完了しました
78年目の終戦記念日が近づいた。三重県伊賀市治田、市遺族会長
写真でしか知らない父
陸軍少尉で軍医だった英好さんは、1945年6月20日、現在の沖縄県糸満市真栄平で亡くなった。当時2歳の治多さんは、写真でしか父を知らない。人づてに聞くと、花垣村治田(当時)の開業医だった英好さんは、愛犬を連れ、自転車をこいで往診に向かう姿が村民に慕われたという。「お父さんに命を救われた」と言われ、誇らしく思ったことが何度もあった。
英好さんは44年7月に召集され、陸軍歩兵連隊に入隊。独立工兵大隊に配属され、沖縄に赴いた。45年3月から始まった米軍との地上戦で、英好さんの隊は多数の島民とともに、沖縄本島の南端に追い詰められ、最期を迎えた。
20回以上沖縄を訪問
「特別な地」という沖縄を、治多さんは学生時代から20回以上、遺骨収集や慰霊行事などで訪問してきた。父の遺骨は見つからず、亡くなった時の詳しい状況は今もわからない。ただ、92年12月、政府主催の沖縄慰霊友好親善訪問に参加し、真栄平の慰霊碑「南北の塔」そばの自然
「米軍が迫っても、父は暗いガマの中で、日夜懸命に負傷兵や島民の治療をしていたはず。どこか他の場所にいたとは考えられない」。戦死は、沖縄戦が終結する3日前だった。
治多さんは上野高校から大阪経済大に進み、日生学園(現・桜丘高校)の社会科・商業科教諭を95年まで務めた。戦後、農業で生計を立て、治多さんと二つ上の姉を女手一つで育てた母の
市遺族会長を引き受けた21年以降、ロシアによるウクライナ侵略、北朝鮮のミサイル発射、中国の領海侵犯と、世界情勢は緊迫化している。「敗色濃厚な中、父は死を覚悟して、負傷者の命を救うことだけを考えていたと思う。父たちの思いを後世に伝えていくことは私たち遺族の使命だ」。言葉に力を込めた。