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キンと鋭い音が球場に響いた。打球は右中間を抜けた。その行方を目で追った国学院久我山ナインは、グラウンドに力なく膝をついた。
1998年7月26日、神宮球場で開かれた全国高校野球選手権・西東京大会の準決勝。桜美林を相手に9―7とリードして迎えた延長十一回裏、国学院久我山は一死から連打を浴びサヨナラ負けを喫した。
甲子園の夢をかけた球児たちの夏の一幕を報じた翌日の読売新聞都民版に、一人の少女の小さな記事が載った。
国学院久我山の唯一の女子選手だった田村
高校野球の規定で一度も公式戦に出られなかった少女。彼女が将来、仲間の夢の続きを実現するのだと言ったら、その時、誰が信じただろう――。(社会部 谷所みさき)
監督で日本一つかむ
今年8月2日の甲子園球場(兵庫県西宮市)。晴れ渡る空の下、田村知佳さん(42)はグラウンドに足を踏み入れた。視線の先には、夏の日差しに輝く黒い土と緑の芝、そして白球を追う少女たち。
第26回全国高校女子硬式野球選手権大会で、田村さんが監督として率いる横浜隼人(神奈川)は決勝進出を果たし、開志学園(新潟)を相手に迎えていた。
仰ぎ見るスタンドで、大勢の生徒や教員、保護者、OGが声援を送っていた。この日のために駆け付けてくれたチアリーダーやブラスバンド部の姿もあった。
「本当に甲子園にいるんだ」。実感をかみしめた。神宮球場での涙から24回目の夏。教え子たちと一緒にたどり着いた夢の舞台だった。
野球を始めたのは、父の
大の野球好きで、プロ野球・ロッテオリオンズ(当時)の元選手。実家の米屋を継ぎ、東京都内で地元少年野球チーム「目黒ピータース」を指導していた。
野球ができる男の子が欲しかった登志親さんは、長女の田村さんを暇さえあれば一緒に連れて行った。遊び道具はプラスチックのボールとバット。小学校に上がると、自然と父のチームで男子に交じってプレーした。
自慢の娘だった。男子より背が高く、河川敷のグラウンドで一塁を守り、ホームランをかっ飛ばした。「そのへんの男の子より、知佳の方が全然上手だったよね」。写真に目を細める母の純子さん(69)に、登志親さんもうれしそうに相づちを打つ。