「夏子の酒」連載第1回のカットを前にほほ笑む尾瀬さん

尾瀬あきらさん「夏子の酒」30年、今だから話せること(上)

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 お酒を愛する人々の物語をお届けします。

フランスで単行本

 東京でコピーライター修業をしていた佐伯夏子が、古里・新潟の酒蔵に戻り、兄の遺志を継ぎ、幻の米を復活させて酒にする。漫画「夏子の酒」は、バブル経済真っ盛りの1988年から91年にかけて雑誌に連載された。流行のグルメ志向と一線を画し、伝統産業の酒蔵を舞台に造り手の情熱を描いた作品は発行部数385万部の大ヒットとなり、テレビドラマ化もされた。この作品で日本酒に興味を持った人も少なくない。台湾や韓国に続き、ワイン大国のフランスでも2019年から翻訳版の発行が始まり、来年1月開催の欧州最大級の漫画イベント「アングレーム国際漫画祭」にノミネートされた。日本酒漫画の名作はいかに誕生したのか、そこに込められたメッセージとは――。作者の尾瀬あきらさん(74)を訪ねた。
フランス語版「夏子の酒」

初の青年雑誌

 「日本酒造りの現場である『酒蔵」を舞台に作品を執筆してみませんか』。少年漫画や少女漫画の世界で活躍していた尾瀬さんに、青年漫画雑誌「モーニング」編集部から依頼があったのが、「夏子の酒」誕生の発端。「少年・少女漫画はある程度、自分の経験で描ける世界でしたが、初めてのおとな向けの漫画。しかも酒蔵は未知の世界だから、ゼロから取材しながら書いたんです」。尾瀬さんは当時を振り返る。
 飲むのは好きだったが、知識は全くなかった尾瀬さんは日本酒の書籍を何冊か読み、「ほんものの日本酒選び」などの著書があるノンフィクション作家・稲垣真美さんに酒蔵へ取材に行きたいと相談した。たまたま酒蔵訪問の予定があるというので、同行させてもらうことに。兵庫、京都、富山、新潟と4か所の酒蔵を取材した。最後に訪れた新潟県の久須美酒造で、倒伏しやすいことなどから姿を消した酒米品種「亀の尾」を、1500粒の種もみから3年がかりで復活させたという話を聞く。

酒蔵に持ち込んだ異質な存在

 「これはロマンがある。ひょっとしていけるんじゃないか」。尾瀬さんは感じた。戦後、豊かになった日本人の食生活は米離れが進み、減反政策で米の作付けは制限された。農家の経営難と後継者不足、海外からの輸入自由化圧力など、農業現場は逆風にさらされていた。そんな時代だからこそ、米の大切さを描けたらいい。農薬をなるべく使わない農業や、醸造用アルコールを添加しない純米酒造りへの取り組みも始まっていた。幻の品種復活という物語には、様々な意味を込められそうだった。
酒蔵に異質な存在を持ち込みたかったと尾瀬さん
 でも、酒蔵の男性が主人公では、ただの仕事になってしまう。そこで抜群の利き酒能力を持つものの、酒造りは素人という夏子が、亡き兄への思いという家族愛から酒造りに励む設定にした。女性はかつて酒蔵に入ることを禁じられていた。酒蔵に異質な存在を持ち込むことで、酒蔵やそこで働く男たちとの対比を際立たせたのだ。
 東京で恋に破れ、戻ってきた、ちょっと暗めの「冴子」は夏子の小学校の同窓生。明るくて前向きな夏子と対極の冴子を登場させることで、両者の存在感を増す効果を狙った演出。テレビドラマでは、夏子を和久井映見、冴子を松下由樹が演じ、陽と陰のコントラストが際立った。「夏子の酒」以外もそうだが、尾瀬さんの作品には極悪人も超人も登場しない。登場人物の多くは、時代に翻弄ほんろうされながらも、ひたむきに生きる無名の人たち。立場や考え方の違いから、善人同士が時に争い、互いに影響を与えながら、新しい関係を築いていく。

夏子の酒で伝えたかったのは

 日本酒は同じ造り手が同じ材料、製法で造ったとしても年によって出来は違う。気候や原料の米の出来不出来、微生物の働き、人知を超えた様々な要因に左右される。値段が高くてもおいしいとは言い切れないし、安くてもまずいとは限らない。それは難しさでもあるが、面白さでもある。
 広告費をかければ、それに見合った効果をあげないといけない。たとえおいしいと感じない酒でも、おいしいと宣伝しなければならないことがある。費用対効果が問われる広告業界で働いていた夏子が仕事をやめ、飛び込んだ酒蔵は数字で計りきれない価値がまだ残る世界だった。尾瀬さんは、「そんな世界が現代にもまだ残っているということを伝えたかった」と言う。
 筆者は酒蔵の取材で30年ぶりに漫画「夏子の酒」を読み返した。日本酒の知識などまったくなかった大学生の頃、父が買ってきた単行本を読んで以来だったが、酒造りや酒米作りの過程が躍動感にあふれる筆致で描かれ、全く古さを感じない。ものづくりへの情熱や、いいものをつくることと経済的な利益をどう整合させるかといった、時代を超えた問いかけが底流にある。
385万部を売り上げた「夏子の酒」
 尾瀬さんは都会育ち。取材を通して初めて触れた、厳しい寒さの中で酒造りに励む蔵人たちの姿、酒蔵を包む田園風景の美しさに感動し、これをそのまま絵にしたいと感じた。「夏子の酒」にラブシーンはほとんど出てこないが、尾瀬さんは、夏子がお猪口ちょこにそっと口を付け、酒を利く場面を、キスシーンと同じような思いで描いた。まるで、お酒を飲むことが、お酒への愛を確かめる行為であるように。「それまでずいぶんと乱暴に飲んできましたが、造り手の情熱にふれ、お酒は大事に飲まなければいけないと思うようになりました」。お酒への愛情。それが尾瀬さんの最も伝えたかったことだ。(クロスメディア部 小坂 剛)
尾瀬あきら(おぜ・あきら)】1947年京都府生まれ。都立の工業高校時代に石ノ森章太郎の「マンガ家入門」を読んで感激し、漫画家を志す。あさのりじ、久松文雄、石ノ森章太郎のアシスタントを経て69年にメジャーデビュー。少年少女雑誌を中心に作品を発表し、86年に「初恋スキャンダル」「とべ!人類Ⅱ」で小学館漫画賞を受賞。88年から91年まで青年漫画雑誌「モーニング」で「夏子の酒」を連載。同作は94年に和久井映見主演でテレビドラマ化される。日本酒をテーマにした作品に「夏子の酒」の続編「奈津の蔵」や、酒蔵と酒屋、飲食店のつながりを描いた「蔵人(クロード)」がある。かん酒通で、著書「知識ゼロからの日本酒入門」では甲羅酒やショウガ酒、シイタケ酒、黒豆酒などユニークな燗酒も紹介している。

<筆者紹介>
小坂剛(こさか・たけし) 読売新聞クロスメディア部次長。秋田支局、社会部、メディア局などを経て現職。お酒と食べ物に好き嫌いなし。著書に「酒場天国イギリス」「あの人と、『酒都』放浪」(いずれも中央公論新社)。酒文化の紹介がライフワーク。

→「尾瀬あきらさん「夏子の酒」30年、今だから話せること(下)」
←前編「夏子の酒」の続き、日本酒をコメからつくるとはどういうことなのか?(上)
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