作家癒やした冬の日差し…牛窓(うしまど)(岡山県瀬戸内市)

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鹿か忍しのの峠を越えて牛窓に入ると途端に気温が上あがるという――――井伏鱒二「備前牛窓」(1975年)

昼下がり、オリーブの木々の向こう、冬の陽光に海と島とが光り輝いていた(瀬戸内市の阿弥陀山から)
昼下がり、オリーブの木々の向こう、冬の陽光に海と島とが光り輝いていた(瀬戸内市の阿弥陀山から)

 御年76歳、ぜんそく持ちの体には東京の寒さですらこたえたのだろう。

自治都市の誇り 息づく…今井町(奈良県橿原〈かしはら〉市)

 1974年の暮れ、作家の井伏鱒二は、晴れの国、岡山の親戚の勧めで瀬戸内の港町、牛窓に転地し、 の地で2か月を過ごした。

 後に雑誌に寄せた紀行には、土地の人たちとの交流を主とするスローライフの様子が淡々と、実に細やかにつづってある。歯医者の待合室の風景、神社でのご隠居とのやりとり、同年代の医師、菅田さん……。

 古くは万葉集に詠まれ、江戸時代には朝鮮通信使を迎えた風待ち、潮待ちの港は、諸処に風情を残す。

 冬の陽光にくるまれ、行きつ戻りつすることが、何よりの良薬だったのかもしれない。

 近世の石積みや藩主が休んだ御茶屋の跡、明治時代の洋館など、確かに、そぞろ歩きが楽しい町並みだ。

 紀行に出てくる新聞取次所は岡崎新太郎さん(70)の祖父が大正時代に始めた。海運の要衝で、港には種々の荷が揚がった。大阪で刷った新聞は当初、海路で運ばれたそうだ。

 店舗跡の部屋に井伏の小説「黒い雨」を映画化した今村昌平監督の色紙を見つけた。89年公開の作品は、牛窓にもセットが組まれ、町の人らがエキストラとなって幾つかの場面が撮影された。

 2人の対談録などに牛窓の文字は見られず、井伏が推したか否か定かでない。 ただ、この撮影時の印象が、監督の心に残ったのは確かなようだ。「カンゾー先生」(98年)のロケ地に再びここを選び、数か月にわたってカメラを回した。

 長年、観光協会で仕事をした石田一成さん(69)が、ロケ誘致のたびに海と並ぶセールスポイントに挙げたのが「空の広さ」だった。「晴れ続きで光の量が多い。照度計の値に監督やスタッフが驚いていたことがあったね」

 その映画の野外結婚式のシーンが印象深いという。「色鮮やかで牛窓じゃないみたい。海外の街と見まがうほどでした」

 自慢の光を体感すべく、 阿弥陀あみだ 山の牛窓オリーブ園展望台から瀬戸の海を眺めた。

 運良く、雲一つない空だ。約30キロ先、香川県の屋島が、びっくりするほどクリアに見える。別方向に淡路島らしき影も。

 遠くエーゲ海に例えられる勝景は点在する島々と、ここならではの の光の 賜物たまもの だったのだと、改めて納得した。

  井伏鱒二 (いぶせ・ますじ) 1898~1993年。広島県生まれ。代表作に「山椒魚」「ジョン万次郎漂流記」など。旅を好み、「取材旅行」など数々の紀行をつづったほか、著名作家の作品を編んだアンソロジー「若き日の旅」がある。本文で紹介した牛窓の元新聞販売店主、岡崎さんの姉は大学の恩師を通じて井伏と顔見知りで、牛窓滞在中に各所を案内したそうだ。父は井伏と酒を酌み交わし、岡崎さんが宴席に呼ばれたこともあったという。雑誌「新潮」に掲載された表題作は「広島風土記」(中公文庫)などに所収。

 文・西井 淳
 写真・田中秀敏

寄港地に映える絶景

 古くから瀬戸内海の寄港地として栄えた牛窓は、種々の古文書にその名が登場する。土地の歴史に詳しい金谷芳寛さん(47)によると15世紀には米や産物を積んだ130隻以上の牛窓の船が兵庫の港に入港していたとの記録があるそうだ。

干潮時に現れる砂州「黒島ヴィーナスロード」。かつては「砂の浮橋」と呼ばれた
干潮時に現れる砂州「黒島ヴィーナスロード」。かつては「砂の浮橋」と呼ばれた

 江戸時代、岡山藩は大名らを迎える接待港として番所や 燈籠とうろう 堂を整え、船大工や船宿など、関連産業が発達した。

龍をかたどった船形のだんじり(牛窓海遊文化館で)
龍をかたどった船形のだんじり(牛窓海遊文化館で)

 朝鮮通信使の寄港は11度を数え、牛窓海遊文化館では、数百人に及んだ使節団の様子を模型や資料で紹介する。町で最後の船大工が手作りした木造船や、江戸、明治から使われる 豪奢ごうしゃ な船形のだんじりなど、展示品の数々から往時の活況が うかが える。

 井伏鱒二が何度か足を運んだ天神山や、牛窓神社参道途中の展望台など、瀬戸内の絶景を楽しめるポイントは多い。中でも地元の人たちの一押しは、やはり360度を見渡せる牛窓オリーブ園からの眺めだ、と聞いた。

海岸線に沿って、井伏が歩いた昔ながらの町並みが続く
海岸線に沿って、井伏が歩いた昔ながらの町並みが続く

 11歳で旧家の当主を継いだ服部和一郎が戦時中、山を芋畑に、との軍部の要請に対し「栄養があり、薬にも灯火にもなる」と代わりにオリーブを植えたのが園の始まりだ。

 現在は約2000本が栽培されており、「並木道を散策したり、搾りたてのオイルを試したり。眺望以外にも様々な楽しみがあります」と広報の田村美紀さん(57)は話す。

 定期船でわずか5分、 前島まえじま にも足を延ばしてみた。

前島の大坂城築城残石群。大小の石が江戸時代のままに散らばっている
前島の大坂城築城残石群。大小の石が江戸時代のままに散らばっている

 レンタサイクルを降り、山の散策道を分け入ると巨石群が見えてくる。徳川家が大坂城を再建した折に、材となる石を切り出した丁場跡が当時のままに残っている。大小の花こう岩には松江藩堀尾家や鳥取藩池田家などの紋が見て取れた。搬出経路など不明点が残り、想像をかき立てる。

 島の西側斜面には 夕陽ゆうひ 公園があって、観賞用のベンチが据えてある。美しい砂州で知られる黒島の向こう、落陽のさまが素晴らしく、時を忘れて過ごす人が多いらしい。

 ●ルート 新幹線で東京駅から岡山駅まで約3時間10分。JR赤穂線で邑久駅まで約25分。瀬戸内市営バスで牛窓まで約20分。

 ●問い合わせ 瀬戸内市観光協会=(電)0869・34・9500、牛窓オリーブ園=(電)0869・34・2370、牛窓海遊文化館=(電)0869・34・5505

[味]だしが利いたハモカツカレー

 牛窓出身の 焙煎士ばいせんし 、木下尚之さん(43)は、より良いコーヒー豆、未知なる味を求め、海外の産地にも足を延ばし、生産者と語らうこだわりの人だ。2010年、JR 邑久おく 駅近くで最初のカフェを開き、今では多くの店を展開する。

 地元産の新鮮な食材や自家製の調味料を使ったフードメニューも人気で、牛窓ヨットハーバー内の「港の中のキッサテン」((電)0869・24・8970)では「牛窓ハモカツカレー」(1540円)=写真=を試したい。季節の魚介のだし汁を使ったルーは、大きなハモのカツとの相性が抜群だ。有機分たっぷりの土で育った特別な米を 羽釜はがま で炊き、種々の取れたて野菜を使ったサラダが付く。

 牛窓オリーブ園内には焙煎機を備えたカフェがあり、海を眺めながら最高の一杯が楽しめる。

ひとこと…新たな楽しみも

 備前刀生産の中心、 長船おさふね が同じ瀬戸内市内にあり、近年の刀剣ブームも手伝い牛窓に足を延ばす人が増えつつあるそうだ。瀬戸内海が国内初の国立公園に指定されて今年で90年、夕暮れの海をカヤックで行くサンセット・トレイルや鯨の仲間、スナメリを題材にしたツアーなど、新たな旅の楽しみが注目を集めている。

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4983276 0 2024/02/04 05:20:00 2024/02/09 09:58:09 https://www.yomiuri.co.jp/media/2024/01/20240126-OYT8I50009-T.jpg?type=thumbnail

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