錯覚を起こさせるような強烈な「伝説」それが古今亭志ん生…池波志乃さんが語る祖父の思い出【志ん生没後50年】

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 昭和を代表する落語家、五代目古今亭志ん生が昭和48年(1973年)9月21日に83歳でこの世を去って今年(令和5年)で50年となる。破天荒な人生そのものが落語と言われ、天衣無縫などと評される高座で平成、令和の世になってもCDや書籍が売れ続けてきたレジェンドである。没後半世紀がたち、その高座を実際に知る人も少なくなったが、「名人伝説」はいまだ健在だ。俳優でエッセイストの池波志乃さんは志ん生の長男の十代目金原亭馬生の長女で、叔父は古今亭志ん朝という落語家一家で生まれ育った。「志ん生没後50年」連載の締めくくりとして、命日を前に池波さんに、祖父、そして父の思い出を聞いた。(聞き手、編集委員 千葉直樹)

漬物が大嫌いだった祖父との朝ごはん

  池波さんは昭和30年生まれ。そのころの志ん生は戦後、ラジオの落語番組の隆盛とともに人気者となり、31年には吉原の最下層の遊女屋を舞台とした「お直し」で芸術祭賞を受賞、翌32年には落語協会会長に就任している。

志ん生の思い出を語る池波志乃さん「おじいちゃんは毎朝、ごはんの時に私を迎えにきてました。漬物は大嫌い。見るだけでもだめでした」(秋元和夫撮影)
志ん生の思い出を語る池波志乃さん「おじいちゃんは毎朝、ごはんの時に私を迎えにきてました。漬物は大嫌い。見るだけでもだめでした」(秋元和夫撮影)

 西日暮里の志ん生宅と馬生宅は同じ大家さんの借地に1軒おいて立っていました。もともと親子は同じ家に住んでいましたが、あたしが生まれるので、別になりなさいということで借りたと聞いてます。志ん生の家の勝手口を出ると細い路地になっていて、その行き止まりにあたしの家がありました。

 おじいちゃん(志ん生)の最初の思い出は、朝ごはんです。家まで迎えに来て、あたしを抱っこして自分の家に連れてって、おばあちゃん(りん夫人)と3人でご飯を食べていました。あたしが歩くようになってからは、手をつないで行った記憶もあります。それが毎日だったのか、定かではないんです。おじいちゃんの気が向いた時だけだったのかもしれません。

 食卓ではおばあちゃんを間にはさんでおじいちゃんとあたしが座る。おじいちゃんはいろんなものを食べない人でした。朝は、みそ汁と納豆と、ご飯。それだけで、煮物があっても食べない。甘い煮豆は好きだった。お多福豆とか黒豆とか。大嫌いだったのは漬物で、これは見るだけでもだめ。上に載っけたら怒られるから、お膳の下の、おばあちゃんとあたしの間に見えないように置いてました。

 あんまりしゃべらない人で、騒ぐと叱られました。せっかく初孫を連れてきたのに、あたしはおもちゃ扱い。孫だから連れてきてみようっていう程度だったんでしょうか。だからこっちがいろいろなことを分かるようになって、しゃべり出したら、もう、うっとうしくなったのか、おじいちゃんが飽きたところで、3人の朝ごはんも終わりました。

初孫の志津子(池波志乃さん)の横で相好を崩す志ん生。ただし、池波さんいわく「あんまり孫をあやすとかはなかったんです」。だからこれは貴重な一枚かもしれない(池波志乃さん提供)
初孫の志津子(池波志乃さん)の横で相好を崩す志ん生。ただし、池波さんいわく「あんまり孫をあやすとかはなかったんです」。だからこれは貴重な一枚かもしれない(池波志乃さん提供)

 よっぽど機嫌がいいと、「不忍池にすんでいる主」の話とかを勝手にしゃべるんです。耳のある大ウナギの伝説みたいなね。こっちはそれを聞いてるだけ。ほかの家のおじいちゃんはどうなのかわかりませんが、うちのおじいちゃんとはキャッチボールの会話はしたことがありません。一方的に話して、聞いてるだけか、「おじいちゃん、おはようございます」ってあいさつすると「おっ」って言って終わりか、おばあちゃんと2人で話してるか。孫をあやすとかもなかった。どう扱ったらいいか分からなかったんじゃないですかね。

正月の床の間には鏡餅がずらりと並んだ

  初席がある噺家のお正月はにぎやかだ。年始のあいさつにくる一門の弟子だけでなく、いろいろな芸人や贔屓筋たちが、入れ代わり立ち代わりやってくる。

 おじいちゃんの家はあんまり人を家に上げなかったんですよ。家の中に鏡餅や羽子板が並んできれいなんだけど、特別な人でなければ誰でも上げて接待するってことはなかったです。お弟子さんたちはみんな玄関であいさつだけして帰る。あたしたちも、おめでとうございますってあいさつして、お年玉をもらって帰るんですが、廊下のところで手をついてあいさつしないと怒るんです。おじいちゃんは自分がだらしなかったくせにうるさいんです。

 床の間の前には鏡餅がずらっと並んでいた。お雛様みたいに2段か3段、台を作って並べるんです。真打ちから前座まで、寄席文字の師匠が名前を書いた紙を餅に1枚ずつつけて垂らす。真ん中の一番大きいのがおじいちゃんのでした。

 でも毎年その後が大変だったみたい。お餅が山のように残るでしょう。普通なら、鏡開きでお雑煮にしたり、干して砕いてかきもちにしたりするんでしょうけど、そんな量じゃないんです。だから、ホーローのバケツに入れて保存用の水餅にして、ずっとあるんです。おじいちゃんとこのお弟子さんはそれを毎日食べてたけど、かわいそうでした。

 馬生のうちは、お弟子さんも師匠家族と同じ物を食べてました。お正月には、テーブルを全部出してつぎはぎに並べて煮物とかお料理を出して、来た人にふるまってました。だから、よそのお弟子さんたちもしょっちゅう飲みにきてましたよ。

孫は役者の道へ…舞台で聞いた祖父の訃報

  志ん生が脳出血で倒れたのは昭和36年12月、池波さんが6歳の時だ。1年後に高座に復帰したが、右半身が少し不自由になり、弟子におぶわれて寄席に通った。志ん生の妻、りんも42年に倒れて療養することとなった。池波さんは高校在学中に演劇の道を志し、俳優小劇場養成所を経て新国劇に入った。

池波さんが18歳の時に志ん生は亡くなった。役者としてNHK連続テレビ小説「鳩子の海」で注目されたのは、祖父が亡くなった翌年のことだった
池波さんが18歳の時に志ん生は亡くなった。役者としてNHK連続テレビ小説「鳩子の海」で注目されたのは、祖父が亡くなった翌年のことだった

 養成所に入ったことをおじいちゃんに言ったら「おっ」て、それでおしまいだったんですよ。あたしは踊りや長唄のお稽古に行ってたんですが、「おじいちゃん、お稽古に行ってくるね」って言ったら、「どこ行くんだ」「いまさらお前、行くんじゃないよ」って言いだした。変だと思ったら、どうもあたしだとわかっていない。踊りをやっていた自分の娘と間違えたのか、ほかのどっかの女と間違えてたのか、よくわからないんですけど。「ここにいりゃいいんだよ」って言われたんですけど、晩年は時々そういうことがありました。

 役者になりたいっていうあたしの言葉を、何の反応もなく聞いていた、そんなおじいちゃんですが、あたしが新国劇に付き人兼研究生で入った時に、辰巳柳太郎先生、島田正吾先生から「おじいちゃんによろしく」って言われて、それを伝えたら、具体的な名前を聞いてようやくピンときたみたいで、その時だけは、とっても喜んでいました。ただ、あたしがまだ付き人の時代に亡くなったので、新国劇に入ったことだけは分かってくれたけれど、女優としての姿は知らないんです。

  おかみさんのりん夫人は昭和46年12月に74歳で亡くなり、志ん生は2年後の48年に83歳で亡くなった。2人の療養中には馬生一家が短期間だが、志ん生宅の一つ屋根の下で暮らしたこともあり、その後も馬生のおかみさんの治子さん(池波さんの母)らが両家を行き来して世話をしていた。池波さんは昭和53年に俳優の中尾彬さんと結婚するまで西日暮里の家に住んでいた。

 うちのお母ちゃんがしょっちゅうお世話に通っていたので、あたしは役者修業をしながら、母を手伝ってました。うちとおじいちゃん宅をみんなで行ったり来たりしてたんです。

志ん生の通夜。霊前でしみじみと故人を懐かしむ森繁久彌(左)と志ん生の次男、古今亭志ん朝(昭和48年9月22日)
志ん生の通夜。霊前でしみじみと故人を懐かしむ森繁久彌(左)と志ん生の次男、古今亭志ん朝(昭和48年9月22日)

 新国劇では舞台に出ながら付き人をして、それで何役もやりました。ちょうどそういう時におじいちゃんが亡くなった。新橋演舞場で訃報を聞きました。仕事が終わらなければ帰ってこられないから、知らせてもしょうがないって、うちからは知らせてこなかった。あたしは楽屋にあるテレビで知ったんです。付き人をしていた大先輩の方が「私はいいから、しいちゃん(志乃さん)、家に連絡しなさい」って言ってくれた。あたしも何役もやってるんです。通行人ですけど、抜けたら困る。でもまだ子供で17くらいだったので、慌てて家に電話したら、お父ちゃん(馬生)から「仕事中に何やってんだ」って怒られました。最後までちゃんとやってきなさい、って言われて。

 その日の舞台が終わり、楽屋を掃除して、いろいろやって夜に家に帰りました。おじいちゃんはお棺に入ってて、全部終わってるという感じでした。家から谷中の商店街の方までよその家の前も何十メートルも花輪が並んでいて、びっくりしました。で、落語家がわーっと集まってきて、取材の人もいっぱい来ていて、みんながワイワイしてお祭り騒ぎになってて、悲しいとかそういう状況になってなかったですね。

本人を実際に見た気にさせてしまうような伝説の逸話

  人生そのものが「落語」と言われた志ん生。飲む、打つ、買うの三道楽、世に言う「なめくじ長屋」での貧乏生活、借金取りから逃れるためとすら言われた十数回の改名、高座で居眠りした……などなど、天衣無縫、八方破れという評価とともに数々のエピソードは伝説として今も語り継がれている。

高座で座布団に座った志ん生のフォルムを「釣り鐘」と形容した人がいる。うまい表現だ(1963年頃撮影)
高座で座布団に座った志ん生のフォルムを「釣り鐘」と形容した人がいる。うまい表現だ(1963年頃撮影)

 今年が没後50年ですから、おじいちゃんが倒れる前のことを知ってるお弟子さんも、もういないです。それでもユーモラスな逸話が残っているのは、志ん生らしいのかな、って孫として思いますね。倒れたのはあたしが7歳になるちょっと前で、そこからまた復帰したんですが、小学生だったあたしはそんなにおじいちゃんのそばに行ってなかった。だから、お互いに記憶が抜けているんです。おじいちゃんもあたしと他の人を間違えたり、錯覚を起こしたりしたんです。

 普通じゃなかったっていえば、それまでなんですけど、病気で倒れたあとのお弟子さんたちは、行ったり来たりだったから、部分的で、印象的なところだけ、覚えているのだと思います。

 「志ん生師匠の高座見てましたよ」っておっしゃるファンの方も結構いらっしゃいます。年齢を考えると「うそだっ」て思うんです。でも、ご本人はうそをついてるんじゃなくて、錯覚を起こしてるんじゃないですか。酔っぱらって高座で寝ちゃった話がありますよね。そこにちょうどいたって人が何百人もいるんですよ(笑)。それを本気でしゃべってくださるんですよ。おじいちゃんは、そういうふうに思わせる人だったのかなって思います。逸話で聞いた話と、「らしいよね、師匠だったらそうだよね」とか、いろんなものがごっちゃになって構成されてしまうのかもしれません。いろんな噺家さんがいる中で、それが志ん生なんだと思います。だから、その人の夢を壊さないように、あたしはどの話を聞いても否定しないんです。

  池波さんは、2019年に放送されたNHK大河ドラマの「いだてん」や1981年のNHK特集「びんぼう一代」など、ドラマで志ん生のおかみさん、りん役を演じている。

自宅でくつろぐ志ん生(左)とりん夫人(右)。若いころにさんざん苦労をかけたおかみさんに、晩年は全く頭が上がらなかったようだ(昭和37年の読売国際ニュース映像より)
自宅でくつろぐ志ん生(左)とりん夫人(右)。若いころにさんざん苦労をかけたおかみさんに、晩年は全く頭が上がらなかったようだ(昭和37年の読売国際ニュース映像より)

 日暮里界隈の谷中にはお寺がたくさんあるから、都内なのにけっこう森があるんです。おばあちゃんは小鳥を飼ってて、あたしは子供のころ、森でミノムシを見つけて、糸でぶらさがってるやつを枝ごととってくる。あと、ハコベとかも摘んで「鳥のご飯もってきた」って行くと、お小遣いをくれたんですよ。だからおばあちゃんとは仲が良かったんです。

 志ん生一家の暮らしが楽になってからのおばあちゃんの雰囲気はよく覚えています。「いだてん」で演じた年代は、ちょうど昭和39年(1964年)、東京オリンピックのころです。あたしは小学校4年生ぐらいでしたから、その時のおばあちゃんのことはちゃんと覚えてるんです。その姿から、貧乏で苦労していた若い時分のおばあちゃんを演じるために、いろいろな人から聞いて自分の中で役作りをしていった感じです。

 NHK特集のドラマでは若いころのおばあちゃんも演じました。(立川)談志師匠が進行役でした。まだお父ちゃんが生きてたから、昔のことを聞ける人がいっぱいいました。でも聞き過ぎたので、錯覚を起こして自分が知ってる気になってたのかと思いました。

貧乏時代をささえた「糟糠の妻」、でもおばあちゃんは年取ってからは強かった

 「おりんさん」から見れば、志ん生という亭主はとんでもない人だったと思いますよ。うちのお父ちゃん(馬生)が「貧乏したのは家族で、本人はちっとも貧乏してない。しなくていい貧乏だったんだろう」って言ってました。どれだけ、自分本位だったかっていうことですよ。あの時代だから、なんだかんだお金は稼げるんです。でも稼いできても、全部飲んじゃうし、全部打っちゃう。預かった仕立て仕事の着物とか、御 贔屓(ひいき) さんがくれた着物を、みんな質に入れて流しちゃう。よくついていったと思います。

 どんなひどい時でも、落語の本は欠かさず読んで稽古だけはしていたから「いつかは絶対にものになる」って思っていたようですが、あの時代だから、そうでも思わなくちゃやっていけない。子供を育てなくちゃいけないし、今みたいに簡単に逃げられるんだったら逃げてたんじゃないかと思います。あの時代じゃなかったら別れていたと思いますよ。

病気から復帰し、弟子たちに付き添われ、りん夫人(後方)の切火に送られて寄席に向かう志ん生。(昭和37年の読売国際ニュース映像より)
病気から復帰し、弟子たちに付き添われ、りん夫人(後方)の切火に送られて寄席に向かう志ん生。(昭和37年の読売国際ニュース映像より)

 生活が安定してからのおばあちゃんはやたらに気前が良くなって、家に出入りする人には「持っていきな!」ってご祝儀を切りまくり、大福とか季節のおはぎとかを和菓子屋さんに頼むと、びっくりするくらいいっぱい頼んでみんなに配ってました。長い貧乏暮らしの時にはできなかったことをやりたかったんだと思います。若いころは周囲に「すみません」って頭下げて歩いてるばっかりだった。それをやらないで済むようになったら「爆発」しちゃったんじゃないですかね。

 おじいちゃんもかなり稼いだと思うんですけど、おばあちゃんがみんな使っちゃった。昔、どれだけひどい目に遭ったんだろうっていうのが想像つきますよね。

 おじいちゃんも年取ってからはおばあちゃんに頭が上がらなかったみたいです。おじいちゃんが、がっと怒っても、おばあちゃんは「何言ってんだい」って感じでやり返して強かった。おりんさんといえば「 糟糠(そうこう) の妻」で、従順そうなイメージで、昔はそうだったんでしょうけど、もう、家の中がちゃんとなってからは、仕返ししてましたよ。どなられるとおじいちゃんはしゅんとしちゃって、ぶつぶつ言って、黙っちゃいました。

 おばあちゃんが亡くなった時、おじいちゃんはおばあちゃんの顔を見るのを嫌がったそうです。「おかあさんの顔見てやんなよ」って言われたのに「ううん、いいんだ」ってものすごく怒ったらしい。いなくなったということが怖かったんだろうと、お父ちゃんは言ってました。おばあちゃんが亡くなっても涙を見せなかったんですが、その3日後にこんどは桂文楽師匠(八代目)が亡くなりました。テレビを見ていたおじいちゃんは泣いてましたね。おばあちゃんがいなくなったこととは受け止め方が違ったんでしょう。文楽師匠は良きライバル、良き友人でしたから、想像するに、もっと現実的だったと言うか。おばあちゃんの時は、その現実を見たくなかったんでしょうね。

「おやじさんに似ちゃだめだ」…先代馬生の葛藤

  池波さんの「お父ちゃん」は十代目金原亭馬生だ。志ん生一家が貧乏のさなかに生まれ、終戦前後には、満州(現中国東北部)に慰問に出かけて2年近くも戻って来られなかった父にかわって、なるはずではなかった落語家となり、長男として一家を支えた。「名人」と言われた父・志ん生と、若いころからサラブレッドとして脚光を浴びた弟・志ん朝の間にはさまれて苦労も多かったが、季節感と風情のある、滋味豊かでいぶし銀の芸風を確立。江戸後期から現代まで続く金原亭創始者の名跡を継ぐ名人となった。

10代目金原亭馬生。父、志ん生と同じく酒を愛したが、一気にあけてしまう父とは対照的で、コップ一杯の酒を時間をかけて味わっていたという
10代目金原亭馬生。父、志ん生と同じく酒を愛したが、一気にあけてしまう父とは対照的で、コップ一杯の酒を時間をかけて味わっていたという

 お父ちゃんは意識しておじいちゃんとちがうふうにしてたんじゃないかと思うし、同じ仕事をしているということは難しいと思います。こっちの方はどうってことないんですけど、おじいちゃんの方が避けてるっていうのか、「まったくお前は、理屈っぽいんだ」って感じで、あんまりべたべたしなかった感じです。それが、おじちゃん(志ん朝)になると、おじいちゃんにとっては、もう孫みたいな感じなんですよ。年がいってからできた子供で、若いころは役者もやってたから、かわいくてしょうがなかったんでしょう。

 役者の場合、年齢でライバルにはなりえない。でも噺家って関係ないじゃないですか。同じことをやってる、まったく対等のものなので、その辺が難しいと思うんです。最初は弟子みたいな感覚でも、あるところで似てきたら嫌なんです。自分の悪いところを見るみたいで。踊りでもそうですが、弟子にまねされるのはすごく嫌なんです。

 例えば、物まね芸の人は、その人の見た目のおかしなところというか、特徴なんかを誇張(デフォルメ)する。それと同じで、師匠が好きで、師匠のまねをしようとすればするほど、師匠はその弟子が嫌になるんです。自分では欠点じゃないと思っていても、それを誇張されるって嫌じゃないですか。これは個人芸の、親子の難しいところと思うんです。 一生懸命やっても親の方が嫌がる。そういう状態を起こしてたんじゃないかと思います。

 そして息子は親と比べられる。「あんな大師匠なのに」って、それでどうやっても上に上がれない。だから、似ちゃだめだ、というジレンマがたぶん、お父ちゃんにはあった。その心境は想像するに複雑すぎます。役者になったから私なりに解説をつけましたけど、余計に似ないようにしてた。性格も本当に違ってた。子どもの頃から苦労させられたから、父親のこんなことはやらないようにしよう、まねしないようにしようって思っていたんですね。

  勉強熱心で 緻密(ちみつ) で繊細、十代目馬生にはそんなイメージがあるが、弟子たちに言わせると、晩年は芸風が父・志ん生に似てきて、おおらかでぞろっぺい(だらしがなかったり、しまりがなかったりするさま)になってきたという。昭和53年「落語協会分裂騒動」の時には協会幹部として、そして協会脱退を決めた三遊亭円生(六代目)と行動を共にしようとしていた志ん朝(最終的に協会に戻る)の兄として、両方の立場から騒動収拾にあたった。昭和57年9月13日、食道がんのため54歳の若さで亡くなった。

「親子で性格も違っていたし、おやじさんのまねはしないようにしよう、っていう思いがお父ちゃんにはあったんでしょうね」
「親子で性格も違っていたし、おやじさんのまねはしないようにしよう、っていう思いがお父ちゃんにはあったんでしょうね」

 晩年は「志ん生の息子」という呪縛がとけたんじゃないですか。乗り越えるとそうなるんでしょうね。持ってる「質」は同じだったのかもしれない。志ん朝おじちゃんに対しても、自分とは10歳も離れていたから、弟というよりも子どもみたいにかわいがってました。おじちゃんの方も「あんちゃん、あんちゃん」って慕っていました。落語界の分裂騒動の時は兄弟で反目してけんかしてた、みたいに世間で言われてますけど、事実はそうじゃなかった。「あんちゃんどうしよう」って、ちゃんとうちに相談に来てたんですよ。お父ちゃんは「そんなことしたら、志ん朝が悪く言われる」ってそればっかりでした。「戻って来らんなくなるよ、つぶされないように」って、末のことを心配してました。あたしはその時、もう結婚してましたが、兄弟で夜中までそんな話をしてるのを夫の中尾(彬)も聞いてるぐらいですから。難しいですね、同じ商売って。

父の最期を看取れず「ああ、またか」

 お父ちゃんが亡くなった時、あたしは中尾と一緒の仕事で、広島に行ってました。もう危ないと思ってたので、出かける前に「行ってくるね」ってあいさつに行ったら「ご苦労さん」って言ってくれた。もう起き上がれなかったですけど。それで、旅先で台風がきてしまい、帰り道で新幹線がとまっちゃった。なんとか名古屋まで戻って、飛行機が取れたのでそれで帰れたんです。

 その時はもう亡くなっていたはずなのに、東京から知らせてこないんです。あたしから電話して「飛行機取れたから帰るけど、お父ちゃんの具合どう?」って聞いたら、電話の向こうのお弟子さんに「仕事終わったの?」て聞かれて。「終わった」って言ったら、「じゃあ、言うけど、お父さん亡くなった」。

 ああ、またか、って思いました。おじいちゃんが亡くなった時に「電話してくるな」って怒ったのはお父ちゃんですから、本人の時もおんなじでしたね。

(志ん生没後50年連載おわり)

(おことわり、この連載は「昭和の名人の記憶」がテーマのため、年数の記載にあたっては西暦より元号表記を優先しています)

  ここんてい・しんしょう  五代目。本名・美濃部孝蔵。明治23年(1890年)東京・神田の生まれ。15歳で家を飛び出し、遊蕩生活を送る間に20歳で三遊亭小円朝(二代目)に入門、若いころからの、飲む、打つ、買うの三道楽で家族は極貧生活を強いられた。借金取りから逃れるためと言われたほど繰り返した改名は十数回。昭和14年に志ん生を襲名して評価は高まり、戦後のラジオ放送全盛期に大人気となる。昭和31年(1956年)に、吉原の最下層の遊女を描いた「お直し」で芸術祭賞を受賞し、翌年に落語協会会長に就任。豊富な持ちネタと自由闊達な芸風で昭和の名人と呼ばれた。36年に脳出血で倒れたが1年後に復帰し、弟子に負ぶわれて寄席に通った。43年10月を最後に高座には上がらず、48年9月21日に83歳で死去。

  いけなみ・しの  昭和30年(1955年)、十代目金原亭馬生の長女として東京に生まれる。放送部の活動をきっかけに音楽や演劇への興味が湧き、高校を中退して俳優小劇場養成所に入所。その後新国劇に入団し、48年新橋演舞場「決闘高田馬場」で初舞台。49年NHK連続テレビ小説「鳩子の海」で注目され、以降「悪魔の手毬唄」「鬼平犯科帳」など映画、テレビドラマ、舞台などで活躍。1978年にはテレビで共演した中尾彬と結婚。芸能界のおしどり夫婦として知られる。

志ん生のニュース動画はこちら(昭和37年、読売国際ニュース717号)

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4544382 0 伝統文化 2023/09/16 08:00:00 2023/09/16 08:00:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2023/08/20230821-OYT1I50085-T.jpg?type=thumbnail

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