沖縄戦終結の3日前に戦死、軍医だった父の思いを継ぐ遺族…「平和の尊さ語らねば」

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沖縄戦で散った父・英好さんの遺影を手に「遺族として戦争の悲惨さを語っていきたい」と話す治多さん(三重県伊賀市治田の自宅で)
沖縄戦で散った父・英好さんの遺影を手に「遺族として戦争の悲惨さを語っていきたい」と話す治多さん(三重県伊賀市治田の自宅で)

 78年目の終戦記念日が近づいた。三重県伊賀市治田、市遺族会長 治多裕益はったゆうえき さん(80)は、沖縄で戦死した父、 英好ひでよし さん(享年41)の写真を見つめ、「戦争を知る世代がいなくなっていく今こそ、肉親を失った私たちが戦争の悲惨さ、平和の尊さを語らなければ」との思いを強くしている。(山本哲生)

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写真でしか知らない父

 陸軍少尉で軍医だった英好さんは、1945年6月20日、現在の沖縄県糸満市真栄平で亡くなった。当時2歳の治多さんは、写真でしか父を知らない。人づてに聞くと、花垣村治田(当時)の開業医だった英好さんは、愛犬を連れ、自転車をこいで往診に向かう姿が村民に慕われたという。「お父さんに命を救われた」と言われ、誇らしく思ったことが何度もあった。

 英好さんは44年7月に召集され、陸軍歩兵連隊に入隊。独立工兵大隊に配属され、沖縄に赴いた。45年3月から始まった米軍との地上戦で、英好さんの隊は多数の島民とともに、沖縄本島の南端に追い詰められ、最期を迎えた。

20回以上沖縄を訪問

 「特別な地」という沖縄を、治多さんは学生時代から20回以上、遺骨収集や慰霊行事などで訪問してきた。父の遺骨は見つからず、亡くなった時の詳しい状況は今もわからない。ただ、92年12月、政府主催の沖縄慰霊友好親善訪問に参加し、真栄平の慰霊碑「南北の塔」そばの自然 ごう 「ガマ」を見たとき、「父はこの中で亡くなった」と確信した。

 「米軍が迫っても、父は暗いガマの中で、日夜懸命に負傷兵や島民の治療をしていたはず。どこか他の場所にいたとは考えられない」。戦死は、沖縄戦が終結する3日前だった。

 治多さんは上野高校から大阪経済大に進み、日生学園(現・桜丘高校)の社会科・商業科教諭を95年まで務めた。戦後、農業で生計を立て、治多さんと二つ上の姉を女手一つで育てた母の こう さんは2010年、89歳でこの世を去った。「母は裁縫が得意で、古布で服を手作りしてくれた。当時は友だちの既製服がうらやましかったが、今では母に感謝しかない」と懐かしむ。

 市遺族会長を引き受けた21年以降、ロシアによるウクライナ侵略、北朝鮮のミサイル発射、中国の領海侵犯と、世界情勢は緊迫化している。「敗色濃厚な中、父は死を覚悟して、負傷者の命を救うことだけを考えていたと思う。父たちの思いを後世に伝えていくことは私たち遺族の使命だ」。言葉に力を込めた。

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