『アルフレッド・ウォリス 海を描きつづけた船乗り画家』塩田純一著(みすず書房) 4950円
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船や港 荒々しさと静けさ
評・栩木伸明(アイルランド文学者・早稲田大教授)
イングランド南西部、コーンウォール半島のほぼ先端にセント・アイヴスがある。芸術家に愛されたこの港町は、陶芸家バーナード・リーチが日本式の登り窯を築いたことでも知られる。本書は、リーチが陶板絵画で墓碑を飾った、「芸術家にして船乗り」アルフレッド・ウォリス(1855~1942)の生涯をたどる評伝である。
かなり年上で、5人の子どもを抱えた女性と結婚したウォリスは、家計を支えるため漁船に乗り組み、後には中古船具店を営んだ。そして妻が高齢で死去した後、70歳の孤独の中で、自分のために絵を描きはじめた。画法は独学、厚紙に船舶用ペンキで描かれた船や港町の絵には、荒々しさと静けさが同居している。
ウォリスは長年、家族に起因する被害妄想に苦しんでいたとされるが、その種の不安は表現しない。若い頃に親しんだ多種多様な船や港湾の、「むかしそうだった姿」だけをせっせと描く。遠近法は無視され、記憶の中で重要視されるものが大きく入念に描かれている。
著者は絵を一点ずつ、じっと見つめる。灯台や窓にともる明かりに目を留めて夕暮れの空気を味わい、セント・アイヴスの屈曲した坂道を歩く実感を追体験し、現地を訪ねた記憶に助けられて、港内に塗られた褐色の意味を知る。さらには、ウォリスがある時期から船を画面に斜めに置くことに注目し、荒海を行く船上での身体感覚を鑑賞者に伝えようとしたのだ、と報告する。著者の眼力にいぶし銀の魅力を感じた。
ウォリスが近所の人々に進呈した作品の多くは消失したが、若い前衛画家たちと彼は、相互に影響を与えあっていたらしい。ベン・ニコルソン夫妻をはじめとする画家や美術館関係者たちによって、彼の絵の芸術的価値が「発見」されたのは幸運だった。ウォリス絵画のまとまったコレクションが、大学町ケンブリッジの小美術館に収蔵されているという。ケトルズ・ヤードという館名を、〈ポスト・コロナの行きたい場所リスト〉にすかさずぼくは書き込んだ。