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【古今亭志ん生没後50年】連載5回目はこちら、動画もあります
昭和を代表する落語家、五代目古今亭志ん生が昭和48年(1973年)に83歳でこの世を去って今年(令和5年)で50年となる。破天荒な人生そのものが落語と言われ、天衣無縫などと評される高座で平成、令和の世になってもCDや書籍が売れ続けるレジェンドである。没後半世紀がたち、その高座を実際に知る人も少なくなったが、命日の9月21日を前にゆかりの人々の思い出話などから、今なお、落語ファンの心に残る「昭和の名人」の魅力を考える。(編集委員 千葉直樹、敬称略)
最初は誰が言ったか知らないが、フォークの名曲をもじって「志ん生を知らない子供たち」--。志ん生の流れをくむ一門の落語家は60人を超すが、その多くは志ん生の高座には間に合っていない世代だ。
師匠と大師匠からもらった名前…「“志ん”の字は高いんだよ」
中堅、若手の
コロナ禍で寄席や落語会がなくなったことがきっかけになって令和3年(2021年)に始まった会は、まず配信で行われ、その後は有観客になった。平成6年に先代古今亭円菊に入門した古今亭菊志んは、会の中心メンバーの一人だ。
「大学時代は落研(落語研究会)でしたが、そのころは(春風亭)小朝師匠や(八代目橘家)円蔵師匠(=円蔵襲名前は月の家円鏡)など、分かりやすくて聞き取りやすい落語家が好きで、志ん生師匠の魅力はよくわかりませんでした。円菊が志ん生師匠の弟子だということは知っていましたが、その程度のもんですよ。志ん生師匠のことは本やテレビなどで知るということが多かったです」
入門14年目に真打ちに昇進し、「菊朗」から「菊志ん」へと改名したが、その名前には師匠・円菊の「菊」と大師匠の志ん生の「志ん」をもらった。
「師匠は志ん生の弟子ですし『志ん◯』という名前になりたかったそうです。でもいろいろ事情があって、なれなかった。私は二ツ目のときにそんな話を聞いてたので、師匠が『志ん』という字に思い入れがあるのは知ってました。それで、私が真打ちになるときに、師弟でこんな会話がありました」
師匠「キクシンってのはどうだ?」
弟子「……どんな字でしょうか?」
師匠「にんべんに申すだ」
弟子「はあ」
師匠「しゃべる仕事だから、人が申すの菊伸でちょうど良いじゃないか」
弟子「……はあ」
師匠「あまり気に入ってないみたいだね」
弟子「…すみません。」
師匠「だけど、志ん生の『志ん』は高いんだよ」
これは「お金を取るぞ」という意味だ。もちろんシャレだが、驚いた菊朗は、即座に「お願いします!」と頭を下げていた。
「師匠には『じゃあ、そうするか。でも、『志ん』の字をつけたらいい噺家にならなくちゃいけねえぜ』って言われました。私としてはこれ以上ない名前に決まりました。師匠と志ん生師匠の顔に泥を塗らないようにと思っています」
同じく「志ん生の孫」に出演する二代目の古今亭志ん五は、志ん生の内弟子をしていた初代志ん五(平成22年没)の弟子で、志ん生が亡くなって30年後の平成15年に入門した。
「(志ん生自伝の)『びんぼう自慢』を入門前に読みました。こんな壮絶な人生の人がいるんだって。伝記を読んで落語家になったようなもんです」と話す。
志ん五と同じ年に落語家になった五代目桂三木助は、三代目三木助(昭和36年没)の孫だ。「祖父の日記を読んでいて『志ん生氏の落語はうまい』と書いてあった。落語とか、名人とかを調べると志ん生師匠の名前が出てくる。画像を見るとすごくおじいちゃんじゃないですか。どんなことやってるんだろうとか、そういうことから私は入っていきました」
「芝浜の三木助」と言われた祖父は、若いころは賭場通いが止まらず、「隼(はやぶさ)の七」という異名もあったほどだった。
「志ん生師匠はいろんな伝説を地で行っていて、それが芸に表れているからすごい。うちの祖父も高座での
志ん五は48歳、三木助は39歳。志ん生没後に生まれた世代にとって、志ん生はまさしく「伝説の人」なのだ。
「子別れ」に感動して落語家に…志ん生のひ孫は売り出し中の二ツ目
彼らよりさらに世代が若くなって、平成25年(2013年)に十一代目金原亭馬生に入門した金原亭小駒は28歳の二ツ目だ。明るくて端正な高座が持ち味で、本名は美濃部清貴という。母方の祖父が十代目馬生(美濃部清)で、志ん生(美濃部孝蔵)は曽祖父にあたる。つまり志ん生の「ひ孫」だ。ちなみに大叔父は古今亭志ん朝(美濃部強次)で、芸能界のおしどり夫婦として知られる俳優の中尾彬・池波志乃はそれぞれ伯父、伯母という、芸能一家に育った。
「祖父(先代馬生)は自分の仕事に家族が入っちゃいけないっていう考えがあって、寄席に家族が来るのは禁止。それぐらいだからあたしが子供のころ、家の中に『落語』はあまりなかった。どちらかというと、『中尾彬が親戚なんだ』ということに気付いたのが先でした」
それでも小学校に上がると、自分が昭和の名人の家系に生まれたということを自覚することになる。
「法事で、すごく人が多かった。誰の法事だったかは覚えてないけれど、へらへらしたおじさんたちがいっぱいいるんです(笑)。みんなすごく楽しそうで、ウケてるんですよね。これは普通じゃないと思った。噺家とはどういうものか分かったのもこのころです」
幼稚園や小学校の学芸会などの劇で、お母さんたちにドッカンドッカンと受けた。「楽しいな」と、小学校3年生で劇団に入った。SMAPのテレビ番組への出演や、映画で大きな役をもらったこともある。そんな子役生活も旬を過ぎ、将来はどうしようかと考えていた高校生の時、落語家になろうと決意させる強烈な出来事があった。
「2年生の時、高校に学校寄席が来ました。古今亭志ん輔師匠が『子別れ』をやったんです」
志ん輔は昭和47年に古今亭志ん朝に入門した。志ん生の孫弟子である。「子別れ」は親子の情愛に満ちた人情噺だが、長尺もので、「子は鎹(かすがい)」と呼ばれる「下」だけでも大ネタである。
「周りの友達がみんな噺を聴いて泣いていました。僕も、すごいなと思って、終了後に会場のロビーでぼんやりしてたら、たまたま志ん輔師匠が出てきた。その時に『あの、美濃部です。感動しました!』って話しかけていた。向こうはきょとんとしてたけど、この時、僕の将来は決まったんです」
同じ伝統芸能でも、多くは世襲である歌舞伎と違って、落語は自分が
どの師匠に入門したらいいのか。悩んだが、子供のころから面識があって世話になっていた十一代目馬生に、高校3年生の秋に入門した。
見習いを経て20歳間近で前座になった。そのころは大きなしくじりも多かったという。師匠のお供で旅(地方の仕事)に行く時に、途中から合流するはずの新幹線に乗り遅れたことがあった。飲酒は禁止の前座なのに、仲間を誘ってこっそり飲みに行き、酔いつぶれて、朝になって気が付いたらなぜか母親の友達の家にいたことも。一緒にいた前座仲間もヘベのレケになって、お互いの師匠にばれてしまった。
「子役って、事務所に所属してその事務所からオーディションの話が来て、受かったら行って演技する、個人プレーみたいな世界です。だから、人間関係で深くもまれることはなくて、上下関係というものもよくわからなかった。まだまだ未熟でした」
時代が変わってもだれでも笑えるギャグ
小駒が生まれたのは平成7年(1995年)。曽祖父の志ん生が亡くなって22年、祖父の馬生が亡くなってから13年たっていた。「志ん生のひ孫」とか「サラブレッド」とか言われることについてどう思っているのか。
「自覚がないって叱られるかもしれませんが、正直、何にも思うところはないんです。サラブレッドと言われることについては、これはこの一家に生まれてきたから変えることができない。大事なのは曽祖父や祖父の芸に泥を塗らないこと。先代が作ってきたものに泥を塗りたくないっていう気持ちはすごく強いです」
同じ落語家として、芸人・古今亭志ん生をどう見ているのか。
「あの独特の空気感は、稽古だけじゃ出せないですよね。マクラで使っていた地口(
小駒によると、美濃部家には「三度の飯が食えなくても好きなことを見つけなさい」という言葉があるそうだ。
「飯より好きなことを見つけなさいっていう意味です。好きなことさえ商売にできれば、こんな楽しい人生はないでしょう。今のあたしもそんな心境です。まあ、ぎりぎり食えてるから言えるのだと思いますけれど。たぶんこの世界以外の常識は受け入れられなかったかもしれません」
末広亭9月中席は「志ん生追善興行」
志ん生の命日を前にしたこの秋、新宿末広亭の9月中席(11~20日)で「没後50年追善興行」が開かれている。一門の落語家、色物芸人だけが10日間昼夜に出演。日替わりで、ゆかりのゲストを招いての座談会も好評だ。
追善興行の番頭(統括役)で先代円菊門下の古今亭菊之丞が経緯を語る。「本来は50回忌をやらなければいけなかったのですが、コロナ禍で身動きがとれなかった。でも、志ん朝師匠の23回忌や先代円菊の13回忌など、法事が重なっている今年に大先輩の追善が営めることは良かったと思います。みんな志ん生師匠の芸にはとてもかなわないが、一門として同じスピリットを持っている。出られる人は全員出そうということで計画しました」――。昭和の名人のDNAは、「志ん生を知らない子供たち」によって、次代にも受け継がれるはずだ。
(おことわり、この連載は「昭和の名人の記憶」がテーマのため、年数の記載にあたっては西暦より元号表記を優先しています。敬称略)
ここんてい・しんしょう
五代目。本名・美濃部孝蔵。明治23年(1890年)東京・神田の生まれ。15歳で家を飛び出し、