お袋に手を引かれ、火の海500m「生きるために逃げた」…毒蝮三太夫さん[戦後76年 刻むつなぐ]

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 その夜、当時9歳だった俺はお袋のひさと、焼夷弾で炎を上げる家々を避けつつ、坂道をじりじりと進んだ。風上を目指したので、すさまじい熱風や火の粉が前から吹きつけ、目が焼けるように痛い。

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 「かあちゃん。こんなに苦しいんなら、死んだ方がましだ」――。俺は叫んだ。

 すると、お袋は声を張り上げて俺をしかった。「死ぬために逃げてんじゃない。生きるために逃げるんだ」と。そして、水中メガネを手渡してきた。プール遊びで愛用していたセルロイドのメガネだ。目が楽になり、ぐずるのをやめた。さあ、前進だ。

 空襲が始まったのは、1945年5月24日の午前1時半ごろ。俺が住んでいた東京・荏原区(現品川区)などを、500機もの米戦略爆撃機B29が襲ったそうだ。

 空襲警報のサイレンで俺はとびおきた。シュルシュルと嫌な音とともに焼夷弾が落ちてくる。バケツリレーに加わったが、火勢は増すばかりだ。

 もう逃げるしかない。お袋は俺の手を引き、高台の空き地を目指した。距離は500メートルほどだが、長く感じたね。空き地から見上げた東京の空は真っ赤で、俺の家があったあたりは焼け野原になっていた。翌朝、煙がくすぶる空襲跡を歩くと、首や手のない死体がごろごろしていた。

 「俺たちは兵隊じゃない。なんで焼夷弾が落っこってくるんだろう」。そんな気持ちが何度もわいたよ。昔の戦争は武器を持っている者同士が戦っただろ。でも、空襲でやっつけられたのは無抵抗の女性や年寄り、子どもだ。卑怯なやり方だなと、子ども心に思ったね。

 年月を経るほどに、「あれは卑劣な殺人だ」との思いが強まっている。人間は愚かだよ。あの後も世界のどこかで無残な戦争を続けている。

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