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今年は聖徳太子(
聖徳太子はひと昔前まで、間違いなく日本で最も有名な歴史上の人物だった。何しろ昭和5年(1930年)の百円札以降、昭和59年(1984年)に1万円札の顔を福沢諭吉(1835~1901)に譲るまで7度も紙幣の顔になり、日本人は太子の顔を見ずには暮らせなかったのだ。
戦後の新円切り替え以降も、最高額の紙幣の肖像は諭吉の登場まで、ずっと太子が独占していた。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は終戦後、「軍国主義や神道などを象徴している」として、戦前の紙幣の肖像を次々に使用禁止にしたが、聖徳太子はただ一人生き残った。日本銀行総裁だった
これほど有名な太子の肖像画だが、この人物が本当に太子なのかどうかは、はっきりしない。紙幣の肖像の原画となった「聖徳太子二王子像」は日本最古の肖像画といわれ、原本は皇室の御物となっているが、いつ、どんな経緯で、誰を描いたのかは、実は解明されていないのだ。「描かれている人物は太子ではないのではないか」という疑問は、すでに880年前に出されているのだが、「太子信仰」のシンボルとなったこの絵には、後世に引き継いでいくために付け加えられた由来がある。太子像の謎に迫った大阪大学名誉教授・武田佐知子さんの『信仰の王権 聖徳太子』をテキストに、その経緯をたどってみよう。
唐か百済か…早くから言われた「絵の作者は日本人ではない」
紙幣の肖像の原画となった「聖徳太子二王子像」は、
この絵には「
その疑問を最初に文書に残したのは、平安時代の学者、
「太子の
審美眼がある親通は、絵を見た感想をこう記している。衣装に陰影をつける画風や、本人の両脇に二人が並ぶ構図は唐のもので、俗人姿の太子の衣装は日本のものとは思えないことに、違和感を持ったことは想像に難くない。寺側は唐人が描いたからだと説明したのだろうが、ならばなぜ太子を描いたのか、なぜ絵が唐ではなく、法隆寺にあるのか。不可思議なことが多い。これは改めて詳しく見なければならないぞ――。
この時点では「聖徳太子二王子像」は法隆寺の寺宝を記録した『法隆寺
太子が「応現」した姿描く…法隆寺の僧が示した二つの説
寺側が親通の疑問に答えを出したのは、100年近く後になってからだった。法隆寺の再興に力を尽くし、寺の幹部(五師)のひとりだった顕真(生没年不明)が、嘉禎4年(1238年)から建長7年(1255年)ごろにかけて書いた『聖徳太子伝私記』(上、下巻)の中で、「この絵は来日した唐人が『応現』した太子の姿を描いたのだ」と説明している。
「応現」とは、仏が世の人を救うため、機縁(相手の性格や力量)に応じて姿を現すことをいう。太子は、唐人の機縁にあわせて唐人姿で現れた。唐人は唐人姿の太子の絵を2枚描き、1枚を唐に持ち帰り、1枚を法隆寺に残したという。一応、
「阿佐太子の前に聖徳太子が応現し、その姿が描かれた、という話も、宋に渡った経験がある聖人から聞いたことがある」
「阿佐太子御影」の異名の由来は、この時に初めて登場した。顕真が話を聞いた聖人とは、当時朝廷の最高実力者だった関白・九条道家(1193~1252)の兄、慶政(1189~1268)のことだ。道家が聖徳太子に傾倒していたこともあり、当時の慶政は九条家の後ろ盾を得て法隆寺の興隆に尽力していた。宋(中国)に渡った慶政が、「聖徳太子が2歳の時に手のひらから現れたという仏舎利を拝観したか」と聞かれ、とっさに「拝観した」とうそをついたことを悔いて、帰国後に法隆寺に舎利殿を建立したという逸話がある(『聖誉抄』)。ちなみに舎利殿では、今も毎年正月に開かれる「舎利講」で、舎利を収めた五輪塔が公開されている。
寄進集めのため? 京の出開帳で披露されたストーリー
慶政は法隆寺の寺宝も修復し、京都に運ばれて、嘉禎4年に朝廷や貴族、さらに京都にいた道家の子で鎌倉幕府4代将軍の九条頼経(1218~56)らにお披露目(出開帳)されている。「聖徳太子二王子像」も表装の張り替えが行われ、説明役の顕真とともに、貴族の屋敷を回った。出開帳は貴族からの寄進集めも目的だったから、太子の絵に違和感を持たれては困る。武田さんは、阿佐太子作者説は慶政と顕真が示し合わせて創作し、出開帳にあわせて披露された話だろうと推理する。
顕真はこの時に、もうひとつ仕掛けをしている。聖徳太子には愛馬の「甲斐の黒駒」に乗って富士山頂まで飛翔したという伝説があるが、顕真は『聖徳太子伝私記』の下巻で、この馬を世話していた調子丸という若僧は、実は朝鮮から遣わされた聖明王の宰相の子なのだ、という“新説”を唱えた。そのうえで、われこそはその調子丸の直系の子孫だ、と言い出したのだ。
この結果、「聖徳太子二王子像」は仏教伝来にかかわる聖明王ゆかりのありがたい絵となり、出開帳は、その絵の由来を聖徳太子ゆかりの王族の子孫が解説してくれるありがたい場となる。太子の衣装に対する違和感は吹き飛び、太子の肖像が本物かどうかを疑う人はいなくなり、感激した貴族から多くの寄進が集まったことだろう。
当時、太子信仰の中心寺院としては大阪の四天王寺の方が多くの信者を集めていたという。顕真は「聖徳太子二王子像」を太子信仰の核に据え、四天王寺に対抗しようと考えたのかもしれない。武田さんら多くの研究者は、調子丸の子孫を名乗った顕真には、自身の法隆寺内での地位向上を図る狙いもあったと指摘している。
だが、顕真は自らの利益や栄達のために動いたわけではない。彼の努力がなければ法隆寺の今はなく、寺宝も朽ち果てて今に伝わることはなかったかもしれない。太子については十七条憲法や遣隋使の派遣、冠位十二階の制定といった業績をすべて否定する説もあるが、古代日本の草創期に重要な役割を果たしたことは間違いない。少なくとも、肖像画の真偽を非存在説と結び付けるのは短絡的に過ぎるというべきだろう。
太子、諭吉、栄一「1万円札の顔」3人の不思議な縁
福沢諭吉に代わって2024年から1万円札の顔になる渋沢栄一(1840~1931)は、100年前の聖徳太子1300年忌で奉賛会の副会長を務めている。勤皇の志士で水戸学を学んだ栄一は当初、「日本古来の神道を軽視して仏教を広めた」として協力を拒否したが、周囲の説得で誤解を解いたという。実は仏教に深く帰依していた諭吉とともに、1万円札の3人には不思議な縁があるようだ。
「聖徳太子二王子像」(「唐本御影」)は、奈良国立博物館で開催中の特別展「聖徳太子と法隆寺」で原本(御物、宮内庁蔵)が5月16日まで展示され、18日からは模本が展示される予定だ。最近は見なくなった旧1万円札を思い出すもよし、1000年以上にわたる絵の因縁に思いをはせるもよし。展覧会の場で新型コロナの鎮静化を願って手を合わせても、誰も不可思議なり、とは思わないのではないか。
観覧には事前予約が必要だ。詳しくは こちら で確認いただきたい。
主要参考文献
武田佐知子『信仰の王権 聖徳太子 太子像をよみとく』(1993、中公新書)
桑野梓「法隆寺僧顕真と聖徳太子勝鬘経講讃像」(2013、関西大学東西学術研究所紀要)