の金メダルをもたらした。ただ、周囲の期待に応え続けた快進撃の裏側で、荒井の悩みは人知れず深まっていた。

 「ずっと同じゲームを、毎日毎日やっているような感じ。何回もクリアしたら、次にこのイベントがあるとか、先がわかってしまうじゃないですか。経験を重ねるのはいい部分も多い反面……。心にブレーキがかかるようになった」。心にブレーキ――。若い頃は競技に対して無心でワクワクできていたのに、厳しいトレーニングや代表選考会の緊張感に立ち向かう気持ちがやや後ろ向きになっていたという意味合いの言葉だ。

 この頃は練習の苦しさばかりに目が向きがちになり、食事や睡眠などの生活面にも甘さが出ていたと、のちに本人も認めている。地道な取り組みを淡々と続けられるのが荒井の強みだ。自分自身にほころびが生じた結果、3年ぶりの自己ベスト更新に挑むはずだった18年10月の全日本競歩高畠大会を、コンディション不良で欠場した。

世界選手権で2位に入って両腕を広げて喜ぶ荒井(上。2017年8月13日・ロンドンで)、リオ五輪後に出身地で祝賀パレードに参加した荒井(下。16年9月11日・長野県小布施町で)
世界選手権で2位に入って両腕を広げて喜ぶ荒井(上。2017年8月13日・ロンドンで)、リオ五輪後に出身地で祝賀パレードに参加した荒井(下。16年9月11日・長野県小布施町で)

新天地・富士通で原点回帰

 閉塞感を打開するため、荒井は大きな決断に踏み切る。2019年1月末、6年近く所属した自衛隊を辞め、富士通に新天地を求めた。競歩選手を抱える国内実業団のうちで1、2を争う強豪チーム間での、異例の移籍だった。

 最大の理由は、競歩日本代表の強化を長年先導する富士通の今村文男コーチに直接指導を仰ぐためだった。「前の職場(自衛隊)からもいいサポートを受け、パーフェクトな競技環境でやらせていただいていた。ただ、僕にあと何が足りないかといったら、やはり指導者の部分だった」

 今村コーチは、日々の練習メニューを提示する一方、練習の時間や方向性などについては、まず第一に選手自身がどうしたいかを考えさせる指導スタイルだ。

 加入当初は、男子20キロ世界記録保持者の鈴木雄介ら同僚にならい、短い準備期間でスピード練習の質を上げる練習方法を取り入れてみた。すると、ほどなくして恥骨炎を発症した。「背伸びをした練習で故障したことで、自分と向き合えた。できる練習を積み重ねるのが、やっぱり僕のスタイルだと、原点にかえることができた」と語る。

 自主性が日々問われる環境に身を置くうち、リオ五輪後に背負っていた競技に対する「義務感」のようなものが、いつしか消え去っていた。とりわけ昨春の新型コロナウイルス感染拡大による活動制限を経験した後は「東京オリンピックは目標だけど、それ以前に、今は競技をやれていることを楽しんでいる」と、生き生き語るようになった。その姿は、荒井が競技人生の新たなステージに踏み出したことを物語っていた。

32歳は、歩み続ける(20年12月、千葉市内で)
32歳は、歩み続ける(20年12月、千葉市内で)

不屈のウォーカー「てっぺんに立ちたい」

 「家族やライバルたちに支えられているというのもあるが、競歩という競技が、気がつけばかけがえのないものになっているなと、すごく感じています。本当にもう、なくてはならないというか、『荒井広宙』イコール『競歩』みたいな。それに近いものがある」

 この言葉は、2021年4月の日本選手権の前日記者会見で、日々の練習を積み重ねるうえでの心の支えは何かを問われて発したものだ。新天地を得て、リフレッシュした心で臨んだ日本選手権だったのは間違いない。だが、前述した通り、このレースの結果、東京五輪への挑戦は幕を閉じた。終了後の記者会見では「この2年ほど、夏場の大事な時期に(ケガで)練習ができず、影響が出てしまったかな」と敗因を淡々と総括した。日本の第一人者らしい力を取り戻すには、もう少し時間が必要だったのかもしれない。

 長野・中野実高(現中野立志館高)2年で長距離走から競歩に転向してから、すでに17年近い月日が過ぎている。記者会見で、今後の競技人生について問われた荒井は、吹っ切れたように言葉を連ねた。

 「来年、その先の世界選手権、オリンピックもある。所属先が競技することを許してくれる限りは、このままでは終わりたくない。もう一回復活というか、てっぺんに立ちたいなとすごく思っています」

 不屈のウォーカーの第2章は、まだ始まったばかりだ。

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2032552 0 東京オリンピック 2021/05/06 15:00:00 2021/05/06 15:48:19 2021/05/06 15:48:19 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/04/20210429-OYT1I50009-T.jpg?type=thumbnail
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